賑わい

 コロナの制限が終わって様々な制限が解除されつつある。様々なイベントも復活している。イベントを整然と行うのは日本人の得意技の一つだ。楽しむためには節度が必要なことを社会生活の中で習得できているからだろう。

 祭りというのは日本の社会を維持していくための重傷な要素であると感じている。日本文化には晴と褻という対極があって、晴の場面では様々な特殊能力が発揮される。それが日常のブレイクスルーとなり、社会を変えることもある。そしてまた褻の説活に戻って何事もないように秩序を重んじる生活に戻る。これが日本の文化的な特質なのだろう。

 日本人の特性は晴の時間にどれだけ日常を逸脱できるかにある。祭りはその逸脱の場であるはずだ。日本人の能力を最大限に活用したいならば、これに対する寛容性を身につけるしかあるまい。

花散らし

 昨日からやや強い雨が降り続いている。早くも花散らしの雨ということになろう。通勤電車の車窓に流れる小学校前の桜並木も春休みの間に散ってしまいそうだ。今日は気温も下がる。穏やかにあってほしい。

 

ハナミズキの花芽

 毎日歩く道の街路樹として植えられているハナミズキにたくさんの花芽がついているのに気づいた。桜が終わった頃から一斉に咲く風景を楽しみにしている。

 調べてみると花芽は昨年秋にはついていたのだという。まったく気づかなかった。よく言われるように、そこにものがあれば見えるのではなく、見ようと思わなければ見えないものなのだろう。

 アメリカヤマボウシにはバックストーリーがあることはこれまでも何度か触れてきた。それなのに花期以外のこの植物をよく見ていなかったことにいまさらながら気づいたのである。

僕らの知らない道だけど

 仕事柄、いろいろなことに躓いている人に声をかけることが多い。そういうときに思うのは人それぞれのやり方があっていいということだ。

 同調圧力をかける側の仕事をしておりながら、自己矛盾も感じる。ただ、やるべきことは人によって違う。やり方も人それぞれという事実は忘れてはならない。他人と別のやり方では都合が悪いのは自己利益のために誰かが犠牲になることだ。それは避けるべきだろう。全く何も迷惑をかけないことは不可能だが、それにも節度がある。それを超えるものでなければよいのではないか。

 自分の歩いた道は人にも勧めやすい。少なくともその道でどう振る舞えばいいのかを心得ているからだ。対して自分が経験したことのない進み方をしている人にはついそれは間違っているからこちらに来いと言ってしまう。その人の適性など考えることなく。

 私はそのやり方は知らないが、でもそれがいいならやってみるといい。そういう余裕をもちたい。

もう見頃

 通勤の車窓から見えるソメイヨシノの並木が満開に近づいている。きようは雨なので薄暗い風景を花がしっとりとして見えている。恐らく新入生を待ってはくれないだろう。ちょっと惜しい。学校の近くに植えるのは八重桜の方がいいのかもしれない。

時間のメリハリ

 学習するときの時間の使い方は区別すべきだ。目的が学ぶ過程にあるのか結果にあるのかをまず峻別しよう。

 一生懸命やれば結果が出るとは私たちが根拠なく信じてきたことだ。恐らくそれは間違っていない。ただこれには条件があって、制限時間が短く設定されていないことだ。長く根気強く続けていればてきるようになることがある。趣味のことやライフワークといったものはこれに属する。長く細くいつまでも続ける学習法が適している。

 対して時間制限があるもの、期限が限られているものは時間の使い方が異なる。結果を求められる場合、極論を言えば正解さえ分かればいいのだ。できるだけ効率的になおかつ再現性が高い方法が見つかればなおいい。こうした種の学習は学校で教えることの大半が含まれる。本当はそれではいけないと思うが現実がそうなのだ。

 結果が求められるものの学習方法は時間の割り切りが必要だ。普段からある程度の制限時間を設けその中で学ぶことが必要なのだろう。教員の役割はそれを個々人の理解度に応じて調節し提案することだろう。

 私自身もこの二つの時間の使い方を意識する必要を感じでいる。だが、しばしばこれを取り違える。

日本の野球これから

 ワールドベースボールクラシックは日本が優勝したことで野球熱は復活するのだろうか。気になることはそうは言ってもやはりアメリカの下部組織のような役割であることは、変わりがないという事実だ。

 日本のプロ野球のレベルを上げるためには外国人登録枠をもう少し広げてもいい。そして二軍の地方分散と地位の向上を目指すべきではないか。

 今回の国際試合で活躍した各国の選手が日本でプレーする姿をみたい。ウラディミール・バレンティンのように日本で開花する人材もいるかもしれない。

コメント

 通知表に何を書かれたか。それを覚えている人は少ないだろう。小学生の時の一言で性格を書かれたコメントは大概納得がいかなかった。親にはうなずかれても自分ではそうは思わなかった。そんなによくも悪くもないと思った。

 人の気質なりコンピテンシーなりをそんなに簡単に言い表せるはずはない。書けたとしてもそれは一人の視点から見たもので、神の視点によるものではない。もしあなたが親ならば、そのことを踏まえて子に助言すべきだ。

 逆にこんな見方もできるという可能性を示したものとして捉えるならば意味が出てくる。生徒自身の考える自分と、親が我が子に対する見方とは別に他人からはどのように見えているのかを知る一つの材料とすればいい。それは絶対的なものではない。人の評価など自身も含めて容易ではない。色々な視点を集めてようやく全体の中の一部分が照射される。そういうものだろう。

目的確認

 仕事のデジタル化が少しずつ進んでいる。その結果、これまで時間がかかったことがかなり短縮できるようになってきた。いまのところ採点が機械化したことで、小テストを行いやすくなったということがある。ただ、これが学習の効率に結びついているのかどうかはまだわからない。目的の確認が必要だ。

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 教員の仕事を少しだけ楽にすることに関しては成功した。ほんのわずかだが、過去に比べるとかなり楽だ。定時には帰れないが、理不尽なほど遅くはならない。ただ、教育のデジタル化が生徒の立場でどれほど意味があることなのかは常に検証していかなくてはならないだろう。テストはすぐに帰ってくるがどうもきちんと復習はできていない。テストもルーティンワークの一種と考え、知識を一過性のものにしてしまう。そもそも問題を解くことの喜びを感じられない。そういうことがないかということを考え直すべきなのだ。

 そのためには、省力化した分の余裕で何ができるのかを考えるべきだろう。いまのところ、私はそれを面談に費やすべきだと考えている。教員の最後にして最大の仕事は生徒諸君の学習意欲をあげることに他ならない。どんなに良い教え方をしても生徒が聞き流してしまえばそれまでだ。だから、自分で学べる工夫をしていくことにすべての叡智を傾けるべきなのだ。できることといえば学習方法への助言と、それよりも大きいのが個々の生徒に注目していることを伝えることだろう。

 生徒の数が多い中でどうやって面談を行うか。私の日程も結構詰まっており、不規則だ。それを解消するのはやはりスケジュール管理ソフトなどを活用するほかあるまい。それをどのように行うのか。この春休みの課題として考えていくことにしたい。

4月から

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 私の職場では4月からマスクの着用義務がなくなった。ようやく自由に仕事ができると思いきや意外にも当面つけ続けることを考えている人は多い。3年もマスクをつけ続けたための弊害もある。

 もちろん、いまだコロナウイルスの感染の恐れはなくなっておらず、一定の予防効果があることは捨てがたい。私にとっては花粉症の方がその何倍も恐怖である。今シーズンは飛散の量が多めらしく、周囲に症状が出ている人が多数いる。花粉症シーズンが終わってもまだマスク着用を続けるのかがこの話題の問題点になるのだろう。

 マスクの着脱が個人の判断であるかどうかを私は問題にしたいのである。パンデミックの前から季節に関わらずマスクをしている人はいた。それには体質的な問題もあれば、精神面での要因もある。何から自分の身を守るのかは疫学だけでは語れないのだ。それを認めることがこれからも大切なのだ。

 危惧するのはいわゆる「マスク警察」を自任する人が勘違いを起こさないことだろう。自分とは異なる少数派をあたかも犯罪者のごとく排斥する行為は、残念ながらこのパンデミックが露呈してしまった。今度は脱マスクに関して行き過ぎた行動をすることはないだろうか。

 同調性が極めて強い私たちの国民性は新しい局面に移行するとき様々な問題を引き起こす。慎重さが奏功することもあるが、対応が遅れたり、少数派を傷つけたりする負の局面も多い。個々人が判断することの大切さを現在の状況は求めているのだ。