今日は天気予報に雪だるまのアイコンが表示された。昨日よりかなり冷え込みわずかに路面が濡れている。東京でも今日は雨になった。
雪が本当に降るのかは分からない。降っても白いものが舞うくらいのものだろう。春の雪にまで至る可能性は低い。
三寒四温というがこのところの寒暖差は激しい。いつの間にかに梅が咲き、桜も蕾を日々大きくしている。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro

脳科学者の発言は教育現場の従事者としていつも注目している。学問レベルと現実のそれとは噛み合わないところもあるが、参考にすべきことは多い。
学習効果にドーパミンなどの快樂物質が関与していることは色々な知見がある。経験上も好きなことや興味のあることはかなりよく知っており、なかなか忘れることがない。好きなアーティストの何年も前の歌の歌詞を覚えているのはこの効果があるという。逆に意味を感じない情報の記憶はエビングハウス博士の統計通りにあっさり消えていく。
ならば、現場の効率を上げるためにはこの要素が不可欠だ。学習は楽しくなくてはならない。ここまでは何度も考えてきた。
ここで私は教える側の話に限定して話を進める必要を感じる。楽しく学ぶというのは学習者側の問題であり、様々な可能性を想定できる。学問は苦行ではないと理解することが突破口なのだろう。これが教える立場の問題となると話が変わる。とりわけ学校のような一斉教育をする場面においてはなおさらだ。
教室にいる生徒の興味や関心は多様であり、何に対して反応するのかは分からない。自分が生徒だった頃、世界史の先生の話は面白かった。講談を聞いているような感覚となり、興味が湧いた。ただ、同級生に聞くと無駄話が多く、教科書に書いてあることの説明がほとんどないので無意味に感じたというのだ。彼はその後理系の大学に進学している。
関心のある人だけに作用する話をすればいいというのが、長年教員をやってきた私の基層にある考え方だった。特に高等教育機関で教えていた頃はそう考えてきた。しかし、中等教育に身を移し、さらに昨今の現状を鑑みるにそれだけでは立ち行かないと痛感している。目指すべきは国民の教養の底上げだ。
何かを教える際に何が引っかかりになるのかを想定して置くことが今できる最低限のことだろう。先に述べた歌に関心があるのか、デザインに関心があるのか、人間関係か、金銭的価値か、物質的な何かか。人によってそれが違う。そのフックのようなものをたくさん用意しておくことがドーパミン発生の要因となるのなら、それを意識して教えることで一定の効果を期待できそうだ。
できればその試みの挑戦者の一人として私も加わりたい。試みに進めている「国語の再学習」のサイトをこのブログにリンクすることで第一歩を踏み出したいと考えている。

気圧配や置が冬型に戻ったせいで今朝は気温が下がり強い風が吹いている。問題なのは昨日との気温の差だ。絶対的な温度以上に今日は寒さを感じる。
この季節は季節が進退を繰り返す。低気圧の位置により、南からの風が吹き込む時間がすぎると、今度は強烈な北風が入り込む。そこに激しい気温差が生じるのだ。東京では脊梁山脈の存在のために雪は降らないが、日本海側には時に激しい風雪が起きる。今日もそのような現象のようだ。
体感というのはつくづく変化の実感であると思う。大きな変化があった時に私たちの感覚は鋭敏になる。変化がないと感じなくなっていく。その事実を最近は実感している。
さまざまな産業分野でいわゆるコモディティ化が進んでいる。安いものを作って売るというやり方では日本の産業は成り立たなくなっている。大量生産、薄利多売の方法は現代の我が国には向いていない。
安いものを買い、高価値を得るというのが資本主義社会に生きる者の習いであり、これは変えられない。安いのものをいくら買っても利益は少なく、この分野の商品の多くは外国産だからお金は回らず逃げていくばかりだ。これが少しずつ確実に続いている。結果として私たちの生活は一向によくならない。逆に悪くなるので心理的に不安定になったり、格差を拡張したりする。
割り切らなくてはならないことがある。安さで勝負することはほどほどにして、品質の高いものを作ること、そしてその商品を海外に展開することに力を注ぐべきではないか。それはいわゆるモノだけではなく、サービスの分野にも言える。他にはないもの、容易に模倣できないものを提供していくことが現状打破の端緒になるはずだ。
一流品のみに特化することは危険なようだが、それこそが停滞する現状への有益な処方箋のように感じている。


教育を社会に貢献する人物の育成と考えるならば割り切らなくてはならないことが出てくる。それだけではない何かを考えていかなくては危うい。
社会の役に立つという言葉の裏には、現在の社会システムの維持のためにはという意味が張り付いている。現行の秩序を維持したいのは現在利権を得ている人々であり、そこには意識の有無に関わらず私利私欲が絡む。
社会的弱者にとっては現状は打破すべきものであり、継続してはならない状態だ。そう思ってもどうしようもできない。だから弱者として次の世代にもその立場を引き継がざるを得ない。格差が生まれていく。
教育は社会のためになることをするのとともに個人の幸福追求の手段の獲得に寄与しなくてはならないだろう。その社会と個人との目的のバランスを考えなくてはなるまい。
この国の最後して最大の力でもある人材の豊富さが危うくなっていると言われる。昔の人より今の人のほうが劣っているとは考えられない。人材育成の方法はもっと考えていかなくてはならない。

今年の旧暦3月3日は、4月3日だそうだ。それなら桃の花も頃合いだろう。ひな祭り以前にこの日は禊の呪術が行われた日であり、宮中では曲水の宴が開かれていた。
平城京左京三条二坊宮跡庭園にはかなり前に訪れた。その頃は発掘したままの形であったが今は本当に水が流れているらしい。文字通りの曲った複雑な流路を見て深く感動したことを覚えている。家持もここで詠歌することがあったのではないかと。宴席歌と庭園の関係について関心をもったのはこれを見たからだった、
曲水の宴は観光行事でしか行われなくなった。ただ、その原点である禊の考え方はどこかで続いている気がする。流し雛も環境問題に反するのでそのままの形ではできない。ならば現代文明の粋を集めて架空の川を作り、そこに穢れを流したい。流した穢れが別の誰かを穢すことがないよう。注意深く設計して。
雛人形の抱える歴史をこの機会に思い返したい。

自分ができないことをする人に対する賛辞を忘れてはならないと思うことが増えた。その背後にある時間の濃密さを僅かながら考えることができるようになったのかも知れない。
どうしても自分の能力ではできそうもないことをやってのける人にお会いすると感動することが多い。職人と呼ばれる人の中にはこうした技の持ち主がいる。世の中が効率化や平準化に向かう中で。自分なりの信念を貫いて仕事をする人は特に惹かれる。
技の裏にはそれを完成するまでの長い努力があり、それを維持するための継続的な意志がある。実はその見えない時間の塊に私は感銘するのだろう。
そういう人たちが必ずしも評価されていないのが現代の問題点ではないか。もっと正しいものの見方をしなくてはならないとつくづく考える。

今日から3月が始まる。私の職にとっては年度末であり、色々な変化が一気にある。
なかなか終わらないコロナ対策の日々、始まってしまった大国の関与する戦争、花粉症への対応とまずは基盤にある問題を切り抜けなくてはならない。
それに加えて業務のまとめと引き継ぎ、非定期の案件の対処などやるべきことが多い。何から手を着けるべきなのか。考える暇もないほどだ。
もし10年前の自分なら残業や休日業務などで切り抜けたはずだ。いまはその体力が足りない。その日できても後が続かない。いまはできることからやる。できなければ諦めるという体たらくだ。
でも、結果的にはその方がいいのかも知れない。ゴールを欲張らず、大切なことだけを完全にしたほうがいい。そう考えることにした。

このところ気温が上がり、春の気配が体感できるようになっている。この時期はスギ花粉によるアレルギーが心配だ。日本列島に住み続けてきた人種はこの花粉症に対する抵抗力が弱いらしく私も例外ではない。毎年苦労する。
花粉より遥かに小さい新型コロナウイルスからの防御のため毎日マスクを着用している私たちにとって花粉症への対策は大体はできているはずだ。だが、先日、目のかゆみを感じ、くしゃみをいくつかした。確実にアレルギーが迫っている。
昨日から対策薬を飲み始めた。無駄な抵抗かもしれない。