見るだけ学習の落とし穴

 最近漢字が書けない生徒が増えた。いわゆる学力とは無関係に総体的に漢字力が落ちている。これは印象でしかないので調査が必要だが、先日ある会合でいわゆる進学校の先生方と話をしたときも同じ話になった。もっと言えば読むことはできても書けないというのだ。簡単な字であっても書かせるとおかしなことになるという。

 この原因はほぼ断言できる。字を書く機会が激減していることにあるのだろう。子供世代まで現在はスクリーン上で字を読み、書くときもコンピュータを使うということが多い。すると、文字を書く機会がないのである。漢字のような複雑な形をしているものは繰り返し自分で再現しなければ覚えられない。曖昧な記憶でもコンピュータの自動候補選択のおかげで済んでしまうが、詳細は分からなくなる。

 最近の子どもたちの学習で最もよく見られるのは赤いシートで文字を隠して用語を覚えるという方法である。それに対応した問題集がシート付で売られている。生徒諸君はこれを使って見事に英単語や歴史用語を覚えている。ただ、この方法は短期記憶しか形成しないようだ。テスト前の直前学習には向いているが、有効期限付きの記憶となり知識として蓄積されにくい。私たちがやるべきなのはやはり手を動かして要点を書きながらまとめるというパソコン普及以前の学習法のようなのだ。

 これは漢字や英単語、歴史や科学用語などの語彙のレベルの問題にとどまらない。思考を行う際に自分の言葉への変換というプロセスが欠けてしまっているため、複雑な考察ができにくい。分からなくなったらすぐに検索して他人の考察をつぎはぎするので、提出されたレポートは一見出来上がっているように見えるが、統一感がなく筆者の立場や主張が欠けているものが多い。それも手書きでメモを取り、自分の頭脳で再構成するという段階が抜けているからだろう。

 データの検索や分析は機械の助けを借りても、それを使って思考する段階ではやはり筆記用具を使った方法の方がはるかに効率的だ。この方法を使い分けなくてはならない。基礎的な学習段階では要点を手書きでまとめる力の育成に注力したほうがいい。教員の仕事はこの使い分けを教えることにある。

 そのためにはテストの形を変えて評価の方法を変えなくてはなるまい。用語を記憶するのではなく、要するにこれは何を言いたいのかを自分の言葉でまとめさせる解答を求めるのがよい。教員の立場でこの理想に想定される反論を考えるならば、理想的だが採点が大変であり、客観的評価が難しいということがある。記号で選べ、アが正解、の方がはるかに簡単だがこれでは「見るだけ学習」の打開にはならない。答えを自分の言葉で考えさせ、それを表現させるためには、思い切って問題数を減らし、記述させた答えを評価するための観点を確立させたうえで時間をかけて採点するしかあるまい。

変わらぬ場所

 毎年同じ日に同じ場所を訪ねると懐かしさとともにいろいろ思うことがある。無常観といえばそれまでだが、話はもう少し複雑だ。

 日常的な生活空間は常に印象が更新されるので、その変化に気づくことは少ない。建物が建築されたり、取り壊されたりするとその瞬間は変化を感じるが、すぐに時間の流れの渦に飲み込まれ印象が薄くなる。自分自身も常に変化しているのにそれに気づくことはできない。今日の私と昨日の私は細胞レベルでは別の存在だ。それが1年前とか10年前とか期間を長くとればかなり変わってしまう。ベクトルを未来に向けても同じだ。1年後、10年後の自分は今の自分とは異なるはずだ。もっともその時に生きているかどうかは誰もわからない。

 こういうことを思い出すのは、同じ時期に同じ場所に旅をしたときだ。同じ風景に同じ空気に触れたとき、自分は変わったのにと思う。実際はその風景も変化している。その変化よりも己の変化の自覚の方が大きいからなのだろう。自分の変化を知ることは辛くもあり、厳しいことも多い。ただそれを知ることで救われることもある。その意味で日常を抜け出すことには意味がある。

いびつな台風

 台風の進路が複雑になっている。一度通り越した台風が戻ってきてさらに角度を変えて進むという。さらに台風の中心部は雲が少なく、その周りに雨雲があるという不思議な形をしている。台風がこのように不思議な状態を見せるのはおそらく異常気象と関係があるのだろう。大きな被害が出ないことを祈りたい。

脇役の大切さ

 今更言うまでもないが、演劇において脇役や敵役の大切さは非常に大きい。主役が光るためにはその周囲にいる人物が個性を発揮しなくてはならない。

Photo by cottonbro studio on Pexels.com

 私たちの認識というものは対比という仕組みを大切にする。比較や変化を通して物事を特定するのが私たちの考え方の基本なのである。だから、ある人物のキャラクターを考えるときは、それを知るための物差しがいる。演劇などではその物差しを極端に際立たせることで、わかりやすく人物像をつかませようとするのだ。悪役はあくまで悪に徹し、恋人は魅力的でなくてはならない。ただ、それがあまりにわざとらしいと類型的になってしまうため、さまざまなオプションを加え、変化をつけるのである。

 人生を描写したものが舞台なのであるが、舞台は人生を見つめなおす鏡にもなる。私たちが物事を判断しているのはあくまでも他との比較であり、自分の存在は他者の存在を前提としてしか理解されないということを考えるべきなのだろう。私たちは主役として生きていながら誰かのわき役にもなっている。それをどちらも堂々と演じるべきなのだ。

直喩の積み重ね

 何かを表現するときに比喩はもっとも一般的なレトリックの一つだ。比喩にもいろいろな手法があるが、その中でももっともわかりやすいのは例えるものを明示する直喩という方法だ。「ような」「みたいな」などを使って話すことである。

 何に例えられているのかが分かりやすい直喩の方法はイメージを掴みやすい。そして例えるためにはいろいろな言葉のイメージを把握しておくべきだろう。

 直喩を積み重ねることで言いにくい何かを次第に浮かび上がらせる。それが言葉の持つ力なのだろう

宵待草

 亡き恩師が好んで歌った歌に宵待草があった。竹久夢二の詩に哀調のある楽曲がつけられたものである。「待てど暮せど来ぬ人を宵待草のやるせなさ」から始まる歌の意味を中学生の私は語彙のレベルでも経験のレベルでも理解できなかった。ただかなり歌いこまれていた事だけは伝わった。

マツヨイグサ

 宵待草は月見草のことだという説もある。月見草とはマツヨイグサの仲間であり、ツキミソウという種もあるが、大抵はメマツヨイグサかオオマツヨイグサに比定される。これらは黄色い花で道端に生えている。いわゆる雑草の類だ。元は北米の植物で近代に帰化したと考えられている。太宰治の『富嶽百景』には月見草が出てくる。オオマツヨイグサのことではないかとされている。

 月見草といえば野村克也氏が生前自身の存在を長嶋茂雄氏と比較して例えていた。実際のマツヨイグサはかなり生命力が強く、生存競争にも勝ち残りやすい。これも氏の望むことだったのだろうか。

 夢二が宵待草に何を見たのか。太宰治が富士に似合うと考えたのはなぜか。恩師がなぜ宵待草を愛唱し生徒に聞かせたのか。先人は答えない。せめて自ら花を見て考えて見るしかない。

励まし力

 かつて軽登山が趣味だった頃、よく言われたのは疲れたときには他人を励ませ、するとその相手は励まされ、自分自身も力が出るものだと。それは登山をする人には常識のようだ。

 他者を励ますことで自分まで癒やされるのはなぜだろうか。自分は疲れていないぞと虚勢をはって相手へのマウントを取り、気分的優位に立つから、という解答は合っていない気がする。そういうことではない。

 恐らく他者を激励することの行動のうちに、自分を鼓舞する内容が含まれているのだ。あるいは他者を励ます行動そのものが何らかのいい影響をもたらすのかもしれない。

 励ますために使う言葉にヒントがあるのかもしれない。人を励ます言葉を見つけた人は自分自身も励ますことができる、それが大事なことなのだろう。

死の意味

 死の意味を理解することは難しい。死の痛みは概念的ではなく経験的なものだ。しかも自分の死は経験できない。あくまで他人の死をもってその痛みを知るに過ぎない。

 人の死はいつも悲しいかといえば必ずしもそうでもない。ニュースで報道される赤の他人の死の報道で悲嘆に暮れることはない。死者多数の報道を視聴しながら私たちは普通に食事ができる。だがたった一人の死でも肉親や親しい人の死となると茫然自失となる。死の感じ方には死者との関係性が大きく関与する。

 だから、人生経験が少ない若い世代に死の意味を考えさせることは意外に難しい。すぐに死ねと口走る彼らに本当の死の意味は分かっていない。いや年齢の長幼ではない。本当に死の意味が分かるのは自分の死の直前であり、大抵の場合その意味を他人に伝えることはできない。

 私自身も人生の最終コーナー近くにいる(と思われる)くせにいまだに死の意味を納得していない。恐らくそういうものなのだろうという推理は少しずつできるようになってはいるが。

 若い頃に自分の死の場面を漠然と考えたことがある。その大半は外れ、運良く今日まで生きている。この先は分からない。明日かもしれないし10年後かもしれない。ただ確実に近づく死時を想像可能になった今、死の観念はかなり変わって来たのは事実だ。

 若い世代には言いたい死とは難しいものだぞ。

百日紅

 猛暑続きでうんざりしている。ただ、その中でもきれいな花を咲かせる百日紅は夏を彩る心の救いの一つだ。サルスベリの名の通り、樹皮が剥げ落ちたような姿をしているのだが、この暑い中でも勢いは衰えていない。南国を思わせる花も今の季節には向いている。別に夏だけの花ではないが、今年に限っては酷暑に立ち向かう樹木として考えることにした。

雷鳴

Photo by Petr Ganaj on Pexels.com

 久しぶりのお湿りは激しい雷雨であった。関東地方南部としては久しぶりの雷雨のような気がする。これまでの異常なほどの安定した猛暑が崩れたのは遠い台風の影響もあるのだろうか。一時的に気温が下がるのはありがたいがあまりに激しい雷鳴には命が縮む思いがする。

 そういえば、今年はゲリラ豪雨という話をあまり聞かない。これからは雷鳴の続く季節になるのだろうか。