投稿者: Mitsuhiro

薄霞

薄霞

このところ気温が高い。春の霞の空にソメイヨシノも開花を促されている。見上げれば細かい雲があるのに気づく。おそらくたくさんの植物の花粉と西域から飛来した黄砂も混ざっているはずだ。明日からはマスクの規制も解除される。何事も移り変わり止まることはない。春はそれを感じる季節だ。

12年目

 東日本大震災から12年が経過した。12年も経つとかなり記憶が曖昧になっている。それは経年の習いでもあるし、災禍を忘れ去ろうとする本能も関係している。でも忘れてはならないことである。

 いわゆる被災地ではない場所に住んでいる私にとってもこの震災は大きなものだった。ちなみに私が住む市内でもこの災害による死者は出ている。しかし、建造物の倒壊は軽微であり、ライフラインも何とか保たれた。福島第1原発の事故による放射能漏洩の恐れが連日報道され、過敏な人は国外に去った。しかし、多くの市民はなにもできず、出資を控えた企業の影響で、公共広告機構ACの啓蒙的なビデオが繰り返し流れたことを覚えている。

 地震発生の日は職場から帰れず、翌日からは途中駅までしか鉄道が動かなくなった。それでもパニックも起きず、食料の供給も途絶えなかった。私は当時からブログを毎日書いていたが、そのころの書いた記事を時々読み返している。焦りや怒り、そして根拠は薄いが希望を持つべきだというメッセージを書き連ねていた。

 12年経ってその後に起きた他地域での地震や、景気の悪化、政権交代、そして近年のパンデミックなどで震災の印象はかなり薄くなってしまった。しかし、南海トラフ地震の可能性は依然として高く、壊滅的な被害がでるとの予測もある。いざというときに何をすべきなのかをもう一度考えたい。

 震災から12年。もしあの時、自分が被災していたらと思うと複雑だ。その日の被害者が12年後に何をしている可能性があったのか。それを思うとその人の可能性が失われたことに大きな悲しみを感じる。そしてその代わりに生きているおのれのことをもう一度考えなくてはならないとつくづく思うのである。

画像生成

 AIによる画像生成の技術は見るものを驚かす。最近はキーワードを入力するだけで絵画や写真のように見えるものをごく短時間で作り上げる。知らない人が見れば人が描いたものと見間違うほどだ。

 おそらく私たちの画像認識というものはある程度パターン化している。それをコンピューターは膨大な映像データベースから抜き出し、それに近いものを組み合わせてくるのだろう。組み合わせの仕方にもある程度の型があるから、それを使えば自然に見える絵になる。チャットするプログラムと基本的には同じなのだ。だから、ときには奇妙な絵になってしまうこともある。

 今のところは、絵画や動画生成を瞬時に行うことは難しいようだ。それが可能になれば、言語プログラムと作画プログラムを連動させ、ホログラムのような表現で投影すれば、リアルタイムで会話する疑似人間ができあがる。ロボットテクノロジーが追いつけば形而下の世界に現れることになるのだろう。

 言葉でも映像でも騙されやすい私たちがこうした事態にどのように対処すべきだろうか。そのためにも問題発見力とメタ認知の力を身に着けさせるべきだろう。これこそが教育のやるべきことなのだ。

もう一つの道

 成功例があると皆がそれを模倣しようとする。間違いではないが総体的には危険だ。もしその方法が間違っていればすべてが水泡に帰す。いまの世の中はそういう選択をしやすい。

 生き残るためには多様性を確保すべきだということは生物学の常識だ。マイノリティグループは大抵日の目を見ない。だが、あるときその選択肢を捨てなくてよかったと思うことがある。私のやっていることはその類のことなのではないか。

 弱者の負け惜しみと言われればその通りだが、しかし全滅を防ぐ役割を果たしているのだと思えば意味のある行動とも言える。残りの人生でこういう悪あがきを展開することは私の夢の一つである。

あのひとは今

 よくある企画にあの時活躍していたあの人は今というものがある、YouTubeでそういう画像を図らずも見てしまった。その多くは私が子供のころに活躍していた俳優の話なのだが、彼らの中には自分の年齢に近いころに亡くなっている人が多いことが分かった。自分の年齢を他人の享年と比べることが深刻な問題として認識されたということである。平たく言うと老いの焦りの発動である。

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 昔は漠然と自分は何歳くらいで死ぬのかもしれないと考えていた。根拠のない運命論である。しかし、勝手に考えた寿命を超えてまだ生きており、ありがたいことに意志もしっかりしている。非常に漠然とであるが、自分は余生を生きているのではないかと考えることが多かった。

 生物学的な見地によれば人間の自然界における平均寿命は38歳くらいだという。DNAの解析からその情報が読み取れるというのだ。それを人為的に引き延ばしている。この研究によれば、ホッキョククジラは268年もの寿命を持ち、絶滅したマンモスは約60年であったという。これより以前、動物のサイズが寿命と相関するという論を本川達男氏の著書で学んだことがある。この書によれば日本人サイズの生物の場合寿命はさらに小さく26歳あまりである。いずれにしても現生人類は生物的には非常に「不自然な」毎日を送っているということになる。

 最初の話に戻るが自分の年齢かそれ以下で有名人や知人が多く亡くなっていたとしても極めて「自然」なことなのだということになる。むしろ今自分が生きている方が奇跡というものなのだ。そう考えるとあまり気負うことはない。もはや余生なのだから、やりたいことをやるべきだし、若い世代のためにできることをするべきだと考えられる。私も今日死んだとしてももはや天寿は全うしつくしている。焦ることはないのだ。そう思い直すことにした。

機械とおしゃべりすれば

 機械とおしゃべりすることができるようになった。私がパソコンを使い始めた頃、munouというプログラムがあり、話しかけると返事するのを楽しんだ。ただ、ほとんど無意味な返事しか返ってこなかったのですぐに飽きた。

 会話するおもちゃとしてのファービーも似たようなものだった。見当外れのリアクションがあっても人間の方で勝手にかわいいと判断し、ペットのようにかわいがった。

 いま爆発的に普及しつつあるChatGPTも基本的にはそれと同じだ。ただ、膨大なデータベースから確率の高い組み合わせの情報を瞬時に自然な言語で提示してくるので不自然さはほとんどなくなっている。基本的には昔のプログラムとは変わらないので人間側が不自然だと感じる可能性が極めて低くなったということに過ぎない。

 その点を踏まえた上で、AIに問いかけるのは一定の意味がある。多くの人はこう思うはずだという多数意見を検索できれば様々な判断の材料になる。大いに使うべきだろう。何かに行き詰まったときに回答を求めれば真の解決策は得られないかもしれないが、ヒントにはなる。

メディアリテラシー

 改めてメディアリテラシーの重要性が問われる事態になっている。帰国しない議員を持つ少数政党はついに党是と関係する名前を捨て、アイドルグループをもじった名前に変えた。あらゆる方面に不親切であり、不誠実だ。

 この政党は分かりやすい目的を提示して集票しながら、結局はそれが目的ではなかったということだ。刹那的な話題で注目を集めるだけですべてが自らの利益のための活動だ。国会議員なのに国民には関心がなく、政党なのに政策より立場保全を優先する。どう見てもおかしい。

 この怪しさは大抵の国民ならば気づくはずなのに、なぜ議席を与えてしまうのだろう。それは既成政党への不満というだけでは済まない。この政党は公共放送制度への批判から始まり、それを女性の政治参加にすり替えつつある。この方法はいわゆる独裁政権の成立過程にも似ている。

 大切なのは相手を見抜く洞察力なのだろう。政治家となるとそれが全体の利益に関わる。芸能界のマイナータレントの動向とはそこが異なる。彼らが批判した放送というメディアや、逆に利用したソーシャルメディアというものの扱い方をもう一度考える必要がある。表現は自由だが、それを誠実なものか売名なのかは各自が判断しなくてはならないのだから。

なるべく黙る

 来年度の教室での目標はなるべく黙ることである。教えずに教える方法を完成したい。

 私の勤務校は模試などの成績の結果に拘る悪しき習慣から抜け出せずにいる。その結果、教え過ぎ自主性が育たない。言われたことはやるがそれ以上にはならない。日本の大学入試がこの言われたことを無批判にやることしか求めないから、これでなんとかなってしまう。結果にコミットするというならば正解に思えるが、私としてはかなり不安だ。将来淘汰されるエリートを輩出していないかと。

 大切なのは自ら学ぶ力だろう。これには人さまざまのやり方がある。それを一つの方法に括るのは間違っている。例えばたくさん宿題を出せば教員は安心だ。やれば成果がでる可能性があるからだ。しかし、無理矢理やらされた生徒はこれを短期記憶で片付ける。だから何も残らない。

 自分で考え、それを他の生徒に説明する機会を意図的に作るのが私の仕事になる。自分の言葉で説明することが真の知識獲得の方法なのだ。

 わたし自身は大学生までは教員の話をひたすら覚えることが学習だと思いこんできた。試験にもその通りのものが出るからだ。しかし、多くの学習内容はテストが終わると忘れてしまう。目的がテストで得点することでそれ以上でもそれ以下でもなかったからだろう。

 真の知識を形成するのは効率が悪い。時間も手間もかかる。でもそれがこれからの教員の役割だ。手間のかかる方法を考え、それに付き合うことだ。時間はかかるし結果が出るのには長期的展望がいる。でもやってみようと考えている。そのためには教え過ぎないことだ。

期待感

 期待感を抱きやすいのがこの季節である。年度の変り目と言うのが大きいが、花開き水温むという自然の移ろいも関係している。

 根拠のない思いだと言われればそれまでだが、人は気持ちで動くものであって、やはりそういう感覚は大切なのだ。私たちには考えたことをどこがで実現させようとする深層心理があるのかもしれない。

 ならば自他に期待感をもたせるのは世のためにも自分のためにもなる。冬は終わった。素晴らしい春になる。これだけでもいい。そのように思い、発言することでほんの少し何かを変えることができる。

 

親指

 スマホが登場するまでは親指が記述に活用されるとは思わなかった。右利きの私がこのブログの大半を左の親指で書いている。

 日本人はスマホの入力を人差し指で行なう人が多いという。パントマイムでスマホの演技をするならば、大げさに人差し指をスワイプする動作になるだろう。

 それでも簡単な入力は親指で済ます人が多い。片手で操作するにはこの指しか使えないからだ。私も右手は電車の吊り革の取っ手を握っているので、左親指しか使えないという事情がある。

 思えばこれは人類の発達史上かなり特異な出来事であるのかもしれない。身体にどのような影響が及んでいるのか興味がある。