所作の地域性

ヒロインはどう振る舞う?

 喜びや驚きをどのように表現するのか。それは考えている以上に文化的な差があるようだ。その事実はなかなか表面化しない。

 感情に合わせて身体が動くことは誰もが体感できる。ただ、その動き方は文化の差がある。喜怒哀楽をどのように表すのかは文化圏の中で伝承されている。非言語の伝承は明示的にも、非明示的にも行われる。このうちの無意識の伝承は厄介だ。伝えている方も伝えられる方もその意識がない。だから、何かきっかけがなければ意識されない。

 私が気づいたのはディズニーのアニメーションを見たからだ。ヒロインが何かを語るときの姿勢がどうも不自然に感じたのだ。不自然というのは動きがぎこちないというのではない。むしろ動作はなめらかで人間が演じているかのようだ。不自然さはその所作が現代アメリカ人の典型的なものになっていることにある。この時代の、この地域の人はそうは振る舞わないだろうと予感しうるのだ。

 ディズニーは決して綿密な時代考証は目指していない。ストーリーのテーマ性が確保できればあとは何でもいいのだ。文化剽窃の可能性があるがすでに型ができているディズニーはその方面でとやかく言われないだろう。

 ラプンツェルやモアナが現代アメリカ人女性の典型的な所作をしても、多くの人は気づかないのかもしれない。でも、一度気づいてしまうともう気になって仕方ない。所作には明らかに文化差がある。

軍艦

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 子どものころ軍艦のプラモデルを組み立てるのが好きだった。ウォーターラインズという喫水線以上の部分でできているモデルで旧日本海軍の戦艦や巡洋艦、駆逐艦をいくつも作った。いまではなぜそんなことに小遣いを費やしたのかと思うこともある。

 昭和の代表的なアニメの宇宙戦艦ヤマトも、その前の特撮ものに出てくるさまざまな「艦隊」も子供の時はあこがれの的であった。絵にかいたりプラモデルがあれば作り、高くて買えないものは紙や木でまがい物を作った。それが最終的に誰かを殺すための兵器であるという事実を格好よさは簡単に跳躍した。

 幸いにも私が生まれてから軍事的な戦争はなく、軍艦の出撃することもない。ウクライナ戦争でロシアの巡洋艦モスクワが戦没したというニュースを聞いてからまだ軍艦というものが実際に機能しているということを再確認するほどである。

 軍艦は人間の負の部分の塊のような気がしてならない。何のために巨大な殺人兵器を作らなくてはならないのか。それが人間の限界を見事に具現化してしまっている気がするからだ。戦わなくては自分を維持できないという残念な現実からそんなに簡単に解脱できることはないと思い知らされるのだ。

 横須賀や横浜で自衛艦や護衛艦をみると昔のように素直に興奮できない。もちろんその艦船に乗って最前線で国の安全のために命を懸けている自衛官や海上保安官の皆さんには心から感謝を申し上げたい。その心身にかかる圧力に耐えて責務を果たしていることに敬意を表したい。

 それはそれとしてやはり兵器を積んだ巨大な武器から私たちが解放されていないということに悲しさを感じてしまう。正直に言うと今でも護衛艦はかっこよく感じるが、その中にはかなりの哀調が含まれる。

変装ではなく変身を

 ハロウィンが近い。このところコロナ自粛が続いていたが今年はどうなるのだろう。単なる乱痴気騒ぎならばやめた方がいい。

 ハロウィンはアメリカを中心に行われている子供の祭りだ。収穫祭と祖先崇拝とがその根本にあるという。原始的な宗教が背景にある。それがなぜか日本では大人が参加する変装大会のようになってしまった。死者のふりをして町を練り歩くというのは、日本の祭りにも通底する何かがある。ただそれを意識することは少なく、先にも述べた仮装パーティーとなっている。

 大人が喜んで変装をしようとするのはなぜだろう。もうそこには信仰的なものはない。自分のために変装をしている。現状に甘んじてがんじがらめになっている状態をなんとか打破したい、という想いは変装という行動で晴らそうとするのだろう。実際は顔に何を塗ったところで状況に変化は起こらない。

 本当に必要なのは一時的な変装ではなく、変身することだ。それにはかなりのエネルギーがいる。今と違うなにかに変わることを目指していればいつかは変われるはずだ。それができてこそ、自己肯定感が得られる。とりあえず覆面してみて、そのうえでもっと大きな変化を期待し続ける。そうすればいつかは変身もかなうはず。そのように考えている。

厳冬予報

 気象庁や関連会社が出した長期予報によれば次の冬は厳しいものになるという。天気のことゆえどうなるかは分からないがもしこれが当たるならば気をつけなくてはなるまい。

 猛暑の次の冬は大雪が降りやすいという。これも統計的な真実を掴んでいる訳ではないので無責任に書いているのだが経験上はそうかもしれないと思う。雪害のことを思うと不安になる。

 農村にタワーマンションが建設されたというニュースごあった。理由は除雪をしなくてもいいからということだ。それほど雪は生活の大問題なのだろう。

 ぜひともほどほどの降雪を。誰にも頼めないことではあるが。

木星

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 このところ木星の輝きが印象的である。秋に入って木星は一段と輝きを増している。位置的にも見やすい場所にあり、明るい恒星が並ぶ冬の星座も出始めているがまったく他を寄せ付けない輝きがある。土星も見えており、とても鮮やかだ。このところかなり冷え込んできたが、空が澄むのはよい。ホルストの楽曲を流しながら見てみたい。

マルチタスクできない

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 一度にいろいろなことをこなせる人をかつては聖徳太子の能力に例えた。確か七つの話を同時に聞いて対応できたとかいう。根拠がある話ではない。聖徳太子伝説は様々あるが、異能譚の一つであろう。最近は7つくらいでは収まらない。コンピュータの出現でマルチタスクは当たり前となってしまった。

 しかし、いくら高性能のコンピュータが普及したとはいえ、それを操作する生身の頭はそれほど高性能ではない。特に私のような旧型はすでにかなりがたが来ている。パソコンを操作していて困るのは違うウインドウなりタブに移った瞬間にこれまでやっていたことを忘れてしまうことだ。これはいかんともし難い。それだけではない。通知が来たり、たまたま間違ったタブを開いたときに気が散って別のことを始めたりすると、もう前のことが進まなくなる。注意散漫というより、分裂しているといった感じのありさまだ。

 少なくとも私はマルチタスクには全く向かない。一つ一つを愚直にこなして何とか人並みにそろえるのが関の山のようだ。それなのにパソコンを使うたびに先に述べた罠にはまる。これは精神衛生上とてもよくない。私の疲労の原因のかなりの割合にこの問題があるような気がする。

陰性証明

 コロナウイルスに関する陰性証明をもらいにPCR検査を受けた。翌日、メールでお墨付きを受けた。墨どころかインクも使っていないが。

 勤務上の要請で陰性の証明が必要になったので受けてきた。検査所では明らかにアルバイトの皆さんがマニュアル通りの説明を繰り返していた。検査所と書いたが雑居ビルの一画を借りたものでおそらく様々な遍歴があつたと考えられる老朽化の跡が見えた。

 無事に手に入れた証明書だが、職場ではスマホの画面を提示すればいいと言われた。でも、おそらく私は印刷して提出することになるだろう。証明書は紙でなくてはならないという思い込みから私はまだ抜け出せない。

芸能の海外展開

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 日本の芸能界は国内では有名でも海外では通用しないということが多い。これは日本国内で十分な市場があり、満足できる成果が出ていたからに相違ない。それはそれで幸せなことだと思う。しかし、今後のことを考えれば海外展開を考えるべきではないか。

 いわゆるシティポップと呼ばれる日本の歌謡曲が海外で評価されているらしい。日本の音楽は海外の様々な要素が取り込まれており、その上に日本テイストが盛られているため独自の楽曲になっているという。それが海外では目新しく感じられ、評価される原因となっている。さらにアニメに関連する音楽やファッションなどはユニークな日本文化と認識されている。ならば、これらを海外でパフォーマンスするアーティストがもっと出てもいいのではないだろうか。

 韓国は芸能界が一定の成功を収めている。国家の補助も奏功しているかもしれないが、背景には国内だけでは十分な利益を上げられないというという制約がある。だから、海外で売る。グループに必ず、英語や日本語、中国語ができるメンバーを入れる。初めから海外展開を前提とした活動をしているのだ。この考え方は日本には今まではなかった。外国語ができる芸能人は特別扱いされ、できすぎると親近感がない存在になることさえあった。実は中国語ができても、フランス語が話せてもそれを武器として活動するという者は少なく、そうしたスキルは隠し持つものであった。日本には十分なファンの数がおり、利益を上げるのにリスクをとって海外展開する必要はなかったのだ。

 これからはわが国も海外に展開せざるをえない。人口減や経済の低成長による購買力の減退は、生活必需品以外の製品は手に入れようとしないことにもつながる。そんな中でアーティストが生き残る策としてユニークさを維持しながらグローバル展開をすることにある。少数ながらそういうアーティストが現れつつある。彼らのことをもっと知るべきだろう。

冷え込み

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 寒気が南下して気温が下がっている。今日は15度前後までしか上がらないという。薄いコートを着て出勤することにした。

 上着が増えると困ったことがある。ポケットに何でも入れてしまう私はそれがどこに行ったのか分からなくなるのである。今年はコートのポケットには何も入れない、入れるとしてもひとつの場所だけと決めることにする。

 まるで小学生の誓いのようだが、私にとっては結構切実な問題なのである。

まねぶ

何を学ぶ?

 学ぶという言葉の語源説明に真似ぶから転じたという説がある。言語学的にどうなのかは検証する価値があるが、民間語源説としては有名であり、かなりの影響力を持っている。この考え方は再評価されるべきではないか。

 真似が単なるコピーというのなら、やはりもう時代には合わない。複製の技術は恐ろしく進歩した。知の分野においてもただ同じことを繰り返すだけならばコンピューターの方が完璧にこなす。どうも真似するのは内容ではないらしい。

 最近、成功体験者の学習法を紹介する書籍がよく読まれているようだ。あの大学に入学した人はこのようにふるまったとか、何を読んだとか、どうノートを作っているとか。そういうやり方への関心が高まっている。

 はっきり言ってこうすれば東大に入れるといったノウハウとしてその手の本を読むことには疑問を感じる。例えば、こんなにきれいにノートをとっていますよ、とか、レイアウトはこうするのが一流大学の方式ですといった類である。汚いノートでも優秀な人はいくらでもいるし、手帳の作り方も人それぞれでいい。

 大切なのは考える際に何を重視し、どのような手順で考えているかなのだろう。ノートに関して言えば書き方はどうであれ、自分なりのまとめや、何に使えるかといったメモを付加している人は概して優秀だ。自分の考えを言語化しているからだろう。

 こういう学習に対する態度は参考にすべきだろう。何をしたかではなく、何を意識しどう振る舞うかを真似るべきなのだ。ここで古典的な芸能や武芸に伝わる師弟の関係を再考したい。なんのためにそんなことをするのか理解しないまま、ひたすら師匠のまねをし、その意味がようやく分かったときには師匠の域に達していたり、超越していたりする。この説明不可能の行動の裏には学ぶことの奥義が隠されているのかもしれない。

 この考えを現代に置き換えるならば、学習とは決して情報の伝達でも、処理の手順でもなく、学びに対する意識や態度に関わるということになる。教育の方法もこれを踏まえたものにしなければなるまい。