投稿者: Mitsuhiro

筆圧

万年筆のすすめ

 私は決して字が上手くはないが書くことは好きであり、手書きする機会は一般の人よりは多いほうだと考えている。最近、痛感しているのは筆圧が肝心であり、それを意識するには万年筆で書く機会を作ることだということだ。

 筆圧を調節することは意外に難しい。鉛筆やボールペンなどは筆圧の加減をあまり意識しなくても書ける。ただ、多くの場合筆圧が強すぎると筆先の制御が難しく意図した字画が書けない。結果として下手な字と認定されることになる。

 筆圧に敏感な筆記具を使うようにすればこの事実に気づくことができる。一番いいのは毛筆だろうが、すぐには用意できない。筆ペンもよいがいつも筆ペンを使う人は少ないだろう。万年筆はその点、日常使いができるのでよい。日本のメーカーが作っているものの中には筆のようにしなるペン先を持っている製品もある。

 万年筆で字を書こうとするといつもより力を抜かないと上手くかけないことに気づく。すると、いつの間にか力が抜ける。この感覚を他の筆記具でも援用すると思い通りの字画が書けるような気になる。これが大事だ。

 安い万年筆もたくさんある。インクが途切れず出るものであれば、上記の目的は達成できる。私がようやくたどり着いた境地だ。

古典の教え方

古典は暗号解読ではない

 ここ数年、古典を中等教育の段階でどのように教えるのか悩んでいる。単語や文法の知識を習得するのは大切であるがそれを目的とするのでは本来の古典教育の目標に届かない。

 古典を通して古人の価値観や行動様式を知り、それを現代社会と比較することによって新しい知見を得ることは古典学習の本道と考える。決して暗号解読ではあるまい。ならば、そのようなことを学ぶ機会が学校に用意されているのか。私は不十分と考える。

 文化史的な視点をもっと取り入れてもいい。そのためには入試問題をただの解釈だけを問うものではなくしていただきたい。具体的な方策は今後述べていきたい。

再起

再起はいつでもできる

 日本ではいまが入試のシーズンだ。すでに受験が終わり、結果も出たものもあるかもしれない。その中にはうまくいかなかったものもあるかもしれない。私もそういう経験をいつくも重ねているので、それなりに残念な気持ちは理解できる気がする。もちろん本人でないと分からないことのほうが多いはずだが。

 試験の結果は人生の方向を変える。それだけに結果にこだわるのだ。でも、よく考えてみれば方向はその時に変わっただけのことであり、それでも前に行きたいのなら行けばいいのだ。隘路は少々進みにくいが目標がもっと遠くにあるならば辿り着けるかもしれない。

 別の向きを見たことで開ける風景もある。あるいはそちらの方がよかったということもしばしばある。多くの場合、それは後になって気づく。

 試験の結果を人生の分岐のように言う人は多い。以上のような訳でそれは半分正解で半分は当たっていない。落ち込むより次を考えた方がよい。試験ですべてが決まるような時代はかなり前に終わっているのだから。

チョコレート

 バレンタインが告白の日となった歴史はさほど古くはない。もともとキリスト教圏で行われていたバレンタインデーの習慣は性別にかかわらず、贈るものも特に限定されず愛を伝えるためにプレゼントをする習慣があったという。日本に導入するにあたって製菓業者が女子が男子に物を贈る習慣のない日本の新しい行事として宣伝したのが始まりだったという。いまは告白の目的でこの行事を過ごす人は少ないと思われるが、愛情の確認というよりはつながりの維持のための手段として定着している。

チョコレートには物語がある

 チョコレートの原料であるカカオ豆の生産国はアフリカと中南米、インドネシアなどである。生産者の報酬は少なく、甘味どころかかなり苦いものであると言われている。フェアトレードの運動はさまざまな方面でみられるがこのカカオについてもそれを考えなくてはならない。私たちが楽しんで食べているお菓子の歴史を考えなければならないのだ。

 カカオは特殊な環境に育つため、日本では生産できないとされてきた。それが小笠原諸島の母島で栽培に成功したらしい。現在は少数生産のためプレミアム扱いだが、日本でも生産が可能になれば新たな可能性が生まれるかもしれない。

 チョコレートをめぐる物語はまだいろいろありそうだ。

国際チームも

国旗のない国際大会もいいのでは

オリンピックは国と地域の代表という枠組みが大前提である。それには意味があるが、そうでないものも対極にあっていいのではないか。スポーツのあり方を考えると別の可能性がある。

チームスポーツは一体感とか連帯感が必要であるから、同じ共同体の成員で組むのが自然だろう。しかし、それが国籍である必要はない。国際大会が盛んな競技ではむしろ国を超えた仲間意識が生まれる可能性に満ちているはずだ。ならば、そのような試合をもっと盛んにするべきではないか。

国威発揚のために国家が税金などで援助している事実がある。マイナースポーツは特にその依存度が高いようだ。国を後ろ盾にしないと試合に出られないという事実があるのも確かだろう。それを克服するためにはどうすればいいのだろう。

チームごとにスポンサーなりサポーターを獲得する必要はどうしても出てくる。企業名の入ったチームになるかもしれない。一定のルールは必要だ。

運用方法には多くの課題があるが、国際チームで競技される試合が実現すればスポーツの新しい局面を見ることができる。人類平和のためにも貢献するかもしれない。

主旨を掴む練習

 今後の国語教育に必要な力であり、目標とすべきなのは要約力であることはほぼ間違いない。要するに何が言いたいのかを簡潔にまとめ、それを言語化する能力が求められている。

 言葉の知識や漢字力の大切さは揺るぐことはない。傍線部の意味を説明する問題も大切だ。ただ、かつてとは異なり、語彙は検索すればすぐに分かるし、テクニックで答えが出るような問題はやがて人工知能に任せることができるだろう。大切なのは主旨を掴む力である。

 大量の情報を受け取ることができるようになっても、そこに価値の濃淡を見いだせなければ理解はできない。そのためには短文をなるべくたくさん読み、言いたいことは何かをまとめる力を身につける必要がある。

 そのための方法を考えてみたい。要約文を書かせるのがいいと思うが、これには手間と採点時間の長さという課題がある。自己採点できる方法を考案すればいいのだろう。すでにその目的で作られている問題集があるのになぜ普及しないのかも考察したい。

建国

建国記念の日といっても現在の日本人にはその意味を考える人は少ない。革命で国家建設を勝ち取ったとか、新しい憲法が生まれた日とかではなく、多分に伝説的な初代天皇の即位日をむりやり太陽暦に当てはめた末の産物だからだ。

初代天皇の神武天皇は『日本書紀』によると辛酉年春正月、庚辰朔とあり、この旧暦元旦を紀元前660年2月11日と算定したということである。もちろん科学的根拠はなく、この年に古代国家が成立していた保証はない。おそらく日本という意識すらなかったかもしれない。

神武天皇は橿原の地で即位したと言われる

自然発生的な国家においてはいつがその始まりだとは言えないというのが事実だろう。前に述べたような明確な事実があり、それを区切りとするのならば記念日はある。日本にはそれがないのはむしろ長い歴史をもっていることの誇りでもあるのだ。だから、建国記念の日の意味は他国とは異なる。

グローバル化の中で、日本という国が自立できないことが明確になったいま、あえて国とは何かを考え直すことがこの祝日の意味の一つだろう。最近、没落国家と自国を言ってはばからない人が増えたが、その中で何をすべきなのだろうか。国のために命を落とした先人たちの思いと、国を捨てて自己の利益を優先する人との間にあるのは何なのか。何が正しく、間違っているのか。それを考える必要があると思う。

雪になる前

ほどよく降って

 これから雨が雪に変わるらしい。いまのことろは小雨だ。南岸低気圧による降雪は予報が難しいという。予報官には申し訳ないが外れてくれることを期待する。私のように出勤しなくてはならない方には帰りの道に気をつけようと申し上げたい。

自分のために

 オリンピックの長所は国や地域の一体感を実感できることにある。選手に自らの共同体の代表という意識があり、仲間のことを思う意識がある。これは同時に短所にもなる。

 成績が伸びなかったとき、失敗してしまったときなどに必要以上責任を感じるのは止めた方がいい。わざと手抜きをしたならばその責めを負うべきだが普通はそのようなことはない。勝敗は時の運であり、勝つ人がいつも勝つとは限らない。

 まずは自分のために競技をするべきであり、外部がどう言おうと気にしないことだ。口さがない発言をする人ほど実はさほど深く考えていない。刺激的なことを言った事自体に自己満足しているのにすぎない。それに付き合う必要はない。

 スポーツの話だけではない。失敗に寛容な社会を作らないと衰退してしまうということはそろそろ多くの人たちの共通理解になってもいい。最近、失敗を嘲笑する人が増えているように思う。

自分のために走るべきだ

大雪

大雪は大変だ

 日本海側で大雪になっているという。私は元住民であるが離れてかなりの歳月が過ぎて感覚を失いつつある。いま思うと大変だが心躍る一時でもあった。

 私が住んでいた期間にも何度か大雪となったことがある。もっとも困ったのは玄関が雪の重みで開かなくなったことだった。幸い悪戦苦闘の上比較的短い時間で脱出できた。その昔見た二階から出入りする事態になるまでの雪はなかった。そこまでの豪雪は経験していない。

 車庫から車が出せなかったり、除雪している間にまた積もったり、帰りが心配になったりという思い出はいま考えても当時の困惑が思い出される。

 雪国の皆さんにはくれぐれもお身体大事にしていただきたい。雪は恵みをもたらすものと昔から信じられていた。幸多からんことを。