投稿者: Mitsuhiro

どこから始めるのか

 同じような日常の繰り返しでも見方を変えればまったく違った印象になる。どこから始めるのかほ大きな問題の一つだ。

 成長期に何かを始めれば大抵のことは成功し、小さな傷も気にならない。その後に訪れる収穫を待つだけでいい。ところが衰退期に加わったなら、全く違う展開になる。大抵のことは、失敗し、それが破滅の道のように感じるものだ。これはどうしようならない。流れというものだ。

 どこから始めるのかほ自分では選べない。たまたまドアを開くとすでに芝居は始まっている。そこで展開するのが喜劇なのか悲劇なのかは分からない。

 考え方を変えるほかあるまい。衰退ほ長くは続かないかもしれない。流れが変わる可能性もある。万一、このまま下がり続けても、下り道ならではのおもしろい風景もあるはずだ。

 どこから始めるのかは選べないが、それをどのように受け取るのかは自分次第なのかもしれない。

見た目レトロ

 松本零士作品の代表作、銀河鉄道999は蒸気機関車のような姿をしながら、実は驚くべき高性能という設定である。宇宙戦艦ヤマトは発進時に最新兵器としての姿を現すが、銀河鉄道の方は、宇宙空間でも煙を吐きながら進む。これには過去の風景を未来に描くというロマンが表現されている。

 この感性は尊重されていい。最新の機能を持ちながら実は最新鋭というスタイルには憧れる。例えば、昭和世代では懐かしいサニーや2000GTの形なのに実は電気自動車だったり燃料電池対応だったりする車があれば魅力的だろう。最新型なのになぜか窓ガラスはハンドルで回して開けるというのもいい。誰か造ってくれないだろうか。

 人間もそうでありたい。見た目はくたびれた老人であっても実は最先端の技能を持っている。感性も新鮮だ。しかもそれを奢ることなく、謙虚な行き方をしている。そういう人は憧れである。見た目はレトロ、実は最新型というものに憧れる。また、そういうタイプの人になりたい。

感じ取るもの

 とても残念ではあるが、歳を重ねると感受性の感度が落ちる。これは自己防衛の方法として獲得してきたものだ。いちいち細かいことに感じ入ってしまうと先に進めない。その結果不利益になることもある。世の中そういうものという割り切りが、日常を過ごすためには必要である。

 ただ、これも度を過ぎると新しい事態に対応できなくなる。過去の事例と結びつけて分類に落とし込むと、新芽の存在を見逃してしまう。これが老年の問題点だ。見逃すことが続くと結局過去の世界で生きることになる。現実は毎日変わるのでだんだん追いつけなくなる。

 これを防ぐにはどうすればいいだろう。今起きていることや、若い世代の考え方に触れる機会を意図的に作るしかあるまい。かといって若者の輪に加わることは難しい。世代を超えたサークルのようなものに加入している人はそれができるかもしれないが多くの場合は不可能だ。

 ならばせめて若い世代の支持を集めている文化現象に触れてみるのがいい。音楽やファッションの世界にも興味を持とう。漫画や小説も少しは読むといい。おそらくその多くは性に合わないはずだがそれでも日常とは異なる体験ができる。それが感性の老化を緩やかにするのなら、それもいいではないか。

 実はこの話、若者に対して行う先輩の価値観を知ろうというメッセージの裏返しとして考えた。

自動運転車待望

 高齢者が起こす自動車事故が増えている。若い世代には分からないかもしれないが運動神経の衰えは自覚しにくい。だから、いつまでも大丈夫だと思って運転すると思わぬ事故を引き起こす。

 こういう事故の後、必ずどうして高齢者なのに運転するのか分からないという批判が出る。しかし、多くの場合わがままとか自己本位などではなく、運転しなくてはならない事情があるのだ。

 高齢者が運転しなくてもいい社会を作るのがこの国の一番の目標だ。例えばコミュニティバスや相乗りできるタクシーなどは実現しやすい。法整備を急ぐべきだ。テクノロジーの発達も期待したい。完全自動運転の自動車はいつになったらできるのだろう。

 自動車事故が過去の記憶の中だけになるような社会を実現するのはそれほど遠い未来ではないだろう。超高齢社会でかつ複雑な国土をもつこの国が自動運転システムを開発することで世界に希望を与えよう。目的を持てば実現は可能になる。

高温予想

 週間天気予報によると、3月7日(火)以降は最高気温が20℃近くの日が続き、最低気温も10℃を超える日がありそうだという。この時期としてはかなり気温が高く、桜の開花が早まる可能性もあるという。暖かくなるのはよいのだが、季節には段取りがあり、それなりの意味があるはずだ。春が駆け足になることを手放しでは喜べない。

 日本気象協会の予報では東京のソメイヨシノの開花は3月18日ということだ。とても4月まで花は持たない。少し前、温暖化の影響で桜は3月に咲くようになるということが科学ニュース扱いで取り上げられ、まさかそんなことはあるまいという感想を持ったものだが、すでに現実になっている。近隣の桜祭りが花期に間に合いそうもないため中止するというニュースがあった。祭りなら残念で済むが、生活に関するものになると静観できない。

 まずは体調を崩さないようにすることが私の課題だ。ここ数年春先に弱い。気をつけなくては。

教え合い

 コロナの影響で遠慮していた授業の方法に話し合いやいわゆるペアワークがある。これは、実は効果的な方法なので封じ手が解禁されることはとても嬉しい。

 私たちが何かを学ぶとき、最終的な目標は自分の言葉で表現できることだ。それを実現するためには結局は学んだことを他人に説明することが一番であると考える。教員が知識を伝達することは効率がよさそうに見えて実は中長期的には効果が出ないことがある。大量の知識を暗記して吐き出すことはすでに機械が行う分野であり、いま必要なのは自分の知識とすることだ。これは古典教育でも同じである。単なる知識の短期的な保管の作業はあまり意味がない。

 教え合いを授業の中で実践するにはどうすればいいのだろう。自由にやってくれでは質的な保証ができない。かといって教員がすべてのグループに入ることも無理だろう。ならば、生徒同士での学び方、教え方に工夫をするしかあるまい。

 例えば短い古文(日本の古典文学)を学ぶとき、グループごとに何文かを割り当てて教員の代わりに授業してもらうのはどうだろう。必ず二つのグループに指名し、そのうちのどちらかに発表させ、どちらかにコメンテーター役をしてもらう。そして生徒の説明が一通り終わったら、必要事項や訂正事項があれば教員が補足する。この方法では読解はあまり進まないが、そもそも全文を細かく訳す必要はない。授業でできなかったところはプリントか何かで配布すればいいことだ。

 発表するにあたってグループ内で教え合いは自然に生まれるはずだ。苦手な生徒はそこで方法を学ぶし、特異な生徒は人に教えることでより知識が確定する。こういう方法をとると面白いかもしれない。いずれにしてもこれは教員にかなりの覚悟がいる。自分が教えた方がはるかに早く効率的に授業が進められるのに、生徒の作業を見守らなくてはならないからだ。

 ただこの方が身になる知識になることは確かだろう。すべての授業で行うことは無理でも、大半の授業をこの形態にしてみようと考えている。私は見守り役だ。そして、やがて自分より優秀な学習者に育つのを発見することになるはずだ。

脱マスク間近

 13日からマスク着用は個人の判断となる。多くの企業ではこの方針に従うと発表しているが、接客を中心とするサービス業では従業員のマスク着用を続けると公表している。

 私の場合はコロナウイルス以上に花粉の飛散が問題なのでしばらくマスク生活は続けることになる。恐らく多くの方々はマスク生活を止めることになるだろう。すでにコロナはインフルエンザと同等の病気と認識されている。

 マスク生活が終わると何が起きるだろう。一時的な感染者増加は起きるはずだ。しかし、かつての脅威はない。むしろ人々の活動が活発になることによる様々な変化の方が気になる。再び喧騒の世界に我々は復帰できるのだろうか。

 学んだことがあるとすればソーシャルディスタンスをとっても社会は維持できるということだ。人口減少の未来を少しだけ予見できた。人的資源が失われても社会をどのように運用するのかを知ることができた。だから、決して慌てる必要はない。

 むしろこの自由になった空間で私たちは日常を楽しむべきだ。そしてダウンサイジングする社会をどう切り盛りするのか考えるべきだ。マスクを外したらまずはこの国の将来を考えよう。自分ためにも家族のためにも。

伝わらない思い

 何でも簡単に「配信」できると錯覚してしまう環境にある。言った言わなかったがトラブルのもとになってきたのはかつてからだが、いまはメールか何かで送った送らなかった、読んだ読めなかったの問題になることがある。結局同じことなのだろう。

 リアルタイムで同じ場所でやり取りしていても誤解は生じる。近年はコミュニケーション能力、とりわけ受信力に劣る人が増えている。かくいう私もその一人だ。相手の立場を察する洞察力や、自分の言動が将来どのように伝達されていくのかを予測する力も欠けている人がいる。高度な教育を受けた人にも多くいるから、恐らくいまの社会に欠けている何かがあるのだろう。

 情報技術は飛躍的に進歩したが、それに人間の方がまったく追いついていない。それどころか、人間らしい意味や価値観の分野を放棄して、すべてを人工知能に委ねようとしている。

 残念ながら、私たちには伝わらないことが多数あるという現実を知るべきだ。そして、人間性とはどのようなものかを自覚するべきなのだ。そのためにも古典文学に接し、小説や詩をもっと読むべきなのだ。その意味でもいまの国語教育の方向性には大きな疑問を感じる。

卒業の季節

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 街を歩いていたら卒業証書を持って歩いている生徒に何人か出会った。最近はいわゆる筒に入れるのではなく、二つ折りのケースに収納される形になっている学校が多い。今日出会った何人かの高校生もその形式だった。まだあどけなさの残る彼らは、4月から新しい生活を始めるのだろう。中には別の地で暮らすことを決めている人もいるかもしれない。

 私は都立高校から都内の大学に進学したので、それほどの変化はなかった。大学も比較的近くにあったので卒業の時の緊張感もあまりなかった。というより、その時点では進学先が決まっておらず何とも中途半端な気持ちであった。式の翌日に進学先が決まった。運よく合格した男子は数少なく、ほとんどの同級生が浪人をすると言っていたので、あまりはしゃぐこともできなかった。

 大学に入るまでの数週間はかなり不安定だった。今から考えるとどう考えても怪しい英会話学校の勧誘に引っ掛かりもう少しで契約しそうになった。結局、度胸のなさがこの時は奏功して詐欺から逃れた。宗教の勧誘にもひっかかりそうになった。これもいい加減な性格のためうやむやにできた。何がしたいのか分からず、迷走したのが卒業後の数週間だったと記憶している。

 いまでは人に生き方を語るような偉そうなこともするが、自分自身がかなり不安定な18歳であったことを思い出す。何もごともなく過ごしたことは奇跡というしかない。万一、この文章を読む高校卒業生か、その知り合いがいらっしゃったら、よく考えるようにしてほしい、もしくはそう伝えてほしい。大人の世界は思ったより狡猾で、そして面白い。だから気を付けて楽しんでほしい。本当は今日すれ違った高校生諸君にもそう言いたかったが言えなかった。言ったとしても不審者と見られるだけだっただろうが。

人形

雛人形の写真

 新暦の3月3日はまだ寒い。今日は寒の戻りともいえるような寒さであり、特にその感が強い。旧暦の3月3日は今年の場合は4月22日にあたり、春の印象は随分違う。もともとは古代中国の行事である上巳に端を発し、日本で独自の発展をした3月3日の行事は今ではひな祭りとされている。人形の祭りである。

 この人形はもともと罪や穢れをそれに移して自分の身代わりとなり日常から追放されるものであった。流しびなの習慣は現在でも鳥取県などで見られるようだ。この日の行事ではないが、紙など作った人形に息を吹きかけたり、体をこすったりしたものを川に流すという行事は各地にみられる。かつては川は異界につながる道であったようだ。

 人形はかわいく愛らしいものであるとともに、どこか恐ろし気な話もあるのはこの罪穢れの請負役という側面があるからだろう。雛人形を行事後すぐに片づけようとするのも、この禊や祓の伝統がどこかで影響しているはずだ。

 罪や穢れがあたかも誇りのように体に付着し、なおかつそれを簡単に拭い去ることができると考えていた価値観は非常に楽天的なものであるが、つねに身を清めようとする考え方は現代人にも参考になるものであろう。人形には負いきれないさまざまな日常の罪や穢れを私たちはどうすればいいのだろう。雛人形の端正な面持ちが逆に私たちに問いかけてくるような気がしている。