ツツジ

 躑躅は万葉集にはすでに歌われている。桜の後に続く花は赤や白、その中間色や混ぜ合わせたような彩りまで様々だ。庭木として植えられることが多いので桜より身近だ。花の奥の蜜を吸ったり、花飾りを作って遊んだりした。

 今朝駅の近くに植えられたツツジが一部開花しているのを見つけた。もう少し前から咲いていたはずだが気づかなかったのだろう。一度気がつくとあちこちですでに花の面積を広げつつあることに気づいた。葉桜の後に出番が来たと言っているかのようだ。

 近縁のサツキやシャクナゲなどもこのあとに続くのだろう。花のリレーがどのように展開されるのか楽しみである。

新クラス

 クラス替えのことを覚えているだろうか。最近は変える側の方ばかりなので生徒の思いを忘れつつある。

 後から思えば同じ学校で別の組になったからといって大きな変化はない。かえって変化があっていい。でも生徒の頃は一大事だった。狭い世界に住んでいたと思う。

 そのように思えるにはその後の様々な経験が裏打ちされなくてはならない。先を急いではなるまい。まずはクラス替えに悩む生徒諸君に寄り添うことにしよう。

夜桜

桜に月

 数日前、近くの公園は桜の盛りを迎えていた。すでに散り始めた枝もある。見上げると月が出ていて、その光に桜花の彩りが一層引き立つ。

 恐らくこの光景は数日の後にはなくなる。桜は偶然を痛感させる。実はすべてのものが一度限りでありながら、似たものを見たり聞いたりすることで永遠に繰り返されているような気になってしまう。

 今日の夜桜は今宵限りだ。ただ夜桜なるものは来年もこの場所であるだろうし、この場所でなくても似たようなものはある。一回性か普遍性かそんなことも考えさせる。

 ただ言えることはこの日の夜桜はよかった。これまでの中でもかなりいい部類だということだ。

読書促進

 最近の子どもは本を読まないと嘆く人は多い。でも、そういう大人も読書量が少ない。最後に読み終わった本は何ですかと問われても即答できる人は少ない。

 国語の教員としてはなんとか読書量を増やしてほしいと考える。読書量を増やす策はあるかとよく問われるが、いつも答えているのは自分が本を読んでいる姿を見せるということだ。恐らくそれしかない。

 可能ならばその内容を子どもに話したり、子どもの読んでいる本を自分でも読んでみて感想を語り合うとなおいい。自分は読まないくせに子どもに要求しても効果は限定的だ。読書する楽しみを感じさせることが最善の読書促進の方法だ。

自然音との調和

 現在、使用中の国語の教科書には坂本龍一氏のエッセイが掲載されている。音楽とはなにかを語りながら、人の生き方に迫る名文だ。

 我々が音楽と称しているものの大半は調律された音階と、規則的なリズムとで構成されており、それが評価基準になっている。でも、それは極めて人為的な不自然なものであるというのだ。

 実際の音は極めて多彩で偶然性に溢れている。それにこそ魅力がある。これはなんでも他人の基準に合わせることが正しいとする現代人の価値基準と対立するがそれ故に魅力的なものの見方である。

 流麗なメロディーメーカーの意見として玩味すべき文章だ。逝去の報に接し残念でならない。

転換

 良くないと思った日は、思い切って考え方を変えるべきだ。この日の不調は次の好調のための材料なのだ。決して短期的に考えることのないように。転換が大事だ。それができるのが人間というもののいい加減さなのだ。

シナリオのような出題

 国語の最近の問題には教員や生徒が話し合いをしているかのような選択肢を並べ、この中で的を射ているものはどれかといった出題がある。インタラクティブな授業を再現したかのような見え方をするが、実は形を変えた読解の設問である。この形式の出題で一層はっきりしたことがある。

 文章読解問題の解答は根拠を求めて、それに適合するものを正解とする。そうでなければ読解問題など成り立たない。ある文章を読んで何が書いてあるのかを答えよというとき、こうも読めるああも読めるでは評価ができないからだ。だから、ここにこう書いてあるからこの時点では正解だ、としか実は言えない。それが国語の問題というものなのである。実に表面的だが、最近はこの表面的な読みも怪しい人が多いので国語の時間が必要になる。

 より現実的なことを言えば、数ページ分の文章の中で、筆者の言いたいことを把握することは無理だ。筆者の考えはそんなに単純ではないし、もし単純なものならばわざわざ本にするまでもない。でも出題文の大半は出版された書籍の一部の引用だ。そこで何が言えるかといえば、国語の問題は結局、人の文章を使いながらも出題者が答えさせたい答えを論理の方法によって答えさせるものであるということなのだろう。

 でも、この方法は制限がある。他人の文章に何が書いてあるのかを問うには、「Aとは何か」か「Bといっているのはなぜか」(=その理由を筆者はどう説明しているのか)、さらに「この文章(実はその一部)で筆者は何が言いたいのかをまとめよ」くらいの出題しかできない。事実、国立大学の二次試験は大体この型に当てはまってしまう。そこで生まれたのが、別の文章と組み合わせて比較させるという出題である。Xという文章にはこう書いてあるが、Yにはこうある。その違いは何かと答えさせると別の問いができる。そして掟破りがシナリオ型出題だ。これは他人の文章を借りてくることなく、出題者が勝手に作った文章で自分の答えさせたい解答を選ばせることができる。他人の文章の読解という枠を破ってしまった。出題者が私の答えさせたいことはなんだか見抜いてみよと言っていることになる。

 その結果、国語の問題というのは要するに出題者が答えさせたいことは何かを見抜き、それに答えるものという当たり前のことを確認させることに至った。よく入試シーズンに問題文として引用された作家なり文筆家が、自分の文章を引用した問題が解けなかったということが話題になる。これは何の問題もないのだ。答えさせたいのは筆者の考えではない。あくまで引用された部分の中で辻褄が合っている(と出題者が考えた)ことを答えることに過ぎないのだから。

時代おくれ

 つくづく自分は時代遅れだと思うことがある。そういうときはいままでやってきたことに自信がなくなっている。これまでの道のりが無駄なものであったかのように考えている。こう考え出すと止まらなくなる。

 先日、先輩にお会いすることがありこのことを話した。するとどうもそうでもないという。時流に乗ることは自分を陳腐なものにしていくことに繋がる。だから、周りとは違うやり方でも構わないし、むしろその方が貴重なのだ。堂々と時代を外れる方がいいのだというのだ。

 恐らく落胆気味の私の表情を悟られて激励のつもりで仰られたのだろう。でも、この助言は私にとってはとてもありがたいものであった。やるべきことをしっかりと自分の調子で続けるのが大切さなのだ。

 と言うわけで時代に遅れてしかも意図的に外れて生きることにする。このブログも文字ばかりでよくない例という例に入るようだが、おもねることなく、硬派に駄文を連ねることにする。

起きたら

 朝起きると私は周囲が変化しているのに気付いた。見たこともない花が咲いている庭に鳥が数羽遊んでいる。遠くから横笛の音が聞こえるのは誰が吹いているのだろう。

 しばらくして分かった。ここには以前来たことがある。というより長く暮らしていたところではないか。どうして忘れていたんだろう。今までどうして思い出せなかったんだろう。長い旅をしてようやくたどり着いた気がしている。長い長い旅の果てにようやくたどり着いた場所だ。

 でも、そこには人影はない。先ほどの笛の音もいつの間にか聞こえなくなってしまった。風が吹き、わずかに木々の葉を揺らし、その先の花々も同じように動き続ける。

 そうか。そういうことか。私は納得した。自分のことを考えようとしたとき、それができないことをはじめは気づかなかった。誰なんだお前は。どこにいるんだ。そうした疑問に答えるすべがなかった。

楠若葉

 クスノキは常緑樹だが落葉ももちろんある。少しずつ時期をずらして木が丸裸にならないようにしているようだ。その新葉は印象的だ。

 楠若葉は俳句では初夏の頃に扱われるが、実は今も見ることができる。はじめは赤褐色の色をしており、長じて深い緑になる。ものによっては花かと思うほど色づいているものもある。

 夏の季語になっているのは、その頃のクスノキの発葉が盛んで木の容積がどんどん大きくなるような感じがするからだろう。対していまごろの楠若葉は控えめだがより目立つ。

 三月尽の今日、早めの季節推移の中で、知らないうちに新芽は育っている。