源流

 古代のシュメール文化やその後の中東や中央アジアの遺跡から発掘された遺物を見ると、日本の文化の源流と感じることがある。造型も色彩も似通うところが見られる。
 もちろん詳細にわたるならば相違点が多く、決して同じではない。あくまでその根幹となるものの共通点が見えるということである。
 文化について語るとき、私たちは常に繋がりを考えるべきなのだ。そしてそれも複数のルーツを持つことを忘れるべきではない。それの源流に敬意をはらえばまた新しい影響を得られるはずだ。

客席の距離

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 北海道日本ハムファイターズの新しい本拠地になるエスコンフィールド北海道のファールゾーンが規定違反であるということが分かった。今後是正するということだが、この問題は別の視点から考える必要がある。

 ホームベースからバックネットのある場所までの距離が3メートルほどたりないという。3メートルといえばかなりの距離だ。面積で考えると相当な広さになる。野球の試合のなかでこの空間で活躍するのは捕手であるが、彼らがファウルフライをとることでアウトにする確率を相当減らすことになる。一方、ワイルドピッチやパスボールの後の処理はこの部分の面積が小さいほうが有利だ。攻撃側にも守備側にも影響があることになる。

 捕手出身の解説者にはファウルゾーンが狭くなることに反対な人がいる。パスボールの時のリスクはあるが、それよりもファウルフライを捕ることで活躍できる機会の方が多い。ファウルを打たせることを配球の要素にしている捕手ほど、面積が狭いのは困るのだろう。投手にとっても同じだろうが、中にはあまりファウルゾーンが広いと距離感をつかみにくく投げにくくなるという意見もあるようだ。

 選手にとっても様々な意見があるが、プロ野球として考えなくてはならないのは観客の視野性と収益の問題だろう。客席とバッターボックスの距離が近いほうが、観客の満足度は上がるはずだ。コロナによる無観客試合で分かったが、打球音や選手の声などが聞こえてくるのは新鮮だった。近いほうがいいと言えそうだ。さらに、グラウンドを狭くした分だけ客席が確保できるのなら、高額な座席設定をして収入を上げることが可能だ。プロである以上、この点は見逃せない。

 アメリカの球場はこの規定は推奨扱いになっている。エスコンフィールドの失敗も球場設計をアメリカの会社に委託したことによるらしい。試合を見せて金を稼ぐプロ野球に特化するならば、日本の規定を変えるべきではないだろうか。そんな視点を与えてくれたのが今回の設計ミスの効用かもしれない。

手の演技

 演劇に関しては素人だが、演技について時々とても気になることがある。そのうち手の演技について少々記す。

 演劇では所作によって感情の表現をすることが多い。精神を体現する手段だ。人が何を考え感じているのかは外側からは分からない。でも表情や身振り手振りでおおよそは察することができる。目が潤んでいるとか、小刻みに震えているとかすればそれだけでその人物が何らかの強い感情にとらわれているということになる。

 しかし、こうした細かな身体表現は遠くの客席からは分からない。そこでデフォルメが行われることになる。原則的に無言劇であるバレーでは感情表情がある程度定型化している。あの動きはどの感情を表すのかが決まっている。能や歌舞伎などの伝統的演劇にも所作の型がある。中には非現実的な動きもあるが、型だと思えば受け入れられる。

 現代劇やドラマでも型はある。照明やテレビ中継の技術の進歩により、現代の俳優は細かい演技が可能になった。流す涙の筋までカメラが追いかけてくれる。それでも型が必要なのは、分かりやすい表現が求められるからだ。

 身体表現の中でも印象的で理解しやすいのが手の演技だ。清岡卓行氏の文章ではないが、手には無限の表現の可能性がある。それをどう活用するのかが役者の技能だ。若い俳優はそれが未開拓であり、ベテランには巧みな人が多い。

年賀状の準備

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 年賀状の印刷の受付を知らせる広告が出始めた。印刷されたはがきもすでに店頭に並び始めている。今年はどうしようか。

 虚礼だなどといわれて減り、ネットの普及とともに年賀状は過去の遺物になりつつある。それでも実物のもつ意味は消えないはずで、本当に挨拶をしたい相手にはやはり紙のはがきがいい。本当は手紙の方がもっといいが、さしあたり安否を伝えるだけでいいのならばはがきがいいのだ。

 私はあまり多くの枚数を出さないかわりに、すべて手書きで行ってきた。しかし、今年はどうしよう。もう出さないという手もあるし、印刷してとにかく送ってしまうという手もある。日々疎くなりつつある旧知の人々に、せめてまだ生きていることを伝えることで、自分自身の存在理由を確かめられるのなら、やはり出しておこうか。

 悩んでいる。

好きなこと

 何かをするときに自分が好きだと思うことと嫌いだと思うことでは同じことをしても成果に違いが出る。嫌いだと思わないことが力を伸ばすコツということになる。

 それなのに日本の教育には勉強を嫌いにする要素が多い。成績で単純に評価したり、他人と比べることばかりさせる。大切なのはその時の成績ではない。学び続ける意欲を掻き立てることなのだろう。

 学びに向かわせるためには評価の方法を根本的に変えることだ。他人と比べるのではなく過去の自分と今の自分とを考えさせどれほど変化できているのかを褒めたほうがいい。そして学べばそれだけの実りがあることを実感させるのだ。

 今の現場では難しいが、それでもやってみたいことはある。

誤爆なのか

 ロシアのミサイルがポーランドの領土に着弾し、死者が出たという報道が流れた。NATOの同盟国への攻撃ならば戦局が拡大してしまう。冷静に対処していただきたい。

 いろいろな可能性を今の時点では考えるべきだ。意図的にポーランドを狙うことは今のロシアの国情からは考えにくい。ミサイルの不具合だろうか。もしかしたらウクライナの放った防御ミサイルかもしれないし、その両方かもしれない。ハイテク機器といってもミスはある。それが悲劇を生む。

 いずれの可能性にしても、直ちに軍事報復に訴えるべきではない。ロシアのミサイルであると判明すれば、被害者としての交渉が可能になる。第三者としての立場を超えられるかも知れない。

 ロシアに通常兵器で攻撃を仕掛けてはならない。すでに国力が疲弊している状況で冷静な判断が首脳部に残されているのだろうか。ロシアが仮に敗北したとしても、それは世界全体としては損失になる。ウクライナ侵攻を中止させ、補償を遂行させる約束を取りつけることで終わりにするべきだろう。

 もっともこのようなことを言えるのは遠い国に住んでいるからかも知れない。犠牲になった人の無念を感じられる地域の人は簡単にはいかない。戦争は憎しみを連鎖してしまう。だから、どこかで止めなくてはならない。

反実仮想

 「まし」という助動詞を教えるとき、気がついたことを書き残しておくことにする。

世の中にたへて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

 この歌の解釈に反実仮想の概念が必要になる。世の中に全く桜がなかったならば、というのは事実に反することだ。日本人は桜に関する執着が強く、あちこちに植林してきた。虫害に弱く、様々な病気にかかりやすい桜を敢えて植え続けてきた。

 春の人の気持ちはのどかであろうに。この推量が反実仮想の仮想に当たる。そもそもありえないことを想像しておいてさらに想像を重ねるのがこの助動詞の役割りだ。

 私たちはどんなときに想像の翼を広げ、どんなときに幻想の世界に遊ぶのだろう。「まし」の用法を理解するためにはこの疑問を考える必要がある。反実仮想せざるを得ない切羽詰まった状況を考えるべきなのだ。

 機械的に文法の知識を教えるのはたやすい。しかし大切なのは言葉の持っている背景を察してもらうことだ。

日韓首脳会談

 ようやく日韓首脳会談が行われた。両首脳とも国内では支持率の低下に苦しんでいるが、一歩を踏み出した勇気に素直に称賛したい。

 両国が互いをライバルと考えるのはよいことだ。世界的視野で見れば殆ど似ている関係にある。似ているからこそ争える。かつては植民地支配という不幸な時代があった。今は対等だ。韓国は日本を凌駕することを目指すべきであり、日本は韓国の成長に負けるべきではない。

 ただ、敵であってはならない。地政学上、日韓は自由主義国家としては孤立している。北朝鮮は一向に軍事支配を捨てない。中国の共産党も相容れない政策を続けている。日韓はその国家に包囲されていることを忘れてはいないか。

 韓国ではいざというときには日本の批判をすれば株が上がるらしい。日本にその傾向はないが嫌韓を話題にすると売れるという残念な風潮がある。しかし本当の脅威は何かを考えるべきだ。どうも離間の計にはまっている気がしてならない。 

第三希望

 時々思い出してはとらわれてしまう感慨がある。今自分がやっていることは本当にやりたいことではなかった。第二希望ですらないと。せんなき思いが心をしばりつける。

 詳しく言えば第三希望でもない今の状態を嘆くのはたやすい。人生は上手く行かず残酷でさえある。ネガティブな思考は下に伸びる螺旋階段を進み始めてしまう。そんなときは無理にでも思考のあり方を変えるしかない。

 科学の理論によれば世界は絶えず分岐して様々なな世界が存在する可能性があるという。理屈では分かるが納得はできない考え方だ。でも、仮にそうだとすればもしかしたら別の世界には第一志望を叶えた自分が生きているかもしれない。

 彼が本当に幸せだろうか。満足度の高い日々を過ごしているのだろうか。その可能性もあるが、正反対のことも考えられる。それを選んだために起きる悲劇があるのかもしれない。第二希望を叶えた自分もそうだ。何があるのか分からない。

 第n希望を生きる今の自分がまったく不幸かと言えばそうではないことは確かだ。何がよくて悪いかなど分かりはしない。できるのはいまの第n希望の人生を精一杯生きるしかないのだ。

 こういう思考のループをしているうちに降りる駅が来る。やらなくてはならない仕事が締め切りを迎える。どうしようもない私を頼りにしてくれる人がいる。ここで迷いは一旦隠れる。また思い出すまで。

欅紅葉

 このところ暖かい日々が続いていたが、今週からは冷え込み始めるらしい。すこし足取りを緩めていた季節の進行も紅葉は着実に進んでいる。植物ごとに紅葉の仕方もいろいろあって、それを見比べるのも楽しみの一つだ。私がその中でも注目してしまうのが欅の紅葉である。

 欅は同じ種類でも紅葉の仕方が様々だ。さらに、同じ幹でも枝によって紅葉の仕方がさまざまなのも面白い。赤くなるものもあれば黄色が濃いもの、その中間のものとバリエーションがある。

 なぜこのような複雑な紅葉の仕方をするのかは分からない。日の当たり方とか、枝ごとの遺伝子の違いとか、いろいろ想像するがよく分からない。ただ、単に鑑賞する身としてはこれほど楽しみなものはない。

 紅葉した欅の葉は日に透かすと美しさが際立つ。美しい秋の風景を演出する。このきれいな紅葉も枝を離れて落ち葉になると、急速に干からびて同じような枯葉色になってしまうのも不思議だ。あれほどきれいだったのに、落ち葉としては個性のないものになってしまう。あたかも土にかえるのに余計な色はいらないとでも言っているかのような潔さを感じる。

 今はなき卒業した中学校の校章が欅の葉をデザインしたものだった。表参道の欅並木からとったという説明を聞いたことがある。その時は欅がかくも美しいものだとは気がつかなかった。紅葉の美しさを知るには自分も歳を重ねなければならないのかもしれない。