フジコヘミングさんが亡くなられた。数年前、コンサートでその演奏を聴いたことがある。ラカンパネラなどの難曲を含む演奏に感動した。ピアノに辿り着くまでは歩行補助具を使っていたのに、演奏になると雰囲気が変わる。もちろんミスタッチもあったが、そんなことが気にならないほどの表現力とオーラがあふれていた。そのとき90歳であった。
天国でも演奏を続けられるのだろうか。演奏の記録と記憶はこれからも長く残るはずだ。ご冥福をお祈りします。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
今日から5月だ。新年度の始まりはいろいろあったが何とか切り抜けられた。反省点が多数あるので、その修正から始めたい。
少し余裕ができたのでその時間を活かすことにする。まずは時短のために様々な策を練ることだ。雑用は切り捨て、やるべきことに集中しよう。また、時間が来たら途中でも止める勇気を持つことにする。
今更だがいわゆるリスキリングも試みたい。取りあえずは英語とネット関連の学習は細々と続ける。資格を取得するわけではないのだが、一定の成果が出るように時々自己評価する。このブログにも書くことがあるだろうが、老の足掻きと見逃していただきたい。
5月は昔から精神が不安定になりやすい季節だと言われている。そのためにも少し多めの目標を立てて悩む暇を消していくことにしよう。
最近少し気になっているのが「思っています」という表現の拡張である。この言葉自体には新規性はなく、むしろありふれている。自分がある考えを継続的に持ち続けているということで、「と思う」に比べてある種の立場なり主張を言うときに使われる。
気になっているのは「(私は)〜と思っているので」のように話の前提として思っている現状を提示する用法である。私の日頃の思考形式はこうなのでということであろう。つまり自分の立場を相手に先に伝えて、自分の主張を理解してほしいという先回りの手段だ。実際の文脈で聞く限り、私はかくかくしかじかの立ち位置にいるから、これから私の言うことはそのつもりでお聞きいただきたいということが言いたいらしい。
この用法は用語としても文法としても間違いではない。私が覚える違和感は「思い」の表明が相手への説得の前提になっていることにあるのかもしれない。私の立場はあなたとは違うかもしれない。でも、私はこのように「思っている」のでそこは譲れない。どうかこのことはお察しいただきたい。そういう手続きが感じられるのだ。
説得の戦略としては一応成立している。ただ、相手は当然自分の立場を理解してくれるという楽天的な前提があることは確かだ。これは日本人の日常の会話形式と親和性が高い。ただかつてはこういうことは言葉には出さず、当然の前提として話が展開することが多かった。そのためうっかりすると相手の真意を掴みかねることもあるのが日本型コミュニケーションの難点であったといえる。その意味では「私は〜と思っていますので」という表現はその常識が共通概念であるのかの確認であるということもできる。
少し前に「それはあなたの感想でしょう」という自己撞着した相手への批判があった。これはそのまま発言者に跳ね返せる。感想ではない発言がどこにあるのかといいたい。でも、言われた当座はかなりインパクトが強く、なるべくならそう言われたり思われたりはしたくない。おそらく先入観とか誤解というのを朧化しているのだろう。この「と思っている」はこのような批判への防御線として頻用されているのかもしれない。
自分の考えていたことと現実が大きく異なるという事実に時々出会う。自分の中でかってに作っていた想像の姿が現実には全く別のものであるという発見だ。これは知識の不足からくることもあるが、むしろ自分ではそう思っていたのに現実は違っていたということの方が多い。
なにかの対象についての概念は日々の経験や、他者から受けた情報などで少しずつ形成される。しかし、どういうわけかどんなにたくさん情報があっても自分が作った骨組みにそって取捨選択がなされ、結局は現実とは遠い概念が生まれてしまうことになる。そして、一度ある程度それが出来上がると修正することが困難になる。思い込みというものが形成されるのだ。
日常生活において自分の身近で常に繰り返されるものは、それに対する概念が更新されていくが、少々縁遠いものだと誤った概念が修正されることなく残ってしまうことがある。それがあるときなにかのきっかけで急に真実に接することになると、最初に述べた衝撃が発生することになるのだ。齢を重ねていくとそういう機会は減っていくがそれでも必ずある。長年考えていたことが実は間違いであったことを知るのは驚きと羞恥とそして喜びを含んだ感動をもたらしてくれる。
大切なのはそういう概念の更新を怠らないことなのだろう。もうなんでも知っている。なにも学ぶことはないといった学習停止をどうやったら避けられるのか。それが私にとっての大きな課題なのである。
先入観を持って物事を見るのはよくないことである。それは確かだ。でも、まったく先入観のない状態などありえない。私たちは物事を見るときになにがしかのフレームを持っていなくては安心できない。何もない状態で世界を見ることはあまりにもワイルドだ。過酷な状態に身をさらし続けると、披露困憊して十分な行動ができない。
これはこういうものだという把握を思い込みとみなすのか、掌握のための手段とみなすのかで評価は大きく変わる。思い込みは良くない、でもある程度の固定概念は日常を切り抜けるためには欠かせない。この区別を上手くできないと話は極論になってしまう。思い込みは良くないとだけ言う人はこの点を考えなくてはならない。
それでは先入観を極力なくし、なおかつ日常生活を成立させるのにはどうすればいいのだろう。まずは自分が無力であることを自覚することが必要なのだろう。自分の価値観が世界の価値観と近いと考えてはならない。自分は世の中の常識と言われている広い分布範囲の周辺部分にいる一つの点に過ぎないことを考えるべきだ。そして、それは私だけではなく、ほとんどの個人は同じ立場なのだ。
常識とか多数派とかそういう幻想は捨てなくてはならない。私たちは個々人のできる範囲のことしかできない。それを他人から見た粗密の尺度に照らし合わせても得られることは少ない、自分の行動はあくまでも多くある事例の一つであり、それが集団の真ん中にあるのか周辺部にあるのかなどだれにも分からない。
思い込みをなくし、消化できていないことを冷静に考察し始めることが大切だ。これはこれからの人生観に直結する。人生を豊かにするためにはある程度知らないことは多いほうがいい、