投稿者: Mitsuhiro

世代想像力

 思いやりという言葉の指す範囲は広範だ。残念ながら私達には基本的に他人の感情を理解する能力はない。ただそうではないかと想像するだけだ。

 年齢の違う相手への想像はさらに難しい。子どもの頃、大人たちの考えが理解できず、大人になると子どものことが分からなくなる。自分も子どもだったはずなのになぜか理解ができない。

 老齢の方々のことも理解が届かない。どうしてそういう行動を取るのか、なぜそのようなことを言うのか。理解が一つ一つ止まってしまう。認知症などの身体的要因もあるが、そういう障害がない人でもどうしても分からないことがある。

 こういうときに働かせなくてはならないのが想像力だ。子どもは、老人はこう考えているのかもしれないという可能性をどれだけ思いつけるか。その中の蓋然性をどれだけ忍耐強く考えられるのか。それしかない。

 人は変わりゆくもの。そしてその変化は決して外観や身体能力だけではないということを再考したい。

比喩

 だれでも使う修辞に比喩がある。修辞といったが多くの人にそういう意識はない。ごく自然に使う。「ような」などの語を用いる直喩は日常的な表現方法だ。私たちが比喩を使うのはなぜか。使うことにどのような意味があるのだろうか。

 比喩にもいろいろな種類があるが、最も分かりやすい直喩は例えるものと例えられるものが明示的に分かる。この例えるものと、例えられるものの関係を考えてみよう。例えるものは発言者にとって身近なものであり、何かを述べるときの基準になりえる。対して例えられるものはその正体が不明確なこともあり、それを例えるものを使って説明使用していると言える。

 別の表現をすれば既知の事実を使って未知の事実を説明するときに使われるのが比喩ということになる。例える材料が多い人はこの手法をふんだんに使うことができ、表現を深めることができることになる。自分の知っている事実を使って、未知の事実を説明するための手段ということになる。

 ならばこの比喩の方法をうまく使いこなすためには、自らが様々な経験を積み、人々の共通体験を知ることが必要だ。これは実はとても大切だと思う。これからの話し方にこの見識を生かしたい。

海を見ること

 波打ち際で海を見ることにはそれなりの価値があると思う。なぜ波が起こるのか。波のエネルギーはどこから生まれどこに消えるのか。それを思うだけで静かな気持ちになれる。

 日常の様々なことが些事と考えられるのは海があるからだ。海が遠い人は夜空を仰ぐといい。私たちは自分の存在の小ささを知り謙虚な気持ちになれる。

 あらゆる誘惑や疑惑、欺瞞、悪意その他のマイナスな感情を海に放とう。空に投げよう。海は、空はそれを受け容れてくれるはずだ。

見せ方

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 スタジオジブリの作品の世界観をテーマパークにしたジブリパークが開園したという。日本のディズニーランドとなるのか短命で終わるのかはこの後の見せ方によっている。

 愛知県長久手市の愛・地球博の会場跡地の公園に作られたジブリパークは一部の施設だけが開業した。ジブリ作品の世界を再現した施設が中心で、乗り物などの設備はないようだ。ジブリ作品を見たことがある人であれば、作品世界の中に入り込んだような錯覚を得られるならば、行く価値はある。ただ、それだけであると繰り返し訪れることはないかもしれない。

 この中にはオリジナル作品を見せるコーナーもあるという。ここだけでしか見られない短編作品だ。これが定期的に変更されるのならばリピーターを生み出す可能性はある。媒体販売やネット配信などもしない。行かなくては見られないものが必要だ。新作を作り続けることが無理ならば、過去の作品のメイキングや再編集でもいいだろう。いわゆるディレクターズカットならば意味がある。

 さらに単にかわいいキャラの並ぶ場所だけならば、やがて飽きられるかもしれない。ジブリ作品には隠されたメッセージがあるものが多い。それを分かりやすい形で示すものもいいだろう。ディズニーランドにあるスモールワールドの展示は世界平和の意味を分かりやすく示している。こうしたものはむしろジブリ作品の方が豊富だ。これをわざとらしくではなく作品世界を傷つけない範囲で示すことも忘れてはならないだろう。テーマパークは単なるモチーフ展示ではない。

 日本のテーマパークのほとんどがうまくいっていない。それにはいろいろな要因があるが、コンテンツ的には申し分ないジブリパークは成功する可能性は多分にある。世界から人を呼べる場所になる可能性もある。ただ、これまでのような単なるキャラを並べる展示とどこにでもある乗り物しかないのなら短命になるかもしれない。要は見せ方による。うまくいけばスポンサーもつく。私は一度見てみたい気がしている。

懐かしい曲

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 ネットラジオから昔聴いて感動し何度も聞いた曲が流れてきた。久しぶりに聞くと確かにいい曲だと思うが新しい発見もある。

 流行歌ということばがあるが、流行にはいくつかの要因がある。楽曲のよさはもちろんだが、それに加えて聴く側の環境、時代、世相などの要因が絡む。世間的な流行はなくても個人的に魅了される歌というものもある。それも、聞く側の問題が大きく関与している。だから、自分の要因が変わってしまうと聞こえ方も変わってくるということになる。

 昔聞いていた曲は概して単純で素直なものが多い。メッセージが分かりやすい。メロディーラインも素直だ。それでも十分にドラマチックであり、叙情的だ。そこに惹かれたということだけは思い出せる。しかし、なぜ妄信的にのめり込んだのかよく分からない。それが楽曲なのだろう。

文化

WordPressの無料写真でCultureを検索するとこの写真でした。
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 日本では文化の日という祝日がある。そしてそれは今日だ。文化となにかを考える一日ということになっている。

 11月3日は明治天皇の誕生日としての天長節、崩御後は明治節であった。1946年のこの日に日本国憲法が公布され、憲法の精神に文化の尊重があることから1948年から文化の日となった。5月3日の憲法記念日は1947年5月3日に施行されたことによるものという。ならばこの文化とは憲法と関連する由来を持つものであることになる。

 憲法第25条には、
(1)すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
(2)国は、すべて の生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 とあって、文化的なという言葉がある。この条文は生存権と分類されるものであり、最低限度、つまりここまでは死守しなければならないという枠組みに文化が使われていることになる。

 換言すればただ生きているだけではなく、衣食住が足りている身体的安全が確保され、なおかつ精神的な豊かさもなければならないというのだろう。ここでいう文化は芸術、レジャーという範囲だけを指すものではなさそうだ。もと切羽詰まった問題も含む。例えば個人の生きる価値を見い出せるかとか、多様性を認められるかといったことも含まれそうである。生存権の規定は第2項の社会保障の問題と深く関連しており、しばしば訴訟の根拠とされている。

 文化という言葉の持つ幅広さはいろいろな解釈を生み出す。もともとの漢語の語義としては教養に近い概念である。それが西洋の概念である精神向上のような側面を融合したことで複雑になった。今使われている文化とは一定の社会集団のなかで共有されている知識や行動様式、生活様式などのことを指している。地域文化のように場所で、また若者文化のように世代で共有する場合もある。江戸文化というときは時代に関わる。様々なくくりがあってそれらが複合することもある。

 共有されていることすら気づかないことも文化と称されることもある。食文化などは同じ集団の中ではほとんど気づかれないが、旅をするとそれが文化であることが表面化する。その他の要素もほかの集団にであって意識される。カルチャーショックという言葉がそのとき使われる。

 生存に欠かせない文化とは何か。これらを組み合わせると、ただ生きているというだけではなく、自分の属する集団の中で当たり前だと思われることができることになる。自分とは異なるやり方をしている人たちがいることも知り、それを寛容する。それらが果たされなくては生存していることにならないということなのだろう。

紅葉

ムサシノケヤキの紅葉

 昨年も書いたが近隣の商店街に植えられたムサシノケヤキがいつの間にか紅葉している。ライトに照らされると実に鮮やかな色合いになる。

 足元を見るとすでに落葉した葉が散乱している。ついこの前まで汗をかいていたというのに、もう紅葉そして落葉の季節なのだ。

 秋来りなば冬遠からじ。今年は厳冬の長期予報が出ている。

ベルアップ

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 マーラーの交響曲を聴きにいって驚いたことがある。クラリネット吹きがときどき楽器をほぼ水平にまで上げて吹くのだ。リード楽器の吹き方としてはずいぶん不自然だ。トランペットなら当たり前だが、クラリネットがそんな恰好をするとびっくりしてしまう。

 調べてみるとベルアップという奏法らしい。そしてマーラーはこの吹き方を譜面で指定しているのだという。繊細な音を出すクラリネットがまるでラッパのように吹かれる。オケの演奏でこれを見るとかなり印象的な光景だ。演奏家もかなり無理をしていることが伝わってくる。

 音を遠くに飛ばすためというのはあまり説得力がないようだ。楽器の先をどこに向けようと音の伝わりは変わらない。違うのはやはり見た目の印象だ。聴衆に視覚的なインパクトを与えるというのが第一の効果なのだろう。その意味で私のようなものが現れたことはすでに成功しているともいえるのかもしれない。

問いを作る問題

 答えを示して、その答えになる問題を作れという変な問題を出してみた。柔軟な頭の働かせ方を鍛えようという試みだ。

 問題は単純だ。ある漢字を示し、その同じ文字が当てはまる熟語が含まれる例文を並べさせる。ただし、同じ意味で使われていない熟語にしなくてはならない。例えば「生」が答えになるように二つの例文を書けという具合である。

私は学( )だ。

このことは一( )忘れない。

 こんな感じでいい。問題を作るということはただ答えを出すのではなく、設問の狙いとか仕組みを知る必要がある。それが面白い。

 まだまだいろいろな実験をしてみたい。考えさせるための方法は多様である。

息づかい

 オーケストラの演奏を見る楽しみの一つに演奏者の息づかいを感じることがある。確かに演奏家が眼前で楽器を演奏しているという実感は、譜面に書いていないことからも感じることができる。

 チューニングを終えた楽団員が指揮者の登場を待つときの緊張した息づかい。指揮者がタクトをふる直前に吸い込む息、音になる管楽器演奏者の息、実際には聞こえないが弦楽器や打楽器奏者のブレスも感じられる。これがライブ演奏の醍醐味だろう。

 コロナ騒ぎの中で様々なものがリモート化した。音楽はもともと録音という文化がある。しかし、何にしても直に演奏を聞く楽しみはなくなるものではない。