投稿者: Mitsuhiro

気候変動対策

 世界共通の課題として気候変動への対策がある。COP27と呼ばれる国際会議では具体的な対策の実現のために、いわゆる南北問題をどのように克服するのかが話し合われる。

 気候変動の原因が人間の活動によるものとすれば、先進国が悪影響のかなりの部分をもたらしていることになる。地域的な公害と異なり、その影響は地球規模であり、風水害や海面上昇などの害はむしろ発展途上国で顕著だ。豊かな生活を送るために大量の二酸化炭素なり有害物質なりを出している先進国のために途上国は生命の危機に瀕している。

 被害の補償として先進国が援助を行うべきだという議論はなされても、一向に実行されない。様々な利権が絡むため身動きがとれないのだろう。

 生産活動を抑え、経済成長はしないという選択肢もある。それで満足ができるならば一番いいのだろう。実際にはこれが難しい。私たちは今よりいい状態になることを志す本能がある。

 気候変動対策は人間社会の袋小路を出現させそれをどうしたら乗り越えられるのかを何者かに試されている気さえする。

名画への八つ当たり?

 ヨーロッパの美術館で名画に液体をかける過激な活動が相次いでいる。人類の共通の財産になぜそのようなことをするのか。

 これが至って正常な人たちの活動であるということに注意しなくてはならない。石油掘削に抗議するというのだ。環境保護活動なのだが、そこに温暖化対策の進まない現代社会への批判があるという。それがなぜ美術品の破損に向かうのかは飛躍があるが、要するに現状に対する強い憤りを示したいということなのだろう。

 環境保護運動というのは得てしてこのような方面に走りやすい。捕鯨船に対する攻撃も明らかに行き過ぎたものであったことを思い出す。彼らがそういう行為に走るには現状がなかなか変わらないという焦りからくるものと思われる。彼らなりの正義を通すための手段ということだ。

 しかし、その表現の方法は間違っている。美術品をけがしても環境保護団体への理解は深まらない。別の方法をとるべきだろう。悪質な方法は敵しか作らないからだ。

 それにしてもなぜそこまでして世間に訴えたいのか。何を目指しているのかについては、私としても冷静に考えなくてはならないと思っている。

地球の影

 現在、皆既月食が進行している。まもなく皆既の状態になるのだろう。

かけ続ける月を見ているとその欠けた部分の輪郭線が地球の影であることが分かる。地球は確かに大きな球であるということを理屈ではなく、視覚的な現実として見せてくれている。無数に浮かぶ星の中の、その周りを偶然周回するようになった惑星、さらにその周りをまわっている衛星…。 そんなものは無限に近いほどたくさんあるのに相違ない。その中でたまたま生命を得て、意識をもって生きている。自らの存在の小ささを実感できるのが天体現象というものである。

 私の持っているスマホではうまく写真が取れない。ここに載せておきたかったが仕方ない。多くのプロのカメラマンがいくらでも残してくれるはずだ。

天王星食

Uranus

 今晩皆既月食があるが、その最中に天王星の月の向こうに隠れるという。天王星食だ。なんでも月食と惑星食が同時に起きるのは稀ということで、次は322年後という。

 天王星は第7惑星だが、遠いため肉眼では見えないと勝手に考えていた。ところが、現在は6等級であり、目のいい人なら見える明るさだ。もっとも東京では無理だが。近くに光るかなり明るい木星を頼りにすればおよその位置の見当がつく。

 最近は惑星が空に勢揃いすることがあるが見えるのは土星までだ。でもこういう現象を機会としてその存在を意識できるのはよいことだ。

次の月食

次に見られるのはいつ?

 明日、皆既月食になるという。晴れればちょうどいい時間に見られる。星の重なりが生み出す現象に過ぎないと知っても気になるものである。

 月食は比較的頻繁にある現象だが、それでも見られる偶然は嬉しいものだ。小学生のころ、東京で見られる日食や月食のデータを見て、2000年代は遠い未来だと思っていた。その頃自分はどのような生活をしているのだろう。果たして生きているのだろうかなどと漠然と考えていた

 その2000年はとうに過ぎ、さらに22年も過ぎている。残念ながら博士にも大臣にもなれていない。日々の生活に満足できていない己がある。逆に言えば何とか生きていて、ブログを書けるだけの生活はできている。これは幸せということなのだろう。

 日食や月食があると次の機会はいつなのかが気になる。恐らくその時までは生きていないだろうと溜め息をつき、いやそれでいいのだと考えたりする。

イヌタデ

 イヌタデはこの辺りではどこでも見られる野草で、いわゆる雑草と呼ばれる類の植物である。赤紫の花が印象的で赤のまんまともいわれる。俳句の季語としては秋季で、確かに今、写真のような房状の花があちらこちらで見られる。

 この花はよく見るととても美しい。花の色彩がいかにも秋の野を彩るのにふさわしい感じがする。実は夏からも咲いていたのだが、そのころはほかの色鮮やかな花に紛れて目立たない。秋になって風景が落ち着いてくると目立ってくる気がする。

 イヌと名がつくものの多くは、まがい物とか品落ちるものといった意味がある。イヌタデも本当の蓼より劣るものという意味だ。蓼というのは植物学上はヤナギタデというそうで葉に辛みがあることから薬味として使われてきた。イヌタデはそれに姿が似ながら辛みがなく役に立たないという意味の命名らしい。食用には向かなくてもこの「雑草」は秋の野を彩るものとして大切にしたいものである。

進路の複線化

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 日本の学校制度は様々な選択肢を用意してあるが、実際には大学を卒業したホワイトカラーが他を圧倒するという社会の在り方を維持するように設計されている。いわゆる「学力」で振り分けられた「エリート」が多くの利を得るというやり方だ。

 もちろんそういう方面のエリートは必要であろう。情報処理に長け、高度な判断力を持つ人材は必要だ。特にマクロ視点やメタ認知ができる人材はこれからますます必要になる。大学はもっと真剣に勉強をするところになるべきだし、そこを卒業できたものにはそれなりの報酬を用意するべきだろう。でも、それだけでいいのだろうか。

 人間の尺度は今の様な学力試験だけではないはずだ。人の価値はもっと多様に評価されるべきだということは多くの人が感じていることだろう。例えば職人といわれている人々はそれなりの評価を得るべき存在である。さまざまな技術を支えている人々にも評価すべき人がいる。そういう人が一般大学卒である必要はないし、大学を卒業することが社会的ステータスの基準になること自体が間違いなのではないか。

 もし、今までとは異なるタイプのエリートを尊重する方法を考えるならば、場合によっては職業高校の評価をもっと上げる必要があるのかもしれない。あるいは学校とは別組織の教育機関に社会的な評価を与えることが必要だろう。技術者や芸術家といった人材は大衆教育にはなじまないかもしれない。しかし、彼らの地位を上げることでそれを志す人は増え、結果的に技能の底上げができる。結果として社会全体の利益になる。

 このようなことは昔から言われている。私の独創ではない。しかし、これだけ情報化社会になり、グローバル化がすすんでも一向に人間の評価の多様化が起こらないのはなぜだろう。もしかしたら、こういうことからイノベーションは起こるのではないか。

公共性と営利性

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 社会が変動し、なおかつ縮小傾向の経済状況にあって、日本の状況は不安定になりつつある。一部の資産家が社会的な影響力を持つ組織を支配し、自らの営利目的に従って社会を動かすことも実現しやすくなっているのかもしれない。

 最近よく言われるのが効率性とか生産性という言葉だ。日本の組織は生産性が低い、それは不要な人材や競争力の低いセクターの団体や企業を保護しているからだという論調が多い。これには検証がいる。本当にそうなのだろうか。確かに国際的競争力は低くなりつつある。それでも総体的には強固な組織を維持できていることにはまったく意味がないのだろうか。

 この手の論にはどこかに誇張が隠されている。そしてその裏には意図的か無意識なのかは分からないが一部の優位な人が損をしないような仕組みが隠されている。営利の追求こそが社会をよくするという飛躍が巧みに織り込まれている。ここには大きな陥穽が待ち構えている。

 その一つが公共性の問題だろう。果たして営利性の追求だけで社会は成り立つのか。営利追及の中に公共性の視点がなければ、少しづつ社会は壊れていくのではないかという危惧を私などは持ってしまう。アメリカの巨大企業が世界に大きな影響をすでに持っているのは周知のとおりだ。各企業にはいまのところ公共性に対する配慮がそれなりになされている。でも、どうだろう。その組織のいずれかに何らかの危機が訪れたなら、公共性を維持できるだろうか。最近のTwitterの動向をみているとどうも怪しい気がしてならない。

 我が国が(おそらくアメリカや中国など以外のどの国でも)大切にしなくてはならないのは、そうした巨大な営利活動に翻弄されないことだろう。また自国の企業も単なる資本追求の段階を脱し、社会的公共性を意識していくべきだろう。そのためには企業や組織のリーダーのみならず、多くの国民の意識をこうした考え方にしていく必要がある。

 産業界ではパブリックアフェアーズなる概念で公共性が語られる。これは公共性のなかに商機を見出そうという裏の目的もあるようだ。ただ、単一の企業や組織にとっての利益ではなく、社会的な目的を考慮に入れようとすることには賛同したい。

世代想像力

 思いやりという言葉の指す範囲は広範だ。残念ながら私達には基本的に他人の感情を理解する能力はない。ただそうではないかと想像するだけだ。

 年齢の違う相手への想像はさらに難しい。子どもの頃、大人たちの考えが理解できず、大人になると子どものことが分からなくなる。自分も子どもだったはずなのになぜか理解ができない。

 老齢の方々のことも理解が届かない。どうしてそういう行動を取るのか、なぜそのようなことを言うのか。理解が一つ一つ止まってしまう。認知症などの身体的要因もあるが、そういう障害がない人でもどうしても分からないことがある。

 こういうときに働かせなくてはならないのが想像力だ。子どもは、老人はこう考えているのかもしれないという可能性をどれだけ思いつけるか。その中の蓋然性をどれだけ忍耐強く考えられるのか。それしかない。

 人は変わりゆくもの。そしてその変化は決して外観や身体能力だけではないということを再考したい。

比喩

 だれでも使う修辞に比喩がある。修辞といったが多くの人にそういう意識はない。ごく自然に使う。「ような」などの語を用いる直喩は日常的な表現方法だ。私たちが比喩を使うのはなぜか。使うことにどのような意味があるのだろうか。

 比喩にもいろいろな種類があるが、最も分かりやすい直喩は例えるものと例えられるものが明示的に分かる。この例えるものと、例えられるものの関係を考えてみよう。例えるものは発言者にとって身近なものであり、何かを述べるときの基準になりえる。対して例えられるものはその正体が不明確なこともあり、それを例えるものを使って説明使用していると言える。

 別の表現をすれば既知の事実を使って未知の事実を説明するときに使われるのが比喩ということになる。例える材料が多い人はこの手法をふんだんに使うことができ、表現を深めることができることになる。自分の知っている事実を使って、未知の事実を説明するための手段ということになる。

 ならばこの比喩の方法をうまく使いこなすためには、自らが様々な経験を積み、人々の共通体験を知ることが必要だ。これは実はとても大切だと思う。これからの話し方にこの見識を生かしたい。