投稿者: Mitsuhiro

キーウ

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ロシア軍はウクライナの首都キエフをほぼ占領したという。圧倒的な軍事力の差を見せつけられている。これが大国の戦争の仕方なのだろう。すでに多くの犠牲者が出ているらしい。報道されていないものもあるはずだ。これ以上の被害が出ないことを心から祈る。

キエフと書いたがこれはロシア語による読み方であり、ウクライナ語ではキーウの方が近い(私にはキーユと聞こえる)。反ロシアの意味を込めて、アメリカのメディアはKievではなく、Kyivと表記しているようだ。日本のメディアもキーウが見え始めている。

キエフといえばムソルグスキーの「展覧会の絵」というピアノ曲(オーケストラ編曲もある)の終曲がキエフの大門と訳されている。この街には印象的な建物や彫刻が多いらしい。借りてきた上の写真も勝利の像という女神像だ。これらは無事でいるのだろうか。

この街は何度も戦火にあい、そのたびに復興している。たくましい街と言えるが、こういうことは繰り返さないほうがいい。

戦いの扉

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ロシアの侵攻が止まらない。その中で我が国でも本格的な軍備をすべきだという議論が出てきているようだ。人類の歴史は時に振れが大きくなる。平和の反動で戦争が起こることもある。それが恐ろしいことだ。

無責任に軍拡を唱える人はおそらく戦場に立つ勇気はない。人殺しが公認される戦争は私たちの想像を超えている。誰もが戦うことは恐ろしいと考えるのに、戦わざるを得なくなるのが人類の進化上の限界なのか。

戦いの扉はいとも簡単に開かれてしまった。扉の向こうから強烈な吸い込みが起きている。いろいろなものが戦場に引き込まれていく。高みの見物を決め込むはずが、いつの間にか関係者になっている。戦争というものの吸引力は凄まじい。

戦争に対して私は無力だ。せめて、反戦の気持ちを書くことで、密やかな抵抗を試みる。この戦いはすべての人を不幸にする。どちらも敗者になる。ロシアのような大国が戦争をしてしまったことが残念でならない。

教員の知り合い

知り合いに先生はいますか

 我が国では教員の知り合いを持つ人の割合が国際比較で低めであるというニュースを読んだ。自身が教員なのでこの記事の信憑性には疑問を持つが案外そうなのかも知れない。

 教員の数自体は少なくない。ただ、教員が多忙のあまり異業種の人との関わりを持たないことが、先のデータの理由の一つだと記事はまとめている。

 そう言われると同窓会にもしばらく行けていないし、保護者を除けば教育関係者以外の方と話す機会は限られている。労働時間が長めなのもあるが、そもそも異業種交流の場が少ない。

 もちろんこれは教員に限らないはずだ。コロナ禍に見舞われてからはさらにその傾向は強くなってしまった。これは教員にとってはかなり問題である。

 学校は社会のあり方を教える機関だ。その現場にいる人が社会を知らないのは自己矛盾そのものではないか。長期的に見て大きな損失といえる。

 ならば教員に研修に行かせようという発想は役人が考えて来たことだ。そしてそれは進まない。参加者にも中長期的な効果が出ない。単発のイベントでは多忙に拍車をかける残業に過ぎないからだ。

 教員の業務的な軽減を図るとか、異業種体験を業務の中に取り込むといったことをやってもいいと考える。私のような世間知らずではなく、いま何が必要とされているのか分かっている人が教えれば、授業はおもしろくなるはずだから。

叡智を

 ウクライナの内線に乗じて戦争が始まろうとしている。この手法は太古以来の伝統的なものであり、回避すべき策を探さなくてはならない。

 この戦いの背景にあるのは双方にある被害者意識だという。いずれも過去に侵攻され、多くの犠牲が出ている。その恨みが解消されないまま、現代に至っている。容易ではないが、まずはこれを直視するしかない。

 ウクライナ戦争の動向は今後の世界情勢に影響するという識者もいる。武力行使による現状変更が許容されれば、世界各地で同様のことが起こりうるというのだ。第三次世界大戦ご始まると煽情的な表現をする人もいる。

 戦争は政治的にも経済的にも割に合わない愚挙であり、それ以前に殺人が正当化される事態が出来することはなんとしても避けなくてはならない。過去の歴史が示すようにこれは後世に残る深い傷となる。

 平和交渉に係る叡智を集めるべきだ。日本は近代戦争を経験した国として、この方面に活躍する人材をもっと輩出すべきだと考える。

短くても面白い話を

どうしたら古典文学に関する関心が高められるのかを考えている。それはやはり読んで面白いという体験が不可欠のように思う。そしてそれをどのように提供するのかが鍵のようだ。

古典が好きになれないという生徒の大半は学ぶ意味がわからないということにある。こんなことをやって何になるのだという人もいる。その分をコンピューターのプログラミングに当てたほうがいいとまことしやかにいう人もいる。そういう人の多くは大切なことを飛躍して考えている。言葉に対する興味や、文化への関心がないままプログラミングができるのだろうか。できたものが他者に受け入れられるレベルになるのだろうか。

私がその方面に疎いから説得力がないのかもしれないが、プログラミングを少しだけ学んでみてそこで説明されている言葉の未熟さに驚くことがある。説明の仕方を少し変えるだけで簡単になるのに、易しいことを難しく言っている。プログラミングはできるのにどうして説明が下手なのだろうか。

言葉はつながっている

言葉に対する関心は日常語だけから生まれるのではない。現在私たちが使っている言葉が基盤としている言語的な財産というか遺産というべき古典の世界から受け継いだものも大切だ。例えば「思う」という動詞の抱える守備範囲は”think” や”想”とは異なるが、それをたとえば和歌の中にある「思ふ」の用例と比較すると、その違いが見えてくることがあるのだ。

ただ、私もいまの古典の教育があまりにも解読(あえてこう言いたい)にこだわりすぎているのは問題だと考えている。文法も語彙の習得も大切だがそのレベルのことは今後はコンピューターがやってくれるのではないだろうか。大事なのはそこで何が述べられているのかを数多く知ることにあるのではないかと考えているのだ。

そのためには何をすればいいのか。まずは、さまざまな内容の短く読みやすい古典作品を提供することにあると考える。たとえば先程とりあげた日本語の「思う」の持つ歴史をさまざまなエピソードをあげて読み流すようなテキストがあるといい。短くて読みやすく、しかも面白い話を集めること。それを体系的に並べること。それが私の当面の課題となりそうだ。

理想的な第2の職

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 そろそろ第2の人生を考えなくてはならない。私の場合すでに大きな転職を経験しているので実際には第3の職かもしれないが。

 私はもし経済的な支えが担保されているならば、地方に住み、才能があるが経済的な困難を抱えている子どもに希望を与える職に就きたいと思っている。志を同じくする人がいればその配下になることも厭わない。日本は教育立国であり、それがなくなればすぐに滅びていく。現在の「先進国」気取りはすべて先輩たちの努力の賜であり、その恩恵で我々はかりそめの優越感に浸っている。

 お客様気取りでサービスばかりを要求するようになってしまったいまの日本人には教育が最後の砦だ。もちろんエリート教育も大切だ。しかし、恵まれた環境になくても学問さえ積めば現状を打開できる。利他的に生きることでみなが幸せになれる。そのリーダーを養成するということは何よりも大切ではないか。

 現在の自分は日々の生活に追われ、夢や希望を大切にせよと他者には語りながらも、自身は挫折感に日々苛まれている。まずはこれを変えたい。私には資金もないし、若くもない。これから何かを始めるにはあまりにも条件が悪い。だが、それでもできることはあるはずだ。

 そういうことを実践している方がいれば、お話をお聞きしたいと思っている。そろそろ次のことを真剣に考えなくてはならない。まだできる挑戦はある。

戦争抑止効果

北京オリンピックが閉幕した。さまざまな問題も指摘されたが無事に終わったことは評価すべきだ。スポーツの祭典であるから、話はスポーツのことに集中すべきだが、いまはその状況ではない。

ウクライナ情勢に関してはオリンピック終了後が危険な状態になると予測されていた。報道によればウクライナ国内の親ロシア派の武装勢力が示威活動を始めているという。ロシアが戦端を切らなくても、開戦の大義名分はいくらでも用意できてしまうのが現状らしい。

オリンピックの開催期間中は戦争をしないという約束が効果を発揮したとしたならばこの行事は一定の効果を発揮できたと言える。ロシアやウクライナの選手が冬季競技に関心がある国であることも奏功したかもしれない。

戦火にさらしてはならない

これからが重要な局面だ。精神的な抑止が一つなくなったことがどのようにこの先の展開に関係するのか予想できない。これも報道によれば、ウクライナもロシアも自分のほうが被害者であるという意識をもっているらしい。一方的な侵略戦争よりやっかいな相互憎悪の関係がある。さらにはEUやアメリカの利権も絡む。語弊を恐れずに言えばさらに多様なステークホルダーがこの戦争を利用しようとしているようだ。

戦争で得られるものはない。

熟考する力

深く考える余裕がないのか

おそらく多くの人が考えているのではないか。今の教育は情報処理能力にあまりに傾きすぎているのではないかと。私もその一人だ。

例えば先日の大学共通テストはさまざまな改革の末に生まれたといいながら、センター試験以来の問題数の多さを保ち、それ以上に増えた科目もある。試されているのは時間内にいかに多くの問題を処理するかということであり、反射神経や要領のよさが測定されている。

一方で、果たしてこれが正解でいいのだろうかと思う設問もある。他の選択肢が不正解であるから問題としては成立しているのだが、その正解が絶対正しいのかと考えると疑問があるものもあった。これも過去の問題と同じだ。受験生は消去式という情報処理の方法を活用すればよいのだ。なにか腑に落ちない。

ほかの局面でもよく考えずにとりあえずの正解を見出すことに終始することが多い。忙しい現代を生き抜くには必要なスキルであることは確かだ。しかし、この方面はむしろコンピューターが得意とする分野である。人間はもっと深く考えることや、いままでにない一見間違っていると思われるものを再検討する思考力の方を鍛えるべきではないだろうか。

熟考する力をどのように育成するのかは決まったノウハウはない。個人の資質に負うところが多いとされ、一斉教育の場では省略されていると考えられる。だが、もしかしたら今後もっとも大切にされる能力になるかもしれない熟考力を中等教育で教えないのは根本的な間違いではないか。せめて時間をかけても、結果が出なくてもよく考えることには意味があるということだけでも伝える機会はあったほうがいい。

教育ロボット

先生はアンドロイド

 ロボットが教育現場に必要だとしたらどんな場面だろうか。現状で考えられることを挙げてみた。

 すでに取り入れられていることに採点作業がある。マークシートのような人間の方が機械に合わせたような仕組みはかなり早くから行われている。最近は手書き文字を判別して採点することはある程度はできる。悪筆だと誤判定するのでここでまた字は丁寧にという指導が入ることになる。結果を分析したり個々人にコメントしたりするのはコンピューターの得意分野だ。これをロボットと言えばすでに教育現場にロボットは不可欠だ。

 おそらく大半の人がロボットと言っているのは、人や動物などの形状を持ち、ある程度自律的に動く、もしくはそのように見える機械のことだろう。こうなるとまだ導入例は限られている。癒しを目的としたペット型ロボットは低学年の情操教育にある程度効果があるかもしれない。本当の動物のようにはいかないが。動物が飼える環境のある学校は少ない。

 もっと教育内容に関係する使い方はあるか。またプログラムのレベルに戻るが、個人の習熟度に合わせて教材を提供し続けるシステムはすでに実用化されており、有料サービスとして展開している。これは人工知能が入力された解答の傾向を分析し、それぞれにあった次の教材を提供するシステムである。

 これを運用している会社は必ず指導員を配置する。機械の操作方法の支援というよりは生徒の学習態度の監視役である。叱咤激励するのは今のところ人間の砦らしい。

 教育ロボットはこの砦を必ず切り崩しに来るに違いない。感情制御のパターンを認識すれば人間の牙城は崩れることになる。人嫌いだがロボットになら話ができるという子どもが増えるのを考えるとぞっとするが、コミュニケーションが苦手な現代のニーズは高いかもしれない。

 先を述べすぎた。いまでも教室にもうひとり教員仲間がいてほしいと思う場面は多々ある。ティームティーチングを行う人材も準備時間もないならば、ロボットにもうひとりの自分を演じてもらえれば助かる。自分が二人いるというおぞましい状況は、やりよう次第では効果的な教育になる気がする。なんとか教員の地位を守りたいという願望のなせる幻影かもしれない。

共通体験の担保

 世代による共通の体験というべきものを探すことが難しくなっている。こんなことを見た聞いたやったという共通の経験は少ない。その意味ではここ数年、マスク生活になったことは稀有なことかも知れない。

同じ本を読む経験も必要だ

 もちろんこれはある意味喜ばしいことでもある。生活が多様化し、様々な価値観が並列する時代にあるといえるからだ。選択肢が多数あるからこそ、共通の経験を持つ者の数が減るわけだ。

 読書経験についても同様のことが言える。同じ本を読む経験が減るのは、読書以外の楽しみがあるからだということだ。

 ただ、ある程度は共通の教養がなければ様々な困難が発生する。同じ思考の根本にある読書経験がバラバラだと共感したり協調したりすることが難しくなってしまう。あの話のように、という比喩は使えなくなる。それは結構困ることだ。

 学校の国語の授業で全員に同じ話を読ませるのはその意味では共通体験の担保をしているのだとも言える。それがどんなに退屈な経験であっても、それに触れたと言う経験は一定の意味を持つ。

 よく、無理やり同じ話を皆に読ませても無意味だとか、関心のわかない読書をさせるべきではないという人がいる。一理あるが別の見方をすれば、それなりの役割を果たしていることに気づくはずである。