懐かしい曲

Photo by Nothing Ahead on Pexels.com

 ネットラジオから昔聴いて感動し何度も聞いた曲が流れてきた。久しぶりに聞くと確かにいい曲だと思うが新しい発見もある。

 流行歌ということばがあるが、流行にはいくつかの要因がある。楽曲のよさはもちろんだが、それに加えて聴く側の環境、時代、世相などの要因が絡む。世間的な流行はなくても個人的に魅了される歌というものもある。それも、聞く側の問題が大きく関与している。だから、自分の要因が変わってしまうと聞こえ方も変わってくるということになる。

 昔聞いていた曲は概して単純で素直なものが多い。メッセージが分かりやすい。メロディーラインも素直だ。それでも十分にドラマチックであり、叙情的だ。そこに惹かれたということだけは思い出せる。しかし、なぜ妄信的にのめり込んだのかよく分からない。それが楽曲なのだろう。

文化

WordPressの無料写真でCultureを検索するとこの写真でした。
Photo by Min An on Pexels.com

 日本では文化の日という祝日がある。そしてそれは今日だ。文化となにかを考える一日ということになっている。

 11月3日は明治天皇の誕生日としての天長節、崩御後は明治節であった。1946年のこの日に日本国憲法が公布され、憲法の精神に文化の尊重があることから1948年から文化の日となった。5月3日の憲法記念日は1947年5月3日に施行されたことによるものという。ならばこの文化とは憲法と関連する由来を持つものであることになる。

 憲法第25条には、
(1)すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
(2)国は、すべて の生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 とあって、文化的なという言葉がある。この条文は生存権と分類されるものであり、最低限度、つまりここまでは死守しなければならないという枠組みに文化が使われていることになる。

 換言すればただ生きているだけではなく、衣食住が足りている身体的安全が確保され、なおかつ精神的な豊かさもなければならないというのだろう。ここでいう文化は芸術、レジャーという範囲だけを指すものではなさそうだ。もと切羽詰まった問題も含む。例えば個人の生きる価値を見い出せるかとか、多様性を認められるかといったことも含まれそうである。生存権の規定は第2項の社会保障の問題と深く関連しており、しばしば訴訟の根拠とされている。

 文化という言葉の持つ幅広さはいろいろな解釈を生み出す。もともとの漢語の語義としては教養に近い概念である。それが西洋の概念である精神向上のような側面を融合したことで複雑になった。今使われている文化とは一定の社会集団のなかで共有されている知識や行動様式、生活様式などのことを指している。地域文化のように場所で、また若者文化のように世代で共有する場合もある。江戸文化というときは時代に関わる。様々なくくりがあってそれらが複合することもある。

 共有されていることすら気づかないことも文化と称されることもある。食文化などは同じ集団の中ではほとんど気づかれないが、旅をするとそれが文化であることが表面化する。その他の要素もほかの集団にであって意識される。カルチャーショックという言葉がそのとき使われる。

 生存に欠かせない文化とは何か。これらを組み合わせると、ただ生きているというだけではなく、自分の属する集団の中で当たり前だと思われることができることになる。自分とは異なるやり方をしている人たちがいることも知り、それを寛容する。それらが果たされなくては生存していることにならないということなのだろう。

紅葉

ムサシノケヤキの紅葉

 昨年も書いたが近隣の商店街に植えられたムサシノケヤキがいつの間にか紅葉している。ライトに照らされると実に鮮やかな色合いになる。

 足元を見るとすでに落葉した葉が散乱している。ついこの前まで汗をかいていたというのに、もう紅葉そして落葉の季節なのだ。

 秋来りなば冬遠からじ。今年は厳冬の長期予報が出ている。

ベルアップ

Photo by Antoni Shkraba on Pexels.com

 マーラーの交響曲を聴きにいって驚いたことがある。クラリネット吹きがときどき楽器をほぼ水平にまで上げて吹くのだ。リード楽器の吹き方としてはずいぶん不自然だ。トランペットなら当たり前だが、クラリネットがそんな恰好をするとびっくりしてしまう。

 調べてみるとベルアップという奏法らしい。そしてマーラーはこの吹き方を譜面で指定しているのだという。繊細な音を出すクラリネットがまるでラッパのように吹かれる。オケの演奏でこれを見るとかなり印象的な光景だ。演奏家もかなり無理をしていることが伝わってくる。

 音を遠くに飛ばすためというのはあまり説得力がないようだ。楽器の先をどこに向けようと音の伝わりは変わらない。違うのはやはり見た目の印象だ。聴衆に視覚的なインパクトを与えるというのが第一の効果なのだろう。その意味で私のようなものが現れたことはすでに成功しているともいえるのかもしれない。

問いを作る問題

 答えを示して、その答えになる問題を作れという変な問題を出してみた。柔軟な頭の働かせ方を鍛えようという試みだ。

 問題は単純だ。ある漢字を示し、その同じ文字が当てはまる熟語が含まれる例文を並べさせる。ただし、同じ意味で使われていない熟語にしなくてはならない。例えば「生」が答えになるように二つの例文を書けという具合である。

私は学( )だ。

このことは一( )忘れない。

 こんな感じでいい。問題を作るということはただ答えを出すのではなく、設問の狙いとか仕組みを知る必要がある。それが面白い。

 まだまだいろいろな実験をしてみたい。考えさせるための方法は多様である。

息づかい

 オーケストラの演奏を見る楽しみの一つに演奏者の息づかいを感じることがある。確かに演奏家が眼前で楽器を演奏しているという実感は、譜面に書いていないことからも感じることができる。

 チューニングを終えた楽団員が指揮者の登場を待つときの緊張した息づかい。指揮者がタクトをふる直前に吸い込む息、音になる管楽器演奏者の息、実際には聞こえないが弦楽器や打楽器奏者のブレスも感じられる。これがライブ演奏の醍醐味だろう。

 コロナ騒ぎの中で様々なものがリモート化した。音楽はもともと録音という文化がある。しかし、何にしても直に演奏を聞く楽しみはなくなるものではない。

約束事

 演劇の世界にはいくつかの約束事がある。本来建物の一画に過ぎない舞台を様々な世界に例えるのだから無理がある。それを超越するのが観客に任せられた約束事だ。

 歌舞伎では雨や雪を太鼓の音で表すことがある。暗闇でも暗転しない。それでも雨という、闇という前提で芝居が続く。現代劇でも本来は向き合って話しているはずなのだが、両方とも観客席に向かって話す演出は多い。これも客の想像力で飛び越える。

 こうした約束事を知ると観劇の楽しみは広がる。これはまさに実社会と似ている。

群集事故

 ソウルの梨泰院で起きた群集事故に驚いている。不幸にも命を落とされた方々のご冥福をお祈りしたい。また、なぜこのようなことが起きたのかしっかり検証していただきたい。

 今回の事故原因として現時点で報道されているのは有名人のもとに行こうとしたことが、群集心理を生み出したという。群衆は理性を失いやすく衝動的になりやすい。一度動き出すと止まらない。

 こうした事故は世界中で起きている。日本でも神戸の花火大会で死亡事故が起きている。過去の事例の多くはイベントや宗教的行事の最中であり、人々が興奮状態にあることだ。冷静さを失うことによって危険性が増す。ハロウィンが事故の引き金となったことは冷静さを失いやすい行事であることを意味する。

 隣国の事件として看過すべきではない。同様なことはいつでもどこでも起こる。一度起きてしまうと制御は難しい。どうしたら防げるのか。個人の振る舞いにかけるしかない。せめて日ごろから群衆心理のなんたるものなのかを知る努力をするべきだ。

名曲喫茶

Photo by Rodolfo Quiru00f3s on Pexels.com

 高校生の頃、友人に連れられて名曲喫茶に行ったことをふと思い出した。何とも不思議な空間だった。

 渋谷駅のすぐ近くにあった店は、いまは全く別の建物に建て変わっており、面影は皆無だ。細い階段を上がると薄暗い店があり、交響曲やピアノソナタのレコードがかかっている。友人は曲名を即座に口にしたが、合っているのかどうなのかも分からない。聞いたこともない作曲家の名前だった。

 メニューはホットコーヒーしかなく、座ると蝶ネクタイをした店員が最低限の言葉だけ言って、その後コーヒーを持ってくる。当時はブラックは飲めなかったので、砂糖を入れるとかき混ぜる音が響きわたるほど店内は静かだ。他の客は文庫本を読んでいるのか、目を閉じていた。男の一人客が多く、高校生は他にはいなかった。友人は楽曲の情報をいくつか呟いて満足そうだった。そのほとんどが理解できない言葉だった。

 皆で同じアナログのレコードを聴くということは現代では殆どない。ましてそれがビジネスになるとは思えない。当時はオーディオブームがあって家庭でもこだわりの機器を揃える人もいた。逆に言うと再生に関わる設備の質に顕著な差があったということであり、自宅にステレオがない場合は名曲喫茶で聴くという需要があったのであろう。加えて音楽好きの醸し出す雰囲気に埋没するという目的も加わる。

 現在は音響機器も発達しデジタルディバイスも各種ある。その質も底上げし、AMラジオの音質に耐えられる人はもはやいないだろう。昔ならハイレゾとでも言っていた高音質の環境に慣れきっている。しかも様々なチャンネルや、サブスクリプションの中から選び放題の中で、他人とともに自分が選曲していない楽曲を楽しむということに金を払う人がどれほどいるのだろう。いろいろな意味で名曲喫茶の復活は難しいかもしれない。

 懐かしい過去の風景の中にあったものは、今では存在しえないものもある。

やる気を引き出す

Photo by Pixabay on Pexels.com

 すでに何度も記しているように私の仕事はやる気を引き出すことに尽きる。実際に学習するのは生徒諸君であり、教師が教えたつもりになったとしても、表面的な短期記憶を賑わすだけで賞味期限は短い。

 食べ物の譬えを続けるのなら、うまい料理を提供するのではなく、その料理の作り方を教えなくてはならない。自分で再現できなれば学習の効果は十分とは言えないのだ。料理をすることの楽しさを教え、上手にできたときの達成感を自覚させる。これがもっとも大事な任務なのであろう。

 言うは易し。実際に現場に立ってみると料理を提供することは簡単だが、厨房の外にいる生徒を呼び寄せ、いかに調理が楽しいかを伝えるのは難しい。面倒なことをせずに自分が結果を提供し、それを覚えされる方が楽だ。しかし、くりかえすが大切なのは提供された料理ではない。その料理を作る能力だ。

 私はやる気を引き出す方法をいろいろ考えている。テクニックはいろいろあるが、その根本は学ぶことの面白さと真剣にまた謙虚になることの快感を教えることなのだと考えている。自ら学び、その思いが純粋であるほど効率的に学習ができる。それを教えることが私の仕事と心得ている。