地球の影

 現在、皆既月食が進行している。まもなく皆既の状態になるのだろう。

かけ続ける月を見ているとその欠けた部分の輪郭線が地球の影であることが分かる。地球は確かに大きな球であるということを理屈ではなく、視覚的な現実として見せてくれている。無数に浮かぶ星の中の、その周りを偶然周回するようになった惑星、さらにその周りをまわっている衛星…。 そんなものは無限に近いほどたくさんあるのに相違ない。その中でたまたま生命を得て、意識をもって生きている。自らの存在の小ささを実感できるのが天体現象というものである。

 私の持っているスマホではうまく写真が取れない。ここに載せておきたかったが仕方ない。多くのプロのカメラマンがいくらでも残してくれるはずだ。

天王星食

Uranus

 今晩皆既月食があるが、その最中に天王星の月の向こうに隠れるという。天王星食だ。なんでも月食と惑星食が同時に起きるのは稀ということで、次は322年後という。

 天王星は第7惑星だが、遠いため肉眼では見えないと勝手に考えていた。ところが、現在は6等級であり、目のいい人なら見える明るさだ。もっとも東京では無理だが。近くに光るかなり明るい木星を頼りにすればおよその位置の見当がつく。

 最近は惑星が空に勢揃いすることがあるが見えるのは土星までだ。でもこういう現象を機会としてその存在を意識できるのはよいことだ。

次の月食

次に見られるのはいつ?

 明日、皆既月食になるという。晴れればちょうどいい時間に見られる。星の重なりが生み出す現象に過ぎないと知っても気になるものである。

 月食は比較的頻繁にある現象だが、それでも見られる偶然は嬉しいものだ。小学生のころ、東京で見られる日食や月食のデータを見て、2000年代は遠い未来だと思っていた。その頃自分はどのような生活をしているのだろう。果たして生きているのだろうかなどと漠然と考えていた

 その2000年はとうに過ぎ、さらに22年も過ぎている。残念ながら博士にも大臣にもなれていない。日々の生活に満足できていない己がある。逆に言えば何とか生きていて、ブログを書けるだけの生活はできている。これは幸せということなのだろう。

 日食や月食があると次の機会はいつなのかが気になる。恐らくその時までは生きていないだろうと溜め息をつき、いやそれでいいのだと考えたりする。

イヌタデ

 イヌタデはこの辺りではどこでも見られる野草で、いわゆる雑草と呼ばれる類の植物である。赤紫の花が印象的で赤のまんまともいわれる。俳句の季語としては秋季で、確かに今、写真のような房状の花があちらこちらで見られる。

 この花はよく見るととても美しい。花の色彩がいかにも秋の野を彩るのにふさわしい感じがする。実は夏からも咲いていたのだが、そのころはほかの色鮮やかな花に紛れて目立たない。秋になって風景が落ち着いてくると目立ってくる気がする。

 イヌと名がつくものの多くは、まがい物とか品落ちるものといった意味がある。イヌタデも本当の蓼より劣るものという意味だ。蓼というのは植物学上はヤナギタデというそうで葉に辛みがあることから薬味として使われてきた。イヌタデはそれに姿が似ながら辛みがなく役に立たないという意味の命名らしい。食用には向かなくてもこの「雑草」は秋の野を彩るものとして大切にしたいものである。

進路の複線化

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 日本の学校制度は様々な選択肢を用意してあるが、実際には大学を卒業したホワイトカラーが他を圧倒するという社会の在り方を維持するように設計されている。いわゆる「学力」で振り分けられた「エリート」が多くの利を得るというやり方だ。

 もちろんそういう方面のエリートは必要であろう。情報処理に長け、高度な判断力を持つ人材は必要だ。特にマクロ視点やメタ認知ができる人材はこれからますます必要になる。大学はもっと真剣に勉強をするところになるべきだし、そこを卒業できたものにはそれなりの報酬を用意するべきだろう。でも、それだけでいいのだろうか。

 人間の尺度は今の様な学力試験だけではないはずだ。人の価値はもっと多様に評価されるべきだということは多くの人が感じていることだろう。例えば職人といわれている人々はそれなりの評価を得るべき存在である。さまざまな技術を支えている人々にも評価すべき人がいる。そういう人が一般大学卒である必要はないし、大学を卒業することが社会的ステータスの基準になること自体が間違いなのではないか。

 もし、今までとは異なるタイプのエリートを尊重する方法を考えるならば、場合によっては職業高校の評価をもっと上げる必要があるのかもしれない。あるいは学校とは別組織の教育機関に社会的な評価を与えることが必要だろう。技術者や芸術家といった人材は大衆教育にはなじまないかもしれない。しかし、彼らの地位を上げることでそれを志す人は増え、結果的に技能の底上げができる。結果として社会全体の利益になる。

 このようなことは昔から言われている。私の独創ではない。しかし、これだけ情報化社会になり、グローバル化がすすんでも一向に人間の評価の多様化が起こらないのはなぜだろう。もしかしたら、こういうことからイノベーションは起こるのではないか。

公共性と営利性

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 社会が変動し、なおかつ縮小傾向の経済状況にあって、日本の状況は不安定になりつつある。一部の資産家が社会的な影響力を持つ組織を支配し、自らの営利目的に従って社会を動かすことも実現しやすくなっているのかもしれない。

 最近よく言われるのが効率性とか生産性という言葉だ。日本の組織は生産性が低い、それは不要な人材や競争力の低いセクターの団体や企業を保護しているからだという論調が多い。これには検証がいる。本当にそうなのだろうか。確かに国際的競争力は低くなりつつある。それでも総体的には強固な組織を維持できていることにはまったく意味がないのだろうか。

 この手の論にはどこかに誇張が隠されている。そしてその裏には意図的か無意識なのかは分からないが一部の優位な人が損をしないような仕組みが隠されている。営利の追求こそが社会をよくするという飛躍が巧みに織り込まれている。ここには大きな陥穽が待ち構えている。

 その一つが公共性の問題だろう。果たして営利性の追求だけで社会は成り立つのか。営利追及の中に公共性の視点がなければ、少しづつ社会は壊れていくのではないかという危惧を私などは持ってしまう。アメリカの巨大企業が世界に大きな影響をすでに持っているのは周知のとおりだ。各企業にはいまのところ公共性に対する配慮がそれなりになされている。でも、どうだろう。その組織のいずれかに何らかの危機が訪れたなら、公共性を維持できるだろうか。最近のTwitterの動向をみているとどうも怪しい気がしてならない。

 我が国が(おそらくアメリカや中国など以外のどの国でも)大切にしなくてはならないのは、そうした巨大な営利活動に翻弄されないことだろう。また自国の企業も単なる資本追求の段階を脱し、社会的公共性を意識していくべきだろう。そのためには企業や組織のリーダーのみならず、多くの国民の意識をこうした考え方にしていく必要がある。

 産業界ではパブリックアフェアーズなる概念で公共性が語られる。これは公共性のなかに商機を見出そうという裏の目的もあるようだ。ただ、単一の企業や組織にとっての利益ではなく、社会的な目的を考慮に入れようとすることには賛同したい。

世代想像力

 思いやりという言葉の指す範囲は広範だ。残念ながら私達には基本的に他人の感情を理解する能力はない。ただそうではないかと想像するだけだ。

 年齢の違う相手への想像はさらに難しい。子どもの頃、大人たちの考えが理解できず、大人になると子どものことが分からなくなる。自分も子どもだったはずなのになぜか理解ができない。

 老齢の方々のことも理解が届かない。どうしてそういう行動を取るのか、なぜそのようなことを言うのか。理解が一つ一つ止まってしまう。認知症などの身体的要因もあるが、そういう障害がない人でもどうしても分からないことがある。

 こういうときに働かせなくてはならないのが想像力だ。子どもは、老人はこう考えているのかもしれないという可能性をどれだけ思いつけるか。その中の蓋然性をどれだけ忍耐強く考えられるのか。それしかない。

 人は変わりゆくもの。そしてその変化は決して外観や身体能力だけではないということを再考したい。

比喩

 だれでも使う修辞に比喩がある。修辞といったが多くの人にそういう意識はない。ごく自然に使う。「ような」などの語を用いる直喩は日常的な表現方法だ。私たちが比喩を使うのはなぜか。使うことにどのような意味があるのだろうか。

 比喩にもいろいろな種類があるが、最も分かりやすい直喩は例えるものと例えられるものが明示的に分かる。この例えるものと、例えられるものの関係を考えてみよう。例えるものは発言者にとって身近なものであり、何かを述べるときの基準になりえる。対して例えられるものはその正体が不明確なこともあり、それを例えるものを使って説明使用していると言える。

 別の表現をすれば既知の事実を使って未知の事実を説明するときに使われるのが比喩ということになる。例える材料が多い人はこの手法をふんだんに使うことができ、表現を深めることができることになる。自分の知っている事実を使って、未知の事実を説明するための手段ということになる。

 ならばこの比喩の方法をうまく使いこなすためには、自らが様々な経験を積み、人々の共通体験を知ることが必要だ。これは実はとても大切だと思う。これからの話し方にこの見識を生かしたい。

海を見ること

 波打ち際で海を見ることにはそれなりの価値があると思う。なぜ波が起こるのか。波のエネルギーはどこから生まれどこに消えるのか。それを思うだけで静かな気持ちになれる。

 日常の様々なことが些事と考えられるのは海があるからだ。海が遠い人は夜空を仰ぐといい。私たちは自分の存在の小ささを知り謙虚な気持ちになれる。

 あらゆる誘惑や疑惑、欺瞞、悪意その他のマイナスな感情を海に放とう。空に投げよう。海は、空はそれを受け容れてくれるはずだ。

見せ方

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 スタジオジブリの作品の世界観をテーマパークにしたジブリパークが開園したという。日本のディズニーランドとなるのか短命で終わるのかはこの後の見せ方によっている。

 愛知県長久手市の愛・地球博の会場跡地の公園に作られたジブリパークは一部の施設だけが開業した。ジブリ作品の世界を再現した施設が中心で、乗り物などの設備はないようだ。ジブリ作品を見たことがある人であれば、作品世界の中に入り込んだような錯覚を得られるならば、行く価値はある。ただ、それだけであると繰り返し訪れることはないかもしれない。

 この中にはオリジナル作品を見せるコーナーもあるという。ここだけでしか見られない短編作品だ。これが定期的に変更されるのならばリピーターを生み出す可能性はある。媒体販売やネット配信などもしない。行かなくては見られないものが必要だ。新作を作り続けることが無理ならば、過去の作品のメイキングや再編集でもいいだろう。いわゆるディレクターズカットならば意味がある。

 さらに単にかわいいキャラの並ぶ場所だけならば、やがて飽きられるかもしれない。ジブリ作品には隠されたメッセージがあるものが多い。それを分かりやすい形で示すものもいいだろう。ディズニーランドにあるスモールワールドの展示は世界平和の意味を分かりやすく示している。こうしたものはむしろジブリ作品の方が豊富だ。これをわざとらしくではなく作品世界を傷つけない範囲で示すことも忘れてはならないだろう。テーマパークは単なるモチーフ展示ではない。

 日本のテーマパークのほとんどがうまくいっていない。それにはいろいろな要因があるが、コンテンツ的には申し分ないジブリパークは成功する可能性は多分にある。世界から人を呼べる場所になる可能性もある。ただ、これまでのような単なるキャラを並べる展示とどこにでもある乗り物しかないのなら短命になるかもしれない。要は見せ方による。うまくいけばスポンサーもつく。私は一度見てみたい気がしている。