投稿者: Mitsuhiro

陰性証明

 コロナウイルスに関する陰性証明をもらいにPCR検査を受けた。翌日、メールでお墨付きを受けた。墨どころかインクも使っていないが。

 勤務上の要請で陰性の証明が必要になったので受けてきた。検査所では明らかにアルバイトの皆さんがマニュアル通りの説明を繰り返していた。検査所と書いたが雑居ビルの一画を借りたものでおそらく様々な遍歴があつたと考えられる老朽化の跡が見えた。

 無事に手に入れた証明書だが、職場ではスマホの画面を提示すればいいと言われた。でも、おそらく私は印刷して提出することになるだろう。証明書は紙でなくてはならないという思い込みから私はまだ抜け出せない。

芸能の海外展開

Photo by Pixabay on Pexels.com

 日本の芸能界は国内では有名でも海外では通用しないということが多い。これは日本国内で十分な市場があり、満足できる成果が出ていたからに相違ない。それはそれで幸せなことだと思う。しかし、今後のことを考えれば海外展開を考えるべきではないか。

 いわゆるシティポップと呼ばれる日本の歌謡曲が海外で評価されているらしい。日本の音楽は海外の様々な要素が取り込まれており、その上に日本テイストが盛られているため独自の楽曲になっているという。それが海外では目新しく感じられ、評価される原因となっている。さらにアニメに関連する音楽やファッションなどはユニークな日本文化と認識されている。ならば、これらを海外でパフォーマンスするアーティストがもっと出てもいいのではないだろうか。

 韓国は芸能界が一定の成功を収めている。国家の補助も奏功しているかもしれないが、背景には国内だけでは十分な利益を上げられないというという制約がある。だから、海外で売る。グループに必ず、英語や日本語、中国語ができるメンバーを入れる。初めから海外展開を前提とした活動をしているのだ。この考え方は日本には今まではなかった。外国語ができる芸能人は特別扱いされ、できすぎると親近感がない存在になることさえあった。実は中国語ができても、フランス語が話せてもそれを武器として活動するという者は少なく、そうしたスキルは隠し持つものであった。日本には十分なファンの数がおり、利益を上げるのにリスクをとって海外展開する必要はなかったのだ。

 これからはわが国も海外に展開せざるをえない。人口減や経済の低成長による購買力の減退は、生活必需品以外の製品は手に入れようとしないことにもつながる。そんな中でアーティストが生き残る策としてユニークさを維持しながらグローバル展開をすることにある。少数ながらそういうアーティストが現れつつある。彼らのことをもっと知るべきだろう。

冷え込み

Photo by Andrea Piacquadio on Pexels.com

 寒気が南下して気温が下がっている。今日は15度前後までしか上がらないという。薄いコートを着て出勤することにした。

 上着が増えると困ったことがある。ポケットに何でも入れてしまう私はそれがどこに行ったのか分からなくなるのである。今年はコートのポケットには何も入れない、入れるとしてもひとつの場所だけと決めることにする。

 まるで小学生の誓いのようだが、私にとっては結構切実な問題なのである。

まねぶ

何を学ぶ?

 学ぶという言葉の語源説明に真似ぶから転じたという説がある。言語学的にどうなのかは検証する価値があるが、民間語源説としては有名であり、かなりの影響力を持っている。この考え方は再評価されるべきではないか。

 真似が単なるコピーというのなら、やはりもう時代には合わない。複製の技術は恐ろしく進歩した。知の分野においてもただ同じことを繰り返すだけならばコンピューターの方が完璧にこなす。どうも真似するのは内容ではないらしい。

 最近、成功体験者の学習法を紹介する書籍がよく読まれているようだ。あの大学に入学した人はこのようにふるまったとか、何を読んだとか、どうノートを作っているとか。そういうやり方への関心が高まっている。

 はっきり言ってこうすれば東大に入れるといったノウハウとしてその手の本を読むことには疑問を感じる。例えば、こんなにきれいにノートをとっていますよ、とか、レイアウトはこうするのが一流大学の方式ですといった類である。汚いノートでも優秀な人はいくらでもいるし、手帳の作り方も人それぞれでいい。

 大切なのは考える際に何を重視し、どのような手順で考えているかなのだろう。ノートに関して言えば書き方はどうであれ、自分なりのまとめや、何に使えるかといったメモを付加している人は概して優秀だ。自分の考えを言語化しているからだろう。

 こういう学習に対する態度は参考にすべきだろう。何をしたかではなく、何を意識しどう振る舞うかを真似るべきなのだ。ここで古典的な芸能や武芸に伝わる師弟の関係を再考したい。なんのためにそんなことをするのか理解しないまま、ひたすら師匠のまねをし、その意味がようやく分かったときには師匠の域に達していたり、超越していたりする。この説明不可能の行動の裏には学ぶことの奥義が隠されているのかもしれない。

 この考えを現代に置き換えるならば、学習とは決して情報の伝達でも、処理の手順でもなく、学びに対する意識や態度に関わるということになる。教育の方法もこれを踏まえたものにしなければなるまい。

紅葉の絵

Photo by Tunahan Dolgun on Pexels.com

 いつか描きたいと思いながらいつまでもできていないのが、紅葉のいろいろをスケッチすることだ。一枚一枚の葉を描いてみたい。同じように見えて決してどれ一つ同じではない。風に舞う頃、その何枚かを持ち帰ってスケッチブックに写してみたい。きっとうまくは描ききれないだろうが、この営みをすることで生きているということの意味を深く感じられるような気がする。

 本当の紅葉はそれがいくらきれいでもやがて土にかえってしまう。写真にとっても何か薬品につけて保存したとしても、それはもう本物ではない。本当の紅葉の美しさは移ろいの中の一瞬にある。その一瞬をせめて描いてみることには意味があるように思う。

 季節の移ろいを感じさせる秋の風情はやはりいいものだ。

戻ってきた賑わい

Photo by Francesco Ungaro on Pexels.com

 今日は東京の都心に出かけた。好天であったせいかかなりにぎわっていた。外国人らしい姿も多くもとの街の賑わいが戻ってきたようだ。経済的な停滞は大きな問題だが、少なくとも都心の様子はかつてと変わらない。

 コロナウイルスの克服にはいまだ至らず、感染者の数も多いままだ。しかし、インフルエンザのレベルの警戒感になりつつある。特効薬がないのは同じだからだ。油断はできないが、あまりに警戒しすぎてもいけないということだ。世論がそのように流れてきている。マスクを外す人も出始めている。それを非難する人も少しずつ減りつつある。

 私はといえば、マスクをつけることがすっかり習慣化してしまった。つけないでいると何か不安だ。感染不安ではなく、様にならないという思いがしてしまうのだ。これも問題だと思う。いろいろな意味でこの数年間で生活や精神状態は激変してしまった。

秋晴れ

 久しぶりに穏やかな秋晴れだ。仕事をしている平日は晴れても無関係だが、休みの日に晴れるとやはり嬉しい。

 朝、自宅の周りを散歩するといつの間にかすすきが生えている場所ができた。おそらく誰かが植えたのだろう。すすきもいまや園芸の対象だ。

英国首相辞任

 

イギリスのトラス首相が辞任することになった。短命政権だった。彼女がなぜかくも早く降板するのかを知ることは我が国の参考にもなる。

 トラス首相が打ち出した減税策は英国経済を再生させるための方策だった。金を回せば国民は豊かになるというのは、経済の鉄則だ。それを分かりやすく実現しようとしたのだろう。

 ところがこの減税の割合が大きすぎた。財源確保がなされないまま減税することは国家の信用を損ねる。そこで英国の株式が暴落し、多大な損害が出ることになった。おそらくかなりの割合の英国株を買っているのは、英国以外の投資家だろう。信用がなくなれば売りに出され、価値は下がる。首相はこの点を軽視していた。

 もはや自国の経済を支えるのが自国民や自国企業だけではないということを今回の事例は強烈に示してくれた。場合によっては他国の意向で国の状況が左右されてしまうのだ。欧州連合を離脱するあたりからこの感覚が欠如していたのではないか。

 日本もそのことは変わらない。国民向けに甘言を放っても、実現不可能とみなされれば、国際市場から外方を向かれ、ついにはマイナスの打撃を受ける。野党にも与党にも、巧言令色を吐く方は多い。そのうちどれが将来を見越したものなのかを考えておく必要がある。

アクセス解析から

 私のブログは何も目新しいことはないが、毎日何か書くという点だけは続けている。内容よりは継続に重点を置いていると言えるかもしれない。

 アクセス解析機能を使って私のブログの訪問者を調べてみると、日本だけではなくいろいろな国からアクセスしていただいていることが分かる。もちろんこの中には意図的に他国のサーバーを通してアクセスしていただいている方もいるはずだ。WordPressのアクセス解析もフラッグカウンターの統計も参考にさせていただいているが、事実かどうかは保留している。

 それでもlikeをつけていただいた方のブログを訪問すると、英語だけではなくロシア語やイタリア語、そしておそらくスウェーデンの言葉と思われる言葉でブログを書いておられる。私のブログはほぼ日本語で書いているので、それらの国の方はどのように読んでいただいているのか分からない。私は英語を読むことはなんとかできるがその他の言語はまず無理だ。ロシア語のブログはネット翻訳でなんとか読み取れる。イタリア語も出来たつもりになっている。しかし、この翻訳が本当にあっているのかという検証はできていない。

 このようにかなり怪しいのだが、それでも海外のブロガーの文章を読むのは楽しい。素直に同意できるものもあれば、意味が分からないものもある。そのどれもが語りかける。ものの考え方は多様で多彩だ。自分の周囲の状況だけで物事を判断するのはおかしいのだということを。

もてなししたくても

Welcome to Japan. Your choice is good.
But, just moment, please.

 外国人受け入れに舵を切り、なおかつ歴史的な円安にあって、観光業は活気づくはずなのだが、どうも簡単には行かないようだ。もてなししたくてもできない事情がある。

 コロナ騒ぎの中にあって国内の観光業はかなり疲弊してしまった。人員削減や店舗の閉鎖などを行い延命しているのが現状だ。そこに外国人が戻ってきてももはやそれを受け入れる受け皿がないのだ。

 観光客の本格的に戻ってくる前に少しずつ営業をもとに戻していく必要がある。これはうまくやったほうが利益が上がるから競争になるのかもしれない。観光業の弱点を知ってしまった労働者をどれだけ呼び戻せるのか。あらたな商機はないのかを探るべきだろう。

 もてなししたくてもできないという状況を打破して、できることから始めるべきだ。この際、新規参入者も出てくるのではないか。