演劇の世界にはいくつかの約束事がある。本来建物の一画に過ぎない舞台を様々な世界に例えるのだから無理がある。それを超越するのが観客に任せられた約束事だ。
歌舞伎では雨や雪を太鼓の音で表すことがある。暗闇でも暗転しない。それでも雨という、闇という前提で芝居が続く。現代劇でも本来は向き合って話しているはずなのだが、両方とも観客席に向かって話す演出は多い。これも客の想像力で飛び越える。
こうした約束事を知ると観劇の楽しみは広がる。これはまさに実社会と似ている。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
ソウルの梨泰院で起きた群集事故に驚いている。不幸にも命を落とされた方々のご冥福をお祈りしたい。また、なぜこのようなことが起きたのかしっかり検証していただきたい。
今回の事故原因として現時点で報道されているのは有名人のもとに行こうとしたことが、群集心理を生み出したという。群衆は理性を失いやすく衝動的になりやすい。一度動き出すと止まらない。
こうした事故は世界中で起きている。日本でも神戸の花火大会で死亡事故が起きている。過去の事例の多くはイベントや宗教的行事の最中であり、人々が興奮状態にあることだ。冷静さを失うことによって危険性が増す。ハロウィンが事故の引き金となったことは冷静さを失いやすい行事であることを意味する。
隣国の事件として看過すべきではない。同様なことはいつでもどこでも起こる。一度起きてしまうと制御は難しい。どうしたら防げるのか。個人の振る舞いにかけるしかない。せめて日ごろから群衆心理のなんたるものなのかを知る努力をするべきだ。

高校生の頃、友人に連れられて名曲喫茶に行ったことをふと思い出した。何とも不思議な空間だった。
渋谷駅のすぐ近くにあった店は、いまは全く別の建物に建て変わっており、面影は皆無だ。細い階段を上がると薄暗い店があり、交響曲やピアノソナタのレコードがかかっている。友人は曲名を即座に口にしたが、合っているのかどうなのかも分からない。聞いたこともない作曲家の名前だった。
メニューはホットコーヒーしかなく、座ると蝶ネクタイをした店員が最低限の言葉だけ言って、その後コーヒーを持ってくる。当時はブラックは飲めなかったので、砂糖を入れるとかき混ぜる音が響きわたるほど店内は静かだ。他の客は文庫本を読んでいるのか、目を閉じていた。男の一人客が多く、高校生は他にはいなかった。友人は楽曲の情報をいくつか呟いて満足そうだった。そのほとんどが理解できない言葉だった。
皆で同じアナログのレコードを聴くということは現代では殆どない。ましてそれがビジネスになるとは思えない。当時はオーディオブームがあって家庭でもこだわりの機器を揃える人もいた。逆に言うと再生に関わる設備の質に顕著な差があったということであり、自宅にステレオがない場合は名曲喫茶で聴くという需要があったのであろう。加えて音楽好きの醸し出す雰囲気に埋没するという目的も加わる。
現在は音響機器も発達しデジタルディバイスも各種ある。その質も底上げし、AMラジオの音質に耐えられる人はもはやいないだろう。昔ならハイレゾとでも言っていた高音質の環境に慣れきっている。しかも様々なチャンネルや、サブスクリプションの中から選び放題の中で、他人とともに自分が選曲していない楽曲を楽しむということに金を払う人がどれほどいるのだろう。いろいろな意味で名曲喫茶の復活は難しいかもしれない。
懐かしい過去の風景の中にあったものは、今では存在しえないものもある。

すでに何度も記しているように私の仕事はやる気を引き出すことに尽きる。実際に学習するのは生徒諸君であり、教師が教えたつもりになったとしても、表面的な短期記憶を賑わすだけで賞味期限は短い。
食べ物の譬えを続けるのなら、うまい料理を提供するのではなく、その料理の作り方を教えなくてはならない。自分で再現できなれば学習の効果は十分とは言えないのだ。料理をすることの楽しさを教え、上手にできたときの達成感を自覚させる。これがもっとも大事な任務なのであろう。
言うは易し。実際に現場に立ってみると料理を提供することは簡単だが、厨房の外にいる生徒を呼び寄せ、いかに調理が楽しいかを伝えるのは難しい。面倒なことをせずに自分が結果を提供し、それを覚えされる方が楽だ。しかし、くりかえすが大切なのは提供された料理ではない。その料理を作る能力だ。
私はやる気を引き出す方法をいろいろ考えている。テクニックはいろいろあるが、その根本は学ぶことの面白さと真剣にまた謙虚になることの快感を教えることなのだと考えている。自ら学び、その思いが純粋であるほど効率的に学習ができる。それを教えることが私の仕事と心得ている。

喜びや驚きをどのように表現するのか。それは考えている以上に文化的な差があるようだ。その事実はなかなか表面化しない。
感情に合わせて身体が動くことは誰もが体感できる。ただ、その動き方は文化の差がある。喜怒哀楽をどのように表すのかは文化圏の中で伝承されている。非言語の伝承は明示的にも、非明示的にも行われる。このうちの無意識の伝承は厄介だ。伝えている方も伝えられる方もその意識がない。だから、何かきっかけがなければ意識されない。
私が気づいたのはディズニーのアニメーションを見たからだ。ヒロインが何かを語るときの姿勢がどうも不自然に感じたのだ。不自然というのは動きがぎこちないというのではない。むしろ動作はなめらかで人間が演じているかのようだ。不自然さはその所作が現代アメリカ人の典型的なものになっていることにある。この時代の、この地域の人はそうは振る舞わないだろうと予感しうるのだ。
ディズニーは決して綿密な時代考証は目指していない。ストーリーのテーマ性が確保できればあとは何でもいいのだ。文化剽窃の可能性があるがすでに型ができているディズニーはその方面でとやかく言われないだろう。
ラプンツェルやモアナが現代アメリカ人女性の典型的な所作をしても、多くの人は気づかないのかもしれない。でも、一度気づいてしまうともう気になって仕方ない。所作には明らかに文化差がある。

子どものころ軍艦のプラモデルを組み立てるのが好きだった。ウォーターラインズという喫水線以上の部分でできているモデルで旧日本海軍の戦艦や巡洋艦、駆逐艦をいくつも作った。いまではなぜそんなことに小遣いを費やしたのかと思うこともある。
昭和の代表的なアニメの宇宙戦艦ヤマトも、その前の特撮ものに出てくるさまざまな「艦隊」も子供の時はあこがれの的であった。絵にかいたりプラモデルがあれば作り、高くて買えないものは紙や木でまがい物を作った。それが最終的に誰かを殺すための兵器であるという事実を格好よさは簡単に跳躍した。
幸いにも私が生まれてから軍事的な戦争はなく、軍艦の出撃することもない。ウクライナ戦争でロシアの巡洋艦モスクワが戦没したというニュースを聞いてからまだ軍艦というものが実際に機能しているということを再確認するほどである。
軍艦は人間の負の部分の塊のような気がしてならない。何のために巨大な殺人兵器を作らなくてはならないのか。それが人間の限界を見事に具現化してしまっている気がするからだ。戦わなくては自分を維持できないという残念な現実からそんなに簡単に解脱できることはないと思い知らされるのだ。
横須賀や横浜で自衛艦や護衛艦をみると昔のように素直に興奮できない。もちろんその艦船に乗って最前線で国の安全のために命を懸けている自衛官や海上保安官の皆さんには心から感謝を申し上げたい。その心身にかかる圧力に耐えて責務を果たしていることに敬意を表したい。
それはそれとしてやはり兵器を積んだ巨大な武器から私たちが解放されていないということに悲しさを感じてしまう。正直に言うと今でも護衛艦はかっこよく感じるが、その中にはかなりの哀調が含まれる。
ハロウィンが近い。このところコロナ自粛が続いていたが今年はどうなるのだろう。単なる乱痴気騒ぎならばやめた方がいい。
ハロウィンはアメリカを中心に行われている子供の祭りだ。収穫祭と祖先崇拝とがその根本にあるという。原始的な宗教が背景にある。それがなぜか日本では大人が参加する変装大会のようになってしまった。死者のふりをして町を練り歩くというのは、日本の祭りにも通底する何かがある。ただそれを意識することは少なく、先にも述べた仮装パーティーとなっている。
大人が喜んで変装をしようとするのはなぜだろう。もうそこには信仰的なものはない。自分のために変装をしている。現状に甘んじてがんじがらめになっている状態をなんとか打破したい、という想いは変装という行動で晴らそうとするのだろう。実際は顔に何を塗ったところで状況に変化は起こらない。
本当に必要なのは一時的な変装ではなく、変身することだ。それにはかなりのエネルギーがいる。今と違うなにかに変わることを目指していればいつかは変われるはずだ。それができてこそ、自己肯定感が得られる。とりあえず覆面してみて、そのうえでもっと大きな変化を期待し続ける。そうすればいつかは変身もかなうはず。そのように考えている。

このところ木星の輝きが印象的である。秋に入って木星は一段と輝きを増している。位置的にも見やすい場所にあり、明るい恒星が並ぶ冬の星座も出始めているがまったく他を寄せ付けない輝きがある。土星も見えており、とても鮮やかだ。このところかなり冷え込んできたが、空が澄むのはよい。ホルストの楽曲を流しながら見てみたい。

一度にいろいろなことをこなせる人をかつては聖徳太子の能力に例えた。確か七つの話を同時に聞いて対応できたとかいう。根拠がある話ではない。聖徳太子伝説は様々あるが、異能譚の一つであろう。最近は7つくらいでは収まらない。コンピュータの出現でマルチタスクは当たり前となってしまった。
しかし、いくら高性能のコンピュータが普及したとはいえ、それを操作する生身の頭はそれほど高性能ではない。特に私のような旧型はすでにかなりがたが来ている。パソコンを操作していて困るのは違うウインドウなりタブに移った瞬間にこれまでやっていたことを忘れてしまうことだ。これはいかんともし難い。それだけではない。通知が来たり、たまたま間違ったタブを開いたときに気が散って別のことを始めたりすると、もう前のことが進まなくなる。注意散漫というより、分裂しているといった感じのありさまだ。
少なくとも私はマルチタスクには全く向かない。一つ一つを愚直にこなして何とか人並みにそろえるのが関の山のようだ。それなのにパソコンを使うたびに先に述べた罠にはまる。これは精神衛生上とてもよくない。私の疲労の原因のかなりの割合にこの問題があるような気がする。