投稿者: Mitsuhiro

無人化

いらっしゃいませ

 外食産業で無人化が進んでいる。と言っても、内情は知らないのであくまで客の立場での無人体験をまとめてみた。

 某回転寿司店では入口でロボットが出迎える。彼は日本語がかなり流暢に話せるが、きまり文句以外はできないようだ。この点は最近の人間と変わりない。残念ながら人間の話を聞く度量はないらしくタッチパネルで希望する席種や人数を聞いてくる。作業が終わると丁重にお礼して席の位置を印刷した紙をくれる。

 あるファミリーレストランは席に座るとタブレットがおいてある。客はここでもスクリーンの沼に誘い込まれ、自分で注文をする。かわいいウエイトレスやかっこいいウエイターは来ないが、彼らに間違った注文をされる心配はないし、ご注文はこれで「よかったでしょうか」を聞かずに済む。

 別のファミレスは注文した料理を自走するロボットが持ってくる。残念ながら人型ではなく、自動ワゴンとでもいうべきものだ。なぜか陽気な音楽を鳴らしながら動くのは、そこどけとは言えないからだろう。彼、もしくは彼女には言語能力はない。

 先日入ったレストランは座席案内も注文も配膳も人の手で行っていた。これが一番落ち着く。多少の間違いはあってもいい。やはり人のぬくもりは大切だ。食事が終わってお会計は、というとこれがセルフだという。勘定書のバーコードをスキャンすると金額が表示される。現金を入れるか、スマホでバーコードのお返しをするかで会計を済ませる。ありがとうございますとも言わない。会計が済んだらただ消え去るのみだ。

 以上がすべて揃った店にはまだ入ったことはない。でもそのうち普通になるかもしれない。ロボットにいらっしゃいませと言われ、タッチパネルで注文した料理がロボットによって運ばれる。すでにネットで会計は済んでおり、あとは帰るだけだ。食べ散らかした食器や残版の類はロボットが音も立てずに見事に片付け、除菌までする。これは数年後に見られるかもしれないし、来年かもしれない。

 今日は少し塩辛いなと思ったら、後でお詫びのメールと謝罪用のポイントが届くかもしれない。先日調理ロボットがハッキングされ、塩分センサーに異常が発生していました。今後はセキュリティに注意していきますと。

生活の中の美

 考古学資料のなかに魅力的な芸術を感じることがある。恐らく作られたときは獲物を狩るか、神に祈るかといった実用的な目的を持っていたはずのものだ。それが例えば展示ケースに並べられると美術品に見えてくる。

 今わたしたちが何気なく使って、意識することなく捨てているのものの中にもそうした美は隠されているに違いない。あまりに日常的だと気がつかなくなる。だからものを粗末に使うようになっていく。

 生活の中に美を見つけるにはときにいつもと違うやり方をするのがいいのかもしれない。見方を変えることによって日々の積み重ねの中に消えてしまった美しさを発見できるはずだ。そういう余裕だけは持っていたい。

捨てること

 整理の苦手な私の言い訳である。盛んに捨てることを奨励し、本来の意味とは異なる断捨離という概念まで当てはめて知的営みを軽視する動きはいつまで続くのだろうか。大量生産、大量消費を美徳としてきた時代が行き詰まったからといって、それを個人の怠慢に帰結していく発想には社会的欺瞞を感じる。

 捨てることを前提としたものの作り方や買い方を改めていかねばならない。使えるものはとことん使う。様々に応用して活用することこそ現代の状況に合っている。そのためにはメンテナンスの手法や経験を蓄積した専門家や、修理が手軽にできるメカニズムの構築などを考えていくべきなのだろう。

 捨てれば片付くという発想は自己欺瞞と社会的損失を拡大するだけだ。

校歌

校歌覚えている?

 卒業した学校の校歌を歌えるだろうか。校歌のことを考えると様々な物語が思い浮かぶ。

 流石に幼稚園に園の歌があったのかは思い出せない。小学生時代は転校を繰り返していたので4校に通ったことになるが、そのうちの1校はどうしても思い出せない。また入学した最初の学校は新設間もなかったらしく校歌がなく、行政自治体の市の歌を歌った。やたらと難しい歌詞と曲、作詞は森鷗外と自覚したのは何年も経ってからだ。

 中学校からは対外試合の応援などで歌ったからよく覚えている。住宅地の小さな学校で残念なほど狭い校庭だった。ここではいろいろな大切な時を過ごしたが、残念なことに廃校になってしまった。校歌には過密都市になる前ののどかな風景が歌われていた。

 元女子校であった高校の校歌は複雑で合唱曲のようだった。通して歌える生徒は多くなかった。それでも、試合の時の応援には声を揃えて歌った。およそ応援には向かない優雅な曲であったが。

 大学の歌は応援歌の方が有名で校歌(正式にはそう言わないが)は知られていない。でも野球の応援などで歌ったのでいまも歌える。

 校歌のことを考えると過去のいろいろを思い出す。ところで卒業した学校がすべて存続している人はどのくらいいるのだろう。その人はかなり幸せだ。

自動運転

安全な道でありたい

 高齢者による運転ミスの問題は今後ますます増えていくはずだ。私自身の問題としてもやはり、いざというときの脳の瞬発力が残念ながら減退していることを感じることがある。高齢化社会にあってこれは宿命であり、まさに焦眉の急の課題だ。

 自動運転の技術は我が国においては国家的な事業とすべきだろう。完全な自動運転は難しい段階でも、あきらかなアクセルとブレーキの踏み違えがおきたときに対処する制御システムを先行開発し、実装すべきだろう。オールインワンよりも実態にあったものを先にというのはこの場面でも言える。

 例えば駐車場での車の誘導の自動化は設備投資的にも実現しやすいものだろう。コンビニの駐車場に入ったら、あとは自動で駐車スペースに停められる。公道に出ると自動が切れるというのはいまの技術でも可能なように思える。

 逆走を知らせる警報の設置もできるはずだ。GPSの精度はわからないが、道路脇に物理的な誘導装置を設置しておけば解決できそうだ。

 恐らく素人のわたしがこんな戯言を言う前に技術者のみなさんはもっといい考えを持っているはずだろう。それがなぜ実現できていないのかを問題とすべきだ。高齢化社会のなかでどのように安全を保つべきなのかを真剣に考える必要がある。期限はすぐに来る。後回しはできない。

性能の定義

使いやすさを優先したい

 新しいコンピューターを買うとき、いわゆるスペックに拘るのがこれまでの私の考えだった。性能が上がればできることが増える。所有欲も満たす。しかし、そういう高機能は使わないことも多い。

 いま使っている家庭用のラップトップはかつてなら選ばなかったレベルのCPUなのだが、殆ど動画を扱わない私にとってはなんの不自由もない。すごく遅いというレビューは信憑性に欠ける。恐らく何をするかで必要な性能は変わるのだろう。浮いた値段で何か他のことをするほうが実りが多いはずだ。

 如何に使うかということが機器の性能以上に重要であることを確認しておきたい。こだわるべきこととして使いやすさという面を再認識したいということである。

そこに至るまで

 

今に至る道

ものごとの評価をする際についおかしてしまうのがいまあるのものの姿だけで判断するという誤りだ。なんでも簡単に手に入ると考えられる現代は物の価値が下がった。それとともに忘れてしまったことがある。

 目の前にあるモノやコトが今の形になるまでには様々な物語があったのだろう。試行錯誤の末にここにたどり着いたはずだ。中には身を削るような悲劇も含まれていたはずだが、大抵の場合、それは深層にあって見えない。その過程の一つ一つに関わった人への敬意が抜け落ちてしまっている。

 こうしたことに気づくためには歴史を学ぶ必要がある。人や国、地域に歴史があるようにものにも来歴がある。その想像ができてこそ、物事への敬意と、深い意味での批判が可能になるのだと思う。

名月

今夜は中秋の名月なのだそうだ。旧暦8月15日であり、今年は月齢も満月に当たる。関東の天気予報では観月可能とのことだがいかがだろうか。

 月を頼りに生活していた歴史のほうが遥かに長い。暦法が伝来してからも、月の満ち欠けのが頼りになっていたはずだ。閏月という誤差修整を認めていたのは、月齢こそが実感できるカレンダーであったからだ。

 月の顔を見るのは避けるべきだという古典作品もあるので夜空を見ることには複雑な感情があったのだろう。星空を歌う古歌は少なく、月も秋季に類型的に詠まれる。少なくとも観察の対象ではなかったようだ。

 名月には供物をする。収穫感謝祭だという説もあれば、先祖霊に対するものという人もいる。いずれにせよ自然科学的な関心ではないところに名月を感じる心の根があることは確かだ。

ムクゲ

ムクゲ

 夏から秋にかけての花木としてムクゲは存在感を示す。実は一つ一つの花は1日しか持たないというが、群生しているからかその印象はない。

 中国が原産地というが、大韓民国では国花として扱われ、日本でもかなり古くから鑑賞用に輸入されていたようだ。中世までは短い花の命を扱い兼ねていたようだが近世になると華道の花材として利用されるようになる。庭木としても好んで植えられるようになると、季節の花として定着した。

 猛暑が明けて漸く花を見る余裕ができたということなのだろう。気がつけばすすきの穂もたなびき始めている。

シナリオのネタ

いま考えている短い演劇のシナリオのことを書く。自分のためのメモだ。

作成中

 この舞台には何かが足りない。足りないことを積極的に利用者する。具体的には観客の想像力だ。ないものを勝手に想像してもらって完成させる。

 例えば大道具などが足りない。これは能舞台のような日本演劇の伝統があるから、客も受け入れる準備ができている。森の中に教室にも、戦場にも天国にもなる。何か象徴的なものを置くだけでいい。

 あるいは役者が足りない。本来配役すべき役者がいない。これは観客に感情移入してもらうことで見えない役者を作り出す。見えない、存在しないから、逆になんでもできる。

 こういうシナリオを書きたい。少しだけ構想はできている。本筋とそれに絡むサイドストーリーとの関係が未完成だ。少しずつ形にしていこう。