哲学を身近なものにしようとする試みは学校でも行われている。答えのない問題を深く考えることの大切さは何ものにも変えがたいものがある。
哲学的な境地をどこに求めるのかは議論の余地がある。賢哲の教えをある程度勉強しなければ哲学などできないという意見もある。これは間違いではない。ただ、そればかり気にしていると深い思考に至る前に人生は終わってしまうかもしれない。
何も知らなくてもいい。難しい理論は後から学べはいいというのが正しいのだろう。深く学んでいるうちに気づくことがある。この方が大事だ。
日々の思いを言葉にして
今年の授業のテーマは教え過ぎないことである。単なる情報伝達ならば人間以上に優れたものがある。教えなくてはならないのはそれらを駆使して運用する言語能力である。この方は助言がいる。
自分が受けてきた授業では教員が一方的に情報を与え、生徒はそれをとにかく覚える。無批判に受け入れられる生徒ほど成績がいい。それで大学まで合格できてしまう。できないのは先天的な要素もあるが、それ以上に他人の価値観を素直に受け入れる能力だろう。
そういう人材の中には、自分から新しいことを生み出したり工夫したりする能力がない人も多い。与えられたことは見事にやってのけるが前例のない事態に対しては弱い。それが日本のエリートの主流と考えられる。
では自ら考える力を培う為には何をすればいいだろう。その一つの仮説として答えでなく答え方を教える方面へのシフトだ。教員ならばこの理想論は必ずどこかで聞いたことがあるはずだ。教育学者が理論として述べることも多い。でも具体的に何をすればいいのかを示す人は少ない。示してもおよそ実現不可能であったりする。それでは前に進まない。
私はまず生徒諸君が考える時間を作ることが肝要と心得る。答えを次々に提示するより時間がかかる。伝えられる情報量は激減する。いろいろなことを割り切らなくてはならない。でも目的が考えることの方にあるならばそれを優先すべきなのだ。
4月からはかなり違った授業になるのだろう。冒険であるが楽しみでもある。
コロナ禍を経て失ったことは数多い。痛切な悲しみもあった。諦めたこともあった。ただ得たこともある。その一つが人との関わり方の多様性を学べたことである。
ディスダンシングという拘束を味わった私たちは、それでも思いを伝えるための方法を考えた。デジタルデバイスの活用はその代表だ。しかし、テクノロジーの力だけではない。マスクをしてもコミュニケーションができるように伝達の方法を工夫した。大げさなリアクションはその一つである。
また、何をやっても伝わらないこともあるという事実を痛感した。それも大切な確認だった。自分の思いがすべて伝わるなどという幻覚を少しだけ排除することができた。
私は4月からは特に求められない限りマスクをしないつもりだ。花粉症対策薬が効き続けることが前提だが。新年度はどんな年になるのだろう。コミュニケーションの限界を知った私はそれを乗り越えられそうな気がしている。
物事の本質を見るためには直感が必要なのだろう。ひらめきと言ってもいい。それはまさに天から降ってくるような感覚だ。
その直感はどのように培われるのだろうか。天賦のものという表現もある。しかし、これは先天的な要素だけではうまくいかない。経験と感触の記憶のようなものが影響していると言われている。
天才と言われる人は何もせずに能力を発揮できると信じられている。ただ、その才を表出する前に基盤となった経験をしていることが多いようだ。一見結びつかないような出来事から才能を開花する養分を得る。自分でも意識しないうちに準備ができているということになる。その組み合わせが起きる可能性が低いため、天才は希少なのだ。
天才にならないまでも、私たちは一見結びつかないが経験やそこから得られた感触が知的活動の基盤になっていることに気づかなくてはなるまい。役に立つことだけをやろうとする昨今の風潮はその意味でかなり危険だ。シンギュラリティを恐れている人間が進んで機械の思考システムに近づこうとしている。
統一地方選挙の対象地域ではないが、隣県が知事、県議、市議のすべての選挙が行われるらしく巨大な掲示板が立っている。また、すでに選挙戦が始まっており、様々な候補者が演説している。その中で気になったことがある。
ある候補はふるさと納税の弊害を訴えていた。その内容によると、本来市に入るはずの税金が他の地域に流失している。その額が非常に大きく、損害というほかないというのだ。これは多くの人が考えていることであり、大都市圏の自治体にとっては深刻な問題なのであろう。
ふるさと納税を実施する人の多くはいわゆる返礼品が目当てである。魅力的な返礼品を用意する自治体には税が集まりやすい。人口の少ない地方都市町村にとっては重要な収入源であるから、この制度には意味があるのだ。
ただ、ふるさと納税の目的はあくまで納税者がその地域の支援をしたいという意志に基づくものであり、その結果自分の住んでいる地域の福祉への支援が少々低下するという意識が必要だ。こういう考えを持っている人は少なく、私もいま理屈では理解しても、実感に基づくものではない。都会人であればあるほど、自分の居住地域に対する愛着は低く、仮の住まいという考えが強い。だから、税をどこに収めようとかまわないと考える。
最後まで演説を聞かなかったので、どのような結論なのかは分からない。ただ、言えるのは納税者の態度を責めたところで得票には至らないということだろう。その地域の住民ではないのでそれ以上は言えないが、要するに自分の住まいに愛着が足りないということを言いたいのだろう。
彼は政治家としてどのような政治を展開すべきだろう。まずは自分の住まいに愛着をもたせるような政治を行うことを目指すべきだろう。そのために何をすべきなのかを考えるべきだ。ふるさと納税という視点で考えれば、地方自治体の政治家の仕事の一つは住民の地域社会への関心を高めることだ。税収増につながるのならば、それは立派な仕事といえるだろう。あなたのふるさとはどこなのかとなじる前に、ふるさとを一緒に作りましょうと訴え、それを粛々と実行する人が地方自治体の政治家にはふさわしい。
川崎駅周辺に100以上の監視カメラが設置されるのだという。川崎市長は全国で最も安心できる街にすると記者の取材に対して述べたらしい。川崎は現在訪れるとかなり整然としているが、かつては犯罪も多く発生していたので危ない街という印象がある。おそらくそういう先入観を払拭したいという考えもあるだろう。
川崎に限らず設置者の公私を問わないならばすでに多くの監視カメラが設置されている。警視庁が設置するカメラは分かりやすいが、そのほかにも駅の改札付近のカメラやコンビニエンスストアのカメラ、個々人が防犯のために玄関から外を写しているカメラなどがある。さらにこれは盲点かもしれないがいわゆるドライブレコーダーは移動しながら街の様子を記録し続けている。
すでに現代社会は監視されている社会なのである。いまのところはそれを統合することは難しいかもしれないが、やろうと思えばできてしまうテクノロジーはそろっている。犯罪が起きないようにするため、起きてもすぐに犯人を特定するためにはこうした技術は有益だろう。ただいつも誰かに監視されているということを忘れてはならない。世間の目がゆるさないという日本人が伝統的に持ってきた価値観はすでに形而上学的なものではないということなのだ。
エラ・フィッツジェラルドの名曲 Someone to watch over meのようなロマンティックな状況とは少々違う。