最近思うのは自分が心から楽しむのには他人を楽しませるにしくはないということだ。歳を重ねると、安易な娯楽では満足できなくなる。大切なのは他人に自分が施した何かがリアクションとして受け取れることだろう。独りよがりではいけないが、一面の事実であることは確かだ。
投稿者: Mitsuhiro
排除
閉塞状況で考えることの一つに悪い要因を排除すればいいという考え方がある。現状がうまくいっていないのは特定の要因があるとして、その要素を排除しようとする考え方だ。これはいろいろな危険性をはらんでいる。
まずマイナス要因と考えられたものが本当に負の要素なのか分からないことだ。もしかしたら本当は別の要因があるのにも関わらず、安直に悪因と認定しているのではないか。結果的に弱者に罪をなすりつけ、本質を見逃しているのではないかということである。
この間違いは残念ながらかなりあると察する。誰かを悪者に仕立て上げ、真実を省みないことは結果的に全体の不利益に繋がる。それをもっというべきだ。一部のアジテーターに騙されてはいけない。
安易に排除に走る傾向を私は非常に危惧する。机を片づけるのと人の配置を変えるのは全く別だ。それを執拗に伝えることは、時代遅れの人々の役割かもしれない。
氷点下の朝
寒気の南下の影響で今日も冷え込んでいる。朝の最低気温は氷点下になっており、都心部でもマイナス2℃らしい。私の住む郊外はもっと冷えている。昨日は北風が強かったが、今日は弱い。そして晴天である。典型的な放射冷却の冷え込みということになる。
こういう場合に怖いのは路面の凍結だ。雨が降らない状況なので普通は凍らないはずなのだが、誰かがうっかり水をまいたりしたら大変なことになる。私は氷の上で転んだ経験が何度かあり、そのうちの一回は顎のあたりを打ってすこぶる痛かった。その痛みの記憶はしつこく残っていて、条件反射のように突然湧き上がることがある。寒いのは決して嫌いではないのだが、この転倒の記憶だけはなんとかならないものだろうか。
今日もいざというときのことを考えて路面を見て歩きたい。絶対にながら歩きはやめたい。
実は少数意見
メディアリテラシーは大切だと分かっていても見事に騙される。私自身もその一人なので自戒のために書いておこう。
誰もが発信できるようになった情報革命は私のような世代にとっては画期的なことであった。マスメディアしか情報発信のチャンネルがなかった時代では、オピニオンリーダーという隔絶した存在がいた。その中にはとんでもない人物もいたが、大抵の場合は理論的もしくは感情的に同意できる存在であり、その人物から学ぶことが多かった。
ソーシャルメディアが普及してさしたる実績も経験も努力もないのに、口説だけは長けている人物が台頭している。彼らの困ったことは発言はするが、その発言に責任を取らないことだ。多くの人を扇動しておいて、その内容に関しての批判は受け付けない。そういう人物を国会議員に選んでも我慢してしまう。いまの日本の民度の低下を指摘されても仕方がない。
現場で努力している人をもっと評価しよう。彼らは失敗することも多い。だが、何もしないで他人のあら探しをしている人とどちらが尊いだろうか。そういう基本的なことを考え直したい。
実は単なる奇抜な言説で、アクセス数を稼いで収入を得ている人を軽蔑する能力を私たちは取り戻さなくてはならないと思うのである。
遠景

遠い風景を見ると心が落ち着くことがある。山の上とか、建物の上階から見下ろせばよりその効果が高い。なぜだろうか。
おそらく身体的な理由があるのかもしれない。ある体内物資が分泌されるといった説明だ。これについてはよくわからない。ただ、別の理由もあると思う。
遠くを見ることで自分の位置が相対的に把握できるというのは大きいのではないか。自分がいまどこに位置し、世界とどのような関わりを持っているのかが直感的に理解できる。また、風景を俯瞰することで日常のレベルでは気づかなかった視点、視座を獲得することが快感をもたらすのかもしれない。
風景の中に自分の存在を客観視し、周囲との関わりを感じることができることこそ、遠景を見る愉しみであると考えるのである。
野生動物の異常行動
最近、野生動物の異常行動が目立つように思う。特に海洋性の動物の異変は顕著だ。大阪のクジラの迷い込み、東京ではトドが現れたり、大量のイルカが見られたりした。こうした行動は何が原因なのだろう。
天変地異の予兆とする考えはこの種のニュースでは必ず起こる。特に地震の前触れではないかという考え方は一種の噂として拡散されやすい。
また、気候変動のせいだという説に関してはもっと根源的な問題になる。もしそうであれば長期的に起こりうることであり、今後も注目されるべきだからだ。
さらに人為的な要因と考える説もある。例えば軍事的なソナーなどの頻繁な使用により、動物の持つ方向感覚が狂っている説である。もしそうであれば、近隣諸国との緊張関係が影響しているということになるし、また公表されていない軍事行動が展開しているという証になる。
これらはどれも推測であり、確証はない。どれかが当たっているかもしれないしすべてが外れている可能性もある。
野生動物の異常行動が何を表すのかを考えることは、結局現在の生活を見直すことにつながることは間違いない。
退職教員を活用せよ
ポジショントークとの批難を恐れずに言えば、退職教員をもつと活用すべきだと思う。やる気があり、能力もある教員を使わないのは社会的損失であろう。
多くの教員は定年後教育関係の仕事に就けない。経験と実績があるのに仕事ができないのだ。そこで、退職教員を活用する方法を考えたい。

教壇に立つことが最もいいが、それ以外にも「使い道」はある。後輩の指導員として、もしくは補助としての役割を与えることだ。この場合、あくまで主役は現役の教員であり、退職教員は前面に出てはならない。この心得のないものは教育現場から離れた方がいい。管理職経験者は適任のように思えるが、管理することに関心が強すぎる人にはこの役は向かない。
事務補助もできる。多忙な教員の事務的な面をサポートする仕事だ。機械にはできない配慮のいる作業を請け負う。教員経験者ならばかゆいところに手が届く仕事ができそうだ。
生徒の生活指導や悩み事の相談相手などの役割にも向いている。スクールカウンセラーが不足している現状では、教員の資格で生活指導に専念できる仕事を作ってもよい。
部活動顧問や指導員をやることも彼らにとって適役だ。もともと技能を持ち指導ができる場合は申し分ないが、そうでなくても子どもの扱いや、保護者対応きなれた経験を活かしてマネージメントをすることができる。
このように経験と実績を活かして退職教員を雇用すれば教育現場に利すること大である。現役教員は授業に集中でき、その完成度が上がる。人材不足の地域こそこの制度を検討すべきではないか。
カラスの準備
2日ほど前からハシブトガラスの群れが早朝から騒がしい。この地域のゴミ出しの曜日でもないのにどうしてだろう。
地域のゴミ回収日にカラスが狙うのはどこにでもあるはずだ。ゴミ袋を鳥にとっては見にくいといわれる黄色にしたり、ネットをかぶせたりしても巧みにつつきだし散乱させてしまう。しかし、その時点ではゴミ出しの曜日までは数日あった。
集まっていたのは近隣の蜜柑が目的であったようだ。それまで見向きもしなかったのに今朝見るともう枝には残っていなかった。そして路上には大量の食べかすがある。なぜいまになってと思う。
思うに今週の大寒波の到来を知っているのではないか。寒さによる消耗を見越して多めに食べているのではないか。それが拙い推論である。
動物の行動が天候急変の予兆になることは数多く報告されているので、私も記録しておくことにした。
最低気温予想
今週は文字通りの大寒の節気であり、最高気温が二桁に達しない日が多いという。ピークは明日から明後日のようで、特に水曜日(1月25日)の気温はかなり下がるようだ。最低気温の予想をみると、‐3~0℃の幅で各社が予報を出している。氷点下になることは確実だ。さらにこの日は最高気温も4~6℃の予報であり、この地域としては極寒の日となりそうだ。
私にとっては寒さはそれほど苦ではないが、乾燥した北風がいろいろなことを狂わせる。おそらく一番の難関はこの乾燥であろう。コロナウイルスが5類相当に格下げされることがほぼ確実なようで、少しずつマスクを外すひとが出ている。しかし、このインフルエンザの季節が終わるまではしばらくは変わることはないだろう。さらにそのあとの花粉症もあるのでいつマスクが外せるのか個人的には分からない。
今週はマスクは防疫の目的以上に防寒具となりそうだ。
失われた感触
時代が変わるとなくなるものがある。現代社会は進歩が速いためにそれを人生の中で感じることができる。私でさえそれをいくつも感じることがある。
視覚的なものは大きく変わり続けている。街の風景は刻々と変わり、少し前のことを思い出せない。もっと前のことを考えてみる。いまは住宅地として有名な場所もかつては雑木林の連続であった。薄暗さのなかに踏み込みにくい雰囲気があった。うっかり足を入れると不可思議な動物に襲われるかもしれないなどと、子どものころは真剣に考えたものである。
耳で聞く感覚にもなくなったものは多い。駅の改札で聞こえていた改札の際の鋏の音はある世代以下の人は知らない。原宿駅の改札にも駅員たちが並んで鋏を入れていたことは記憶の隅にある。客がいなくても空うちをしていたので、常に鋏の音が響いていた。その後、紙の切符を機会に入れる方式となり、今は非接触型のカードやスマホ、スマートウォッチをかざすだけなので音は出ない。確認の電子音がわずかに響くだけだ。非接触を信じられない人がカードを読み取り機に当てる音が耳を驚かすことはあるが。
嗅覚も変わった。かつては下水道の普及が足りないところがあり、どんな町にもどぶ川があって悪臭を放っていた。今はめったにない。これはいいことだが、使ったものは適切に処理しなくてはならないと思う気持ちが人任せになっている。ものを大切にしない気持ちがどぶ川よりも社会悪を発生させる可能性がある。
触感もなくなったものがたくさんある。ダイヤル電話を回すときの指先の緊張感を私は覚えている。回すときは思い切ってやらなくてはならない。躊躇してしまうとうまくストロークが計れないらしく間違い電話になってしまっていた。
味覚は常に変わり続けているから、逆に変化には気づけない。昔のお菓子はもっと甘かったし、何か体に悪そうな合成的な味がした。そういうものは今は少ない。おそらく、子どもの自分に今のお菓子を食べさせたらおいしさに感動するに違いない。その代わりに砂糖の代用甘味料などが入っているので、人体に将来どのような影響が出るのか分からないともいう。昔と今とどちらがいいのか分からない。
失われてしまった感覚はいくらでもある。時々それを思い出すことで、いまの生活を客観できるかもしれない。
