機械化した分、面談に

 提出物をバーコードで管理することにした。完成しているプログラムをお借りし、試したところ使用に耐えることが分かった。少々カスタマイズが必要だが、これで数十分から一時間程度の業務時間短縮ができそうだ。

 浮いた時間で何をするか。それは個別面接の機会を増やすことだろう。私が業務を機械化したように、生徒も学習活動の一部もしくは大半をコンピューターで行っている。活用の仕方が間違っている場合は、思考の過程を飛ばして答えだけを書いてきてしまう。

 教員として心がけたいのは結果より過程ということだ。何をどう考えたのか、それをどのように説明するのかを指導しなくてはなるまい。テストやレポートの採点結果より、重視すべきなのは解答の作成過程である。

 ただそれを評価することは難しい。学習の場面に立ち合うことはできない。できたとしても学習者の妨害にしかなるまい。だから、次善の策として提出後に面談を行い。どのように学んだのか、学んだことは何かを自分の言葉で語らせるようにすればいい。

 いままでは業務時間内に事務的な仕事を終わらせるので精一杯で、面談にかけられる時間は限られていた。人間が不要な部分は思い切って機械化し、対人指導に注力しよう。生徒には煙たがれるが、今はそれがもっとも効果的な気がしている。

旧世代らしく

 あまりに多忙なときはやることが機械的になっている。予め決めた手順に従えはうまくいくことが多い。ただこれには達成感が伴わないのが問題だ。

 大量の作業を成し遂げたという達成感ならある。しかしこれならば自分でなくてもできたはずと考えると虚しさが漂い出す。機械の歯車になることを潔しとしない自我が立ち上がる。

 効率を上げることとやり甲斐を感じることとは必ずしも一致しない。仕事がどんなに早くてもああはなりたくないという同僚はいる。あれでは機械と同じだ。何が面白いのだろうなどと考えてしまう。

 恐らくこれは私の偏見だ。仕事が早く何も考えずに済ませられるのは現代人が求められている資質の一つではないか。そのコンピテンシーすら人工知能に売り渡そうとしている。その哀れさに気づかないことに我慢できるのは一種の才能だ。

 私のような旧型人間はこの効率重視の世の中でうまく立ち回るしかない。仕事の大切な要素を諦める代わりに、浮いた時間で思い切りアナログなことを展開しよう。アナログという言葉を想起した時点ですでに毒されている。無駄な時間をかけて話し合い、冗談を言い合おう。幸いまだそんなことをしていても排除されることはない。ならば思い切り旧世代らしく振る舞うしかあるまい。

何も知らない物知り

 博覧強記は今でも憧れる境地だ。いろいろなことに通じ、それを適時に取り出せる。そして、もう一つその教養に裏打ちされた高度な判断や言動が行えるというイメージがある。理想的人物像だ。

 途中までなら機械がこなすようになった。チャットGPTならばデータベースにあることは瞬時に取り出せる。マイクロソフトの提供するBingならば今日あったことでも、過去のデジタル化したものでも極めて短時間に引き出し、回答を自然な言語で取り出してくれるのだ。博覧強記に似ている。

 ただし現段階では情報を拾い出し回答を組み立てることはできても、その意味を理解してはいないようだ。だから曖昧な問いかけをすると、誰でもわかるような間違えをする。知識に見合った教養はない。

 人工知能は極めて優秀な物知りではあるが、基本的なことも分かっていない、というより分かろうとしない存在であることを今の時点でしっかりと把握すべきだ。今後、人工知能の能力は上がり、今ほどは違和感は消えていくだろう。だが、基本は同じはずだ。

 なにも知らない物知りを人間という物知りではないが何かを知っている存在が操ることが大事だということになる。

Try

新機軸をなすためには現状からの逸脱が欠かせない。安定路線を飛び出すことには危険も伴うし、それを冒す勇気もいる。チャレンジということばはそれにふさわしい。しかし誰もがチャレンジできるほど強靭ではない。私のような臆病者にはチャレンジはかなりハードルが高い行動である。

 その代わりに試しにやってみるというトライの方が今の自分にはふさわしい。失敗することはあってもいい。そしていつでもやり直す。そのくらいの気持ちの方が続けられる気がする。効率は悪いが試行錯誤することに躊躇しない。そういう態度で臨むことにする。

 さまざま毎日の手順についていま再検討をしている。そして無理やり始めたものもある。うまくいくかどうかわからないが、やらないよりはいい。

AIは著作権を知らない

 AIのChatGPTなどで質問するとたちどころに回答がある。しかし、これはAI自体が考えたものではなく、既存のデータから適当なものを拾い合成しているようだ。だからときにキメラ的な回答になることもある。

 とても便利なのだが少なくとも今私が無料で使っているものの場合、典拠は示されず、どのような改変をしたのかも分からない。だから、AIが独自に考えたように見えるのだ。

 イタリアでは著作権侵害などの理由でこのシステムの使用を制限するらしい。著作権に関しては厳しいEU諸国が追随する可能性は高く、AI検索システムには一つの関門ができた。

 とはいえ、画期的な検索方法を使わないという選択はあり得ないだろう。典拠や回答の生成情報を付記することはさほど難しいこととは思えないし、著作権法に対応した運用もなされるはずだ。

 私は著作権に限らずこの自動検索の過程に意味的理解がなされていないことが懸念事項と考える。配慮とか尊敬といった考え方が存在しないと思わぬ結果になり得る。それをクリアすることが何よりも優先すべきことである。

少ない言葉で

 先に人工知能による画像生成システムの話を書いた。画像を作成するための指定が短いフレーズでできていることは驚きだった。そして、この考え方は実は人間の認知の方法そのものであると気づいたのだ。

 複雑で多彩な絵を完成させるためには多くの指定が必要だ。つまり多くの語意があることで満足できる絵が描けるようになるということだった。ただし、文学にはそれに逆行する考えもある。短歌や俳句などでは使う言葉を限定することで成り立つ短詩形文学だ。先の絵画作成アプリに例えるならば、指定できる言葉の数が限定されている。その中で何らかの絵を描く必要があるということだ。

 思い通りの詳細は描けない。ならば、最低限必要な輪郭なり、色彩なりを提示することで世界を描くしかない。限られた上限で何ができるのかを追求するのが短詩形の特徴であり、それゆえに生まれる効果が短歌らしさ俳句らしさを生み出している。描くのに多くの筆を使わず、色彩も限定する。この美学は顧みるべきだろう。

 少ない言葉で表現される短詩形文学ではあるが、その世界をつかみ取るまでは過去の経験や豊富な語彙が必要になる。多彩な材料の中から枠組みに合うものだけを厳選するというのがその本質なのだろう。

有言実行

 有言実行という熟語の意味からは逸脱するがこの考え方は結構役に立つ。まず言葉にすることの大切さを見事に言語化しているからだ。

 とにかく自分が達成したいことを言ってみる。ここまでは無責任でよい。いろいろなところに吹聴するといい。するともうやるしかなくなる。自分を追い込むことができる。恐らく達成できるのはその幾分かに過ぎないなもしれない。でも、何もやらないよりは遥かにマシだ。

 まず理想を語る。思うのではなく、誰かに語るのた。語る相手がいない場合はブログに書くのでもいい。(大体このブログはそのためのものだ。)リアクションがあれば、言ったことをやらざるを得なくなる。そのうち、自分の目標に近づいていく。

 大言壮語は悪い意味で用いられる。しかし、大言しなければ何も起きない。私はこのブログもそうだが、リアルな生活でもおおぼらを吹いて生きることに決めている。

画像生成

 人工知能を活用した自動画像生成ツールがある。静止画のレベルならば写真と見紛うほどの質の画像が瞬く間に完成する。恐らく既存の人気画像の要素を取り込んでいるのだから、それを合成した生成画像が満足感の高いものになるのは必然なのかもしれない。

 言葉に関心があるものとしてこのシステムには非常に興味深い要素がある。それは作画の指示を言葉によって行うことである。例えば、若い、男、爽やか、カジュアルな服といったようにフレーズを並べる。またそうであってほしくない要素も指定する。例えば不潔、悪党、入墨などだ。これらの要素を除いて作画するのだ。

 絵画が言語によって指定されるのは人間の認知行動の本質に触れているのかもしれない。実際の絵画は画家の長い時間をかけての修練が不可欠だ。だが、何を描こうかと思う出発点は言葉なのかも知れない。

 ならば優れた絵を描こうとするならば操れる言葉の種類が豊富である必要がある、これが少ないと類型的で単純な絵しか生まれない。人間の認知行動や表現行動を可視化したものと思われる。

 いい絵を描けるように、つまり多彩な表現や行動ができるように使える語彙を増やすことが大切だ。これは生徒に対する分かりやすいメッセージになる。

やり方はそれぞれ

 あることを成し遂げるのにやり方はそれぞれだ。私たちはつい最短ルートを他者にも勧めてしまう傾向にあるが、場合によっては好ましくない。その方法が本当に正しいのかは分からない。その人にあっているのかも分からない。

 結果ばかりを求めるのが昨今の風潮だが、結果に至る過程も大事だ。どのように考え、何を求めたのか。その軌跡を重要視したい。そしてそれは人により異なる。結果的に他の人が考えた方法と同じになるにしても、試行錯誤した経験が実は貴重なのだ。

 こういう考えを具現化するためには、失敗体験を容認する余裕が不可欠だ。いまの自分の周りにその余裕が必ずしもあるとは言えない。せめて他人に対して、多様なやり方を許容し、尊重する態度を持ちたい。

しゃべりすぎ

 授業の反省はいろいろあるが、しゃべりすぎたときは特に気をつけたい。説明しきると教員としては満足するが、生徒側の立場では意味が異なる。

 自分の知っていることと知らないことでは、同じ分量でも理解にかかる熱量が違う。知らないことを並べられたらどうだろう。それを処理するのにはかなりの労力を要することになる。このことを考えるべきだ。

 しゃべりすぎないこと。伝える目的を考えることが肝要だ。いつもそう思いながら忘れる。このブログにこんな話題を時々書くのは、私が反省しても実践できない証だ。自戒のためにもその都度書くことにする。