不注意

 注意書きがあるのを読まなかったのかと叱責されたことは少なからずある。後から考えるとなぜこんなに大きく書いてあったのに気づかなかったのかと思う。これはなぜなのだろう。

 おそらく、もっともだめな反省法は自分の気が緩んでいたからという考え方なのだろう。精神論に持ち込むともう何も言えない。これは人に助言するときも同じだ。できないのはお前のせいだと言っているのと同じだ。存在を否定する人は自分自身もそのまま否定される可能性が高い。

 ならば、どうすればいいのか。まずは認知の手順を考えるべきだろう。私たちは何かをするときに過去の経験をもとにする。だから、新しい手順が加わると緊張し、混乱する。その方法を確認すればいい。確認の手順をルーティンとして捉えるべきだ。

 目の前に見えていても気づかないことがあるということを前提にして、確認の作法を型として意識して繰り返すのがいいのだろう。

他人事ではなく

 ASDやADHDの人への接し方を述べる文章を読んで気づくのは、他人事ではないということだ。

 いわゆる発達障害と呼ばれるものの多くはスペクトラムという状態で現れるという。どこからが障害でどこからが正常といった区分はなく、連続体で続いている。だから、私自身にもそのような現象があり、これを正常とみなすか否かは相対的なものなのだ。むしろ個性の一部に名前がついたものとも言えそうだ。

 それぞれの症状で対処法は異なる。共通するのはやり方をはっきりと示し、臨機応変を強要しないことらしい。強い症状を持つ人の中には集中できるものがあり、邪魔が入らなければ素晴らしい才能を発揮する場合があるということだ。高学歴の人に発達障害に分類される人が一定の割合で存在するのは、その力を上手く利用できたからだろう。

 これに該当する人への接し方のコツを書いた文章を読むとそのまま自分への処方箋のように思えてくる。まずはセルフカウンセリングから始めることにしよう。

最終目的から

 物事を考えるとき、結局それがどこに行きつけばいいのかという最終目的をまず考えるべきだ。いろいろな夾雑物があっても、結局何がしたいのかを整理すれば様々な迷いは消えるかもしれない。

 複雑でわかりにくい世界の中にいると、その詳細の対応にすっかり疲れてしまう。あれこれ悩むうちに本当に大切な目標に向かう推進力が損なわれ、挫折してしまうことも多い。あるいは迷走して本来の目的がなんだか分からなくなる。私たちの毎日というのはこのようなものだ。

 最終的にどの場所にたどり着けばいいのか。それを想像してから、今いる場所からの道筋を考える。途中のストーリーは考えない。目標地点から現在地までの道筋を時間を逆にして考える。それができればもう目標は達成間近だ。たいていの場合、目標地点が分からず、そもそもこのような考え方ができない。あるいはできたとしても、途中にある様々な要素に翻弄されて本来の目的を見失ってしまうことになる。

 ものの考え方には器用な方法と不器用なやり方とがある。私の場合、主に後者の積み重ねで生きてきた。しかし、時にはうまくやりたいという気持ちになる。その時には目的から逆算するという発想を思い出したい。

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化石賞

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 今回も日本に化石賞が送られた。これは化石燃料から脱しようとする世界の情勢から取り残されていることを知らしめるための不名誉な賞である。批判であり皮肉だ。

 日本はこの賞の常連であり、不名誉な状態を続けているということになる。ただ、それにはいくつかの事情がある。日本はエネルギー資源の乏しい国でありながら、先進国としての立場を維持するための産業活動を続けるのにはエネルギーの確保が不可欠だ。二酸化炭素排出を抑えるために欧米の多くは原子力にシフトしている。それは日本はとれない選択肢なのだ。今回批判された事業の一つに石炭にアンモニアを融合して二酸化炭素の排出を抑えようとする技術が挙げられている。石炭の掘削を正当化する方法として認められないとされたのだ。

 日本には水素エネルギーなどの新技術の開発や、そのほかの基礎研究を続ける科学者がいる。彼らの成果が世界に貢献する日が来れば、化石の汚名は返上できるかもしれない。それまでの間、何ができるのかを考えるべきだ。

切り取り

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 動画サイトなどで再編集して必要なところだけをつなぐことを切り取りというらしい。日常的な言葉なので新鮮味はないが、あきらかに新しい用法だ。かつてならそうは言わなかった。

 葉梨法相の発言が問題になっている。法務大臣の仕事は死刑許可のハンコをおすだけだと言ったと報じられた。これに本人は反論して自らの発言のテープ起こしを披露し、「法相になり3カ月になりますが、だいたい法相というのは、朝、死刑のはんこを押しまして、それで昼のニュースのトップになるというのはそういう時だけ、という地味な役職なんですが、」と述べ、後段で外務省の仕事と比較しながら(武井俊輔副外相のパーティーでの発言だった)法務省の仕事も国家を支える仕事でありながら、集票には結び付きにくい役職という共通点があるので、支援していただきたいと述べているという。

 この釈明を聞くと、死刑の認可という業務の重さに対しての認識がないことを再確認してしまうのである。犯罪者といっても人権を有するものであり、場合によっては冤罪の可能性もある。その最終チェックを司法を通過して行政に任されているというのは、それほど国家が人に死を与えるのには重大な意味があるということなのだろう。話の枕として置くこと自体が不適当であり、特に言葉によって人の行動を規制する法務の代表にはふさわしくない発言だったと言える。

 政治的な問題は私には分からない部分があるので、想像で述べるのはここまでにしよう。切り取りの話題に戻れば、これだけほとんどの言動が動画や音声で記録される時代において、立場ある人が公的な場で発言する場合は、どこを切り出されても問題がないように配慮した発言が求められる。これには論法の工夫がいるのかもしれない。本当に言いたいことと、言いたいことをいうための材料が明らかに区別できるような言い方をしなければ、発言者の真意は届かない。また悪意ある者に利用される可能性がある。

兵士の命は誰のもの

 ウクライナの戦争が長引いている。ロシアの圧倒的優勢かと思われていたこともあったが、実際は膠着状態のようだ。双方の被害は甚だしい。

 戦争は国家の指示によって行われる。兵士たちは任務として破壊行為を行い、殺戮を続ける。この意味で兵隊は国家の意志の体現者である。個人的な怨嗟はなくても命じられて他国兵士と殺し合う。

 ロシアが侵攻したとかウクライナが奪還したとかいうニュース最近連日報じられているがこれはその裏で多くの人が死んでいることを考えなくてはならない。市民の被害は許しがたい。そして兵士たちもまた、国家に命じられてその末に落命したことを考えるべきだ。

 戦闘員の生死は別の話という論法もある。しかし、彼らは好んで戦地に赴いたわけではない。指導者は武力行使以外の方法を考えなくてはならない。すでに犯した罪は大きいが、止めるための勇気も出していただきたい。

まぶしい季節

お天道様

 急速に秋は深まり、もはや冬も近い。近くの商店街はクリスマスのデコレーションを始めた。考えてみれば一月半くらいでその季節になる。これからはまぶしい季節になる。

 気温も低く、風も冷たいのだがこれからしばらくは毎朝晴れた日はまぶしい。日の出時刻が遅くなり、北よりに変わった太陽の道は、通勤の道の正面に当たる。強い朝日を正面にして進まなくてはならないのだ。

 乾燥したこれからの季節の中で、陽光は嬉しくもあり、厄介でもある。ただ、寒さに打ち勝つためのエネルギーを送ってくれていることに感謝しながら歩くことにする。

気候変動対策

 世界共通の課題として気候変動への対策がある。COP27と呼ばれる国際会議では具体的な対策の実現のために、いわゆる南北問題をどのように克服するのかが話し合われる。

 気候変動の原因が人間の活動によるものとすれば、先進国が悪影響のかなりの部分をもたらしていることになる。地域的な公害と異なり、その影響は地球規模であり、風水害や海面上昇などの害はむしろ発展途上国で顕著だ。豊かな生活を送るために大量の二酸化炭素なり有害物質なりを出している先進国のために途上国は生命の危機に瀕している。

 被害の補償として先進国が援助を行うべきだという議論はなされても、一向に実行されない。様々な利権が絡むため身動きがとれないのだろう。

 生産活動を抑え、経済成長はしないという選択肢もある。それで満足ができるならば一番いいのだろう。実際にはこれが難しい。私たちは今よりいい状態になることを志す本能がある。

 気候変動対策は人間社会の袋小路を出現させそれをどうしたら乗り越えられるのかを何者かに試されている気さえする。

名画への八つ当たり?

 ヨーロッパの美術館で名画に液体をかける過激な活動が相次いでいる。人類の共通の財産になぜそのようなことをするのか。

 これが至って正常な人たちの活動であるということに注意しなくてはならない。石油掘削に抗議するというのだ。環境保護活動なのだが、そこに温暖化対策の進まない現代社会への批判があるという。それがなぜ美術品の破損に向かうのかは飛躍があるが、要するに現状に対する強い憤りを示したいということなのだろう。

 環境保護運動というのは得てしてこのような方面に走りやすい。捕鯨船に対する攻撃も明らかに行き過ぎたものであったことを思い出す。彼らがそういう行為に走るには現状がなかなか変わらないという焦りからくるものと思われる。彼らなりの正義を通すための手段ということだ。

 しかし、その表現の方法は間違っている。美術品をけがしても環境保護団体への理解は深まらない。別の方法をとるべきだろう。悪質な方法は敵しか作らないからだ。

 それにしてもなぜそこまでして世間に訴えたいのか。何を目指しているのかについては、私としても冷静に考えなくてはならないと思っている。