投稿者: Mitsuhiro

表現力

やってみたい授業

 時間があればやりたい授業というものがある。大抵の場合、決められた学力(数値で測定可能な)の向上には向かないという理由でできない。

 考えたことを発表するという授業はぜひやりたいことだ。一人でやるのとグループ発表の両方がいい。また、発表を評価することもいいと思う。

 とりあえずブックトークを考えている。好きな本を自由に選ばせたり、テーマを決めて読ませたりするのもいい。まずは互選させて代表を決める。代表はチームリーダーとなってグループ発表する。

 他にもいろいろなアイデアがある。それを試す時間があるといい。表現力プラスアルファを狙いたいのだ。

教員の礼装

 教員は何度か礼装をする日がある。式と呼ばれる日だ。なんのために? 自分のためでもあるが大切な一日を演出するために形を作ることも大切な仕事なのだ。

 私たちの仕事の大半はこのように特別な時間を演出することにあるとも言える。

夏日間際

梅も見頃に

 今朝はかなり気温が高く、今年になって初めてコートを着ずに出勤した。電車の同乗者も同様だ。予報によると関東南部は夏日近くまで気温が上がるかもしれないとのこと。極端に振れる一日となりそうだ。

絵画の下層

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「窓辺で手紙を読む女」(ヨハネス・フェルメール, ca. 1659)が東京都美術館で展示されている。今まで知られている絵とは異なり、背景に天使の画中画が描かれている。調査の結果、この天使の絵は完成後、作者以外の何者かによって塗りつぶされ今の形になったという。そこで上塗りされた絵の具を取り除き、改変前の姿を復元したというのだ。なお上記のリンクは改変前である。

油絵のように塗り重ねていく絵の場合は、このように塗りつぶされた奥にある下層の絵画を復元することができるようだ。その繊細かつ大胆な作業風景も博物館では動画で展示していた。非常に興味深いものであった。絵画修復の技術は日本絵画においても行われている。以前、この技術を利用して高精度の文化財複製をしたスーパークローンの展示を見たことがある。色褪せる前のもとの姿は常識を覆すものもあったが、新鮮な驚きをもたらしてくれた。そして、この技術を知ることで、原作は今見るものとは違ったのかもしれないという当たり前だが気づきにくいことを再確認させてもらった気がする。

芸術作品でさえ、完成に至るまでのさまざまな過程を経てきているのだ。最初から一直線に今の形につながっているのではない。改変にはさまざまな理由があるように、私たちの生き方にも時代の影響でつねに変化が加えられている。今見えていることだけで物事を判断するのはかなり一面的なものだということになる。その下層に隠れているものはなにかを考えることは常に必要だ。

花粉飛散

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最高気温が20度を超えるらしい。花粉飛散が本格的になりそうだ。私は対策薬を飲んでいるが、それでも今日は覚悟しなくてはならないかもしれない。

花粉症の知識がまだ世間に周知されていなかった頃、アレルギー性鼻炎は不治の病としてもう少し深刻に考えられていたような気がする。多くの人が耳鼻科に通い、点鼻薬を吸入した。私もその経験を持つが苦い思い出だ。

不治の病といえるがどうかわからないが、この歳になっても根本的な解決はできていない。ただ、予防の知識や抗アレルギー薬が発達したことで以前のような問題はなくなった。それでも薬を飲むと軽い頭痛に悩まされたり、喉が渇きすぎたりするのは厄介だ。

スギ花粉の量が多いのは林業による植林の偏りが影響しているとされている。昭和期に加工がしやすい杉を大量に植林したことが日本の植生を変えてしまった。それで高度成長期以降に花粉症が問題になったという。林野庁は花粉飛散の少ない品種への切り替えを計画的に行っているというが、更新にはかなりの年月が必要なのだそうだ。

風が吹けば桶屋が儲かるそうだが、こればかりは困る。儲けはほかのことで得るのが良いと思う。

当たり前のありがたさ

 今の生活が必ずしもよいものとは思えない。むしろ理想形からはほど遠い。どうしてこんなことをしているのかと嘆くこともある。ただ、それでも毎日を過ごせることのありがたさを再考してみたい。

 

明日の夕日も見られるか

 震災で命を落とした人の大半は、地震の発生する直前まで普通の毎日を過ごしていたはずだ。無情にも突然の災禍が命を奪った。誰にも予測不能なことだった。新型コロナウイルスでなくなった人も、パンデミックが命を奪うとは誰も思わなかったはずだ。戦争もまた然りだ。

 明日のこの時間も生きているという保証は実は誰にもない。無常の世には何の約束もなく、未来があるというのは希望に過ぎないのだ。

 それでも私たちは比較的安心していられる身にある。当たり前のように行ってきますといい、そこには必ずただいまが続くと信じている。信じられる社会がある。当たり前といえる環境にあることに感謝すべきだとつくづく思う。

11年

 東日本大震災から11年経った。ついこの前のことのようでもあり、はるか昔のことのようにも感じる。経験は十分に活かされているのだろうか。

 震災当日は勤務中でちょっとした打ち合わせの最中だった。関東でも強く長い揺れを感じ、防災扉が自動的に閉じた。電源とネットは切れなかったため、職場に一つだけのテレビとウェブサイト、Twitterで情報を集めた。人の安全を確保することと食料の確保で追われた。

 その後、被災地の甚大な被害や原発事故による広範囲への影響の懸念があることを知る。計画停電などのライフラインの遮断、燻るデマや罵詈雑言なども知った。

 そうした記憶も時が経つにつれて薄れてゆく。そのころ生まれた世代にとってはすでに歴史的事実だ。何を学んだのだろう。何を忘れてしまったのだろう。

個別に判断を

平和のために

 世界中に反ロシアの動きがある。ウクライナ侵攻に対する抗議の一環として経済封鎖がなされている。スポーツ界でも対露試合の放棄やロシア人選手の参加拒否などが相次いでいるこれらは意義を考えて行うべきだ。

 世界経済圏の中にある国にとって、金融資産の凍結や取引拒絶はかなりの打撃を与える。ロシアは国土に様々な資源を持つので、通商停止が直ちに軍事力低下には結びつかないだろう。親露国との連携もあるはずだ。ただ世界的な信用の失墜は大きな打撃となることは変わりない。

 スポーツ等の文化交流については私は慎重であるべきだと考える。あからさまにプーチン大統領を支持する選手もいる一方で、戦争反対を訴える選手もいる。政治と文化は別に考えるという理想を、今回は無効化しつつあるように感じられる。

 文化レベルの交流を保つことが和平への糸口となり、交戦国の国民に何らかのメッセージを送るチャンネルにするべきではないか。嫌なものはすべて締め出すというのでは次の段階がない。

 大変難しいが個別に判断していくことが求められている。世の中のことは大抵同じことが言えるはずだが、分かりやすくまとめすぎる傾向がある。

運動不足

 人にものを教えることを仕事にするといろいろなことに気づく。その一つが自分自身の未熟さへの痛感がある。いかに思う通りのことができていないか。それを苦々しく思う毎日だ。

 朝から日の沈んだ後まで働いても、得られないことが多い。仕事が作業として感じられる日は徒労感に苛まれる。こういうときはしばしば失敗する。だからさらに負のスパイラルに陥りやすい。

 何が足りないのかを考えてみるに、やはり業務の効率化を求めるあまり、余裕を失っていることに原因があるとみた。多くの方が指摘されるように軽い運動などを挟むといいらしい。

 こういうことを始めるにはきっかけが必要だ。今日は机上のパソコンに運動のためのブレイクの時間を知らせてもらうことにする。

リテラシー

疑うことも大切だけど

 よく聞く言葉にリテラシーがある。読み書きの基本的なスキルのことらしいが、そういう意味で使われることは少ない。上に何か言葉を冠してそれを理解し使いこなせる力という意味で用いられる。

 情報リテラシーはその中でも大変よく耳にする。情報が商品となっている現代において、情報をいかに受け取り、理解し、活用するかは生活に直結する。現代人は情報交換の手段はたくさん持っている。ただ、それを活用できているかと言われれば甚だ怪しい。

 ソーシャルメディアに実はウクライナでは戦争は起きていないという発言が出た。現地の人からの証言もあるという。たくさんのリアクションががあり、中にはだからマスコミは信じられないと憤るものもあった

 真相は現地に行かなければ分からない。だが世界の報道機関がこぞって戦場を報告している中で、すべてが虚偽であるというのはどうしても無理だ。それに同調してしまう人が少なからずいることに恐怖を感じる。

 東日本大震災のときの数々のデマも記憶に新しい。地震を意図的に起こした者がいるなどと言っていた人もいた。あの規模の地殻変動を起こすためのエネルギーがどの程度いるのか考えた方がいい。

危機的状況にあるとき人は情報の扱いを誤る。それを未然に予防するにはリテラシーを磨くしかない。ただこれが結構難しい。私も偉そうなことを書いているがしばしば騙されている。

 基本に帰って自分の判断力をつけることがまた求められているといえる。