投稿者: Mitsuhiro

ユウゲショウ

 以前も書いたことがあるが帰化植物のアカバナユウゲショウは実に愛らしい雑草である。雑草という分類自体がおかしいのだが、過酷な環境においても繁茂する生命力という点においては雑草そのものだ。

 月見草の仲間らしく、その名の由来は夕方に開花することにあるらしいが、実際は一日中開花している。ピンクと赤の中間のような花が咲くのでとても目立つ。小ぶりではあるが、園芸品種といっても疑われない出立ちだ。

 ところが庭に生えるとすぐに広がり、他の植物を駆逐してしまうらしく、ガーデナーたちにとっては駆除すべき対象の一つだという。かわいいだけではないのである。

 通勤の途上にアスファルトのわずかな隙間にこのユウゲショウが咲いているとこ ろがあり、毎朝確認するのが日課になっている。まだ抜かれていないようだと安堵なする。雑草扱いにしたり、鑑賞の対象としたり、人間は勝手な価値基準がある。

選挙ビジネス

 最近、選挙をビジネスチャンスとして考え、利益を得ている人たちがいる。選挙制度の見直しが検討されているが、本来こうしたことは起きてはいけなかった。

 選挙で選ばれるべき人は社会的常識を備え、利他的行動ができると仮定されていた。しかし、どうもこれは甘い想定であったようだ。候補者としてもっともらしいことを述べ、自らの正義を縷々述べるのに、実は本当の目的は立候補することによって得られる利益である。これが公費から支給されているのだから、有権者としては意義を申し立てるしかない。

 問題なのは真っ当な政治家であっても、現行の制度下では一定の利益を得られる仕組みにあることかもしれない。日本の国会議員の報酬は海外と比べて高額であり、さまざまな補助金もある。選挙がビジネスであるのだけではなく、当選した末に得られる利益も莫大なものがあるのだ。

 そろそろ私たちは、ビジネスとして税金を横領し、民主主義の根幹を揺るがす行いをする似非政治家と訣別しなくてはならない。既成政党の不甲斐なさはそれとして、だからといってその隙間に漬け込む政治家ライクな実業家諸兄には別の仕事を探していただかなければならないだろう。

 彼らの撒く毒は少しずつ民主主義を破壊していく。そのことをもっと取り上げてほしい。

月やあらむ

 時々思い出す古歌に

月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして

 がある。伊勢物語では業平と思しき人物が后がねの女性に恋してしまった悲恋の話の中に印象的に登場する。

 そういう上つ方の話はそれとして、この歌にある月も春も循環するものなのに、おのれは着実に年老いていく様を歌ったのものとして捉え直すと、この歌のもたらす感慨は計り知れない。地球の寿命と、人間一個人の人生とは桁違いに異なるので、その差異に感嘆せざるを得ないのである。

 それでも私たちは人生の中に何らかの節目を作ろうとする。そうすることによって、人生が単調なものではなく、一定の意味を持つものとして理解できるようになるのである。尺度が変わると人生の見方は大きく変わる。

 そのくらいヒトにとつて重要なものは、自分が生きている生活の期間というものなのだろう。日本人の場合、それが80年程度という微妙な期間がさまざまな意味を持つ。

 古歌の趣きにかえって、自分だけが時間の流れの中で疎外感を感じているという世界観に思いを馳せよう。そこに広がる華やかな世界はそれとして、その中で人間のエリート達がいかにも振る舞うのか。そういったことを関心の片隅におきながら考えてみよう。

あの時の表情

 昔の友人か見せた何気ない表情がふと脳裏に浮かぶことがある。日常の風景の中で時々見せた表情は、何かを訴えるのでもなく、ごく普通の状況で出会った。

 ずっと忘れていたのだが、なぜか急に思い出してしばらく低徊している。もう二度と会うことのない表情、それがあった時代、その周辺の世界、といったふうに感傷的な気分が広がる。

 もう少ししたらその表情の意味が分かるのだろうか、故人の面影を追うことにブレーキをかけてしまう私の安全装置を解除したら何が起きるのだろう。そんなことを瞬時思っては、取り下げることが続いている。

受け手が作品を作る

いろいろな創作にある寓意を発見するのは楽しい。実はそういう意味があったのだと気づいたときに謎が解けたような気がする。そして、より深く作品を味わえる気分になる。

 ただ、それが作者が意図して作り込んだのかといえばそうとも限らない。本来は別の意味で書かれたものが、受け手側の解釈によって異なるものと映ることがある。世代的、世相的な変化でそう感じることもあるかもしれない。

 作品は作者によって作られるが、読者や観客によって意味づけされ、完成する。それも享受者が変わることで何度も意味づけされ、その都度変わっていくものらしい。

推敲の意味を教える

 漢文で教える「推敲」の故事を覚えているだろうか。科挙のために上京した賈島なる人物が詩作の過程で「推」か「敲」のどちらの文字を使うのがよいか悩む中で韓愈の行列を遮ってしまう無礼を働いたが、韓愈は詳細を訪ねて詩について論じ合ったというあの話である。大体、この授業はここで終わるのだが、本当に考えなくてはならないのは「推敲」することの面白さ、楽しさ、そして重要さだろう。

 推敲することは自分の文章を見つめ直し、より高いレベルのものに仕立て上げる試みである。それによってそれまで以上の効果が現れたり、自分が期待した以上の何かが表現できたりする。最初の時点では思いもつかなかったことが実現できたりするのだからとても意味がある行いと言えるのである。

 現在は完成の速度を求められ、さらに生成AIなどに任せてしまうと推敲することの意味を感じにくい。それ以前に推敲という行為そのものをする機会がなくなってしまっているように思う。推敲の意義は意識的に教えなくてはならない段階にとっくに入っている。

 作家の草稿を見ると著しい推敲の跡がみられる。中には書き込みが多すぎて読むこと自体が大変になっているものもある。現在はコンピュータで入力するから、推敲の形跡が可視化されることは少ない。また最終版が最善版であるという発展思考型の考え方では、制作途中の行程には関心はいかないのかもしれない。つまり「推敲」という行為の意味が分かりにくくなっている。

 私自身も文章を原稿用紙に向かって書く機会がどんどん減っている。でも実はこれはとても残念なことなのかもしれない。このブログはデジタル入力だが、本当に言いたいこと(このブログがそうではないというのではないが)手書きで残した方がいいと思っている。

思ってもみない

「思ってもない」という表現はその後に期待していなかった幸運が続くのが普通だ。ただ、これを不幸の形容に使う例にせつした。誤用といえばそれまでだが、そのくらい想定外のことが起きているということだろう。

漢文を教える

 漢文は国語の中ではもっともテストで点が取りやすい分野なので、いわゆる受験のための学習者にとっては大切だ。ただ、問題は学習の意義を見出せない人が多く受験のための手段として割り切ってしまえるかどうかで道が別れるようだ。

 ただ、私のような立場のものにとってこの考え方は実に苦々しいものだ。漢文が受験以外に役に立たないとはなんたる謂だ。現代の日本語は漢文訓読の影響を受けて成立している。単語レベルでは、蛇足、傍若無人、四面楚歌、羊頭狗肉など漢文由来のものがいくらでもある。そんな言葉は使わないという人も、完璧は使うはずだ。もっとも完全な壁と考えている人も多いようだが。

 漢文教育不要論者にはいくらでも反論できるが、今回話題にしたいのは漢文訓読のことである。返り点や送り仮名をつけて外国語である古典中国語を無理矢理読んでしまうのは古人の知恵の賜物だ。中国語は日本語とはかなり異なる文法でできている。例えば「無」は「なし」と読んで形容詞のように扱うが、どう考えても動詞の役割を果たしている。下に目的語を置いて、それが存在しないことを表す言葉であり、日本語とは役割が異なる。逆の「有」は「あり」と読んで動詞の扱いだが、どちらも中国語としては同じ役割だ。漢文訓読は本来全く異なる言語の構造を巧みに乗り越える工夫がなされている。

 この芸当ができるのは表意文字である漢字を共有しているからである。英語に訓点をつけてもさっぱり分からないのは、literatureが文学だということが直感的に悟れないからだ。文学なら少なくとも文に関する学びだと想像できる。

漢文訓読は異文化をどう消化し摂取するかを体現したものとして日本文化理解に欠かせないものだろう。変化することは変化しない日本文化の特徴の一つとして知っておいて損はない。テストなんかに出すからその価値が分からなくなると実は言いたいのだ。もっとも出題しなければますます学ぶ人が減るのだろうが。

ルーティンの気楽さ

 ルーティンに入るとかえって楽だと感じることがある。連休明けで元の時間が戻ると相変わらず忙しく息つく暇もないという感じだが、その方が楽だと感じる自分がいる。よいことか分からないがやるべきことが決まっているということはある意味楽である。

 ただ、やりがいを感じられない仕事を続けると徒労感しか生まれない。やり切れたことの達成感はあるが、それ以上を得るのは難しい。私はかつて自分でやるべきことを決めて、成果を後で問われるという仕事をしていた。その頃の感触が残っているので、今のような毎日やるべきことが与えられ、成果がその都度評価されるという(世の中では当たり前の)やり方に馴染めなかった。

 それも長年繰り返すうちに徐々になれてきてしまった。いちいち次に何をやるかを悩まなくていいのは気楽なのだ。たとえ毎日の業務が多忙であっても。

 そこでまた迷いが始まる。これでいいのだろうか、進む道を人任せにして、明日を迷う作業を忘れても構わないのか。私の心の中では大きな「否」の声が聞こえる。ただ、ならばどうするという問いに関して、私の一部が黙り込んでしまうのだ。

 ルーティンワークの気楽さを抜け出して困惑と試行錯誤の道に入ることを勇気を持たなくてはならない。そういう「から」決意をこれからも繰り返すことになりそうだ。

現在進行形で考える

 考えていることを「過去形」で語らないことは私の世代にとってはかなりの重要事であると考える。私の考えていることはあくまで「現在進行形」であり、すでに規定された何かではないのだ。そんな当たり前のことが、私の世代ではすべてを過去形で話すような傾向がある。そういう圧力に押されているというのが正しいのだろうか。

 これはこれまでの常識ではこうであった。といった言い方がしばしばみられる。物事の基準が目まぐるしく変化する「ように見える」現状においては、過去の出来事の価値が不明瞭になりやすい。それは古典文学を研究しているときに知る、古典尊重主義とは真逆であり、大変興味深いものだ。古き良き時代に理想をおいてそれに近づくことを美とするこの価値観を私はよしとはしない。むしろかなり問題を抱えた思考法と思う。ただ、それによって与えられてきた思考的安定感は評価すべきものだ。どうなるか分からない未来に神経をすり減らすより、過去の時代に規範を置く方が精神的には健康であるといえる。

 過去の価値観を妄信してはいけない。時代的な要因が複雑にあり、過去の時代に理想を見出すのは実はかなり難しい。昔はよかったと思う気持ちは理解しやすいが、実は昔の方が様々な制約に取り囲まれ不自由で非人道的であったりする。過去の美化は人間の自然な心理動向かもしれないが、それが合理的かどうかは考え直す必要がある。

 何が言いたいのかといえば私のような現役終端世代は過去を語るのではなく、現在進行形でものごと語り、経験則を強みとしながら、あくまでも現在に訴えかけるような文法で話しかけ、語り掛けるべきだということなのである。現役である以上はキャリアにかかわらず、現状に対処しなくてはならない。その際に経験の古さに遠慮は不要であるし、現在の状況に対峙することに躊躇してはならない。そういう気持ちを持ち続けたいと思う。