投稿者: Mitsuhiro

ゴミの片づけ

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 今回のFIFAワールドカップでも日本人観客の清掃ボランティアが話題になり、賞賛されているという。この話は各種の国際大会があるたびにでるから、一種の伝統となりつつある。このこと自体は世界に誇るべきことなのかもしれない。

 一方、国家としての廃棄物の量という点において日本はかなり問題がある。狭い国土に多くの人口を抱える日本ではごみ処理問題は重大だが、償却か埋め立て、そして聞くところによれば海外業者へ委託して不法投棄をしているとも聞く。これは世界に恥じるべき行為だ。

 最近はコンビニのレジ袋を受け取るのをやめたり、簡易な包装で済ませようとする動きがある。その点では少しずつ意識は高まっているようだ。ただ、大量に出続けるプラスティックのリサイクルがあまり進んでいないことや、食品の投棄など知られたくない問題がいくつもある。

 ごみを片づける公共精神のある日本人故いつかは皆の福祉に役立つ方法を世界に広めてくれるだろう。そう期待するしかない。と言いながら、昨日はたくさんのペットボトルを買ってしまった。せめてリサイクルに出すことにしよう。

口舌の徒

 不透明な時代になったせいか、様々な言説が飛び交い、真偽の程も定かにならない。おまけにソーシャルメディアなどで気楽に言いたいことが言える状況にあっては珍奇な意見も少なくない。中には明らかに収益目的で動いている輩もある。その中でいかに正気を保てるだろうか。

 いわゆる口舌の徒はかつてなら相手にされなかったはずだ。ところが、気の利いたことさえ言えば認められ、中にはそれに従ってしまう人が出るのが現実だ。発言者も一時的な注目を集めることだけしか考えていないので責任感がほぼない。問い質すときっとこう答えるだろう。誰が私の発言が真実だなんて言いましたか。その時考えていたことにすぎませんよ、などと。

 無責任さはすぐに色々な人に伝染する。言ってみただけという言い訳は簡単に成り立つからだ。口に出したことは実現するか、せめてそうしたいと心底考えることが必要だ。自分はやりたくないのに、他者に強要したり、自分はやっているのに他人の行動に厳しかったりするのは尊敬できる態度ではない。

 ならば、聞き手の側の態度をいかにすべきなのか。まずはメディアリテラシーをしっかりとさせることだ。また二三の説で判断しないのも大事だ。目についた分かりやすい考えだけでそれが通説と誤らないことだと思う。

 複雑であればあるほどその判断も難しい。ただ間違っても自ら考えたということが大切なのだ。この過程を忘れると私たちは何者かに支配されてしまうはずだ。

 

治癒

 ホメオスタシスという言葉に慰められている。体調が悪いときはひたすら休むしかない。薬はあくまで補助的なもので、身体自体が健康を取り戻すために戦ってくれるのだ。

 風を引いたり、腹を壊したり、そういう病には何度も直面してきた。それでも数日後には回復が始まり、10日もすればほぼ元通りになる。これは身体がもつ平衡保持能力の為せる技である。

 生き物の仕組みとしての能力に驚かされる。いまはその進化の過程で獲得された能力を感謝しよう。

心に残るものとモノとして残るもの

 思い出を作りたいとき、それが最終的に物質的なモノとしてのこすか、無形のサービスなり出会いなり、いわゆるコトとして充実することを重視するか。そのあたりの価値観が変わってきているかもしれないという。どちらかを選べと言われたらあなたはどちらだろうか。

 もちろん両方とも充実していれば文句はない。ただ、どちらかといえば昭和世代の私にとってはモノ重視かもしれない。最初に土産を買うという発想は、モノとしての思い出を残したいということだし、やたらと写真を撮りまくるのは、デジタル化した今はいわゆるモノではないが、形を残そうという点において共通する発想である。

 もし、土産物はなく、写真撮影も禁止な場所があるとする。ただし、その場所に行くとサービスや雰囲気、接待などがすばらしく幸せになれるものとする。こういう場所はいかがだろう。最近の若い世代はモノにはこだわらない人も増えている。土産が大量生産されるものであり、限定品といっても似たようなものがたくさんある。それに実際の価値以上の金を払う必要はあるのかという発想があるらしい。もし、本当にものが欲しければネットで転売している。いつでも手に入る(かもしれない)という基本的な考えの構えができているからなのだ。

 彼らにとっては家に持って帰ればきっと色あせて見えるおみやげよりも、その場で味わえる体験の方に投資をしたいと思うのだろう。最近は私もその方に傾いてきている。土産物を分かち思い出を語る仲間が少なくなっているのも原因にあるかもしれない。同級生に先輩に後輩に上司になどと言い訳をいって買ってきた土産は受け取る人が少なくなっている可能性があるという仮説である。

 観光立国をめざすなら、この点を抑えておく必要があるだろう。そこにいなければできない体験を売りにすれば、安定的な集客が期待できるかもしれない。

冷え込み

 かなり冷え込んできている。久しぶりに眼鏡をかけて外出したところ、マスクから漏れた息でくもって使いものにならなかった。

 マスクの上を折るとか紙を挟むとかそういう工夫が必要なことを思い出した。これは何のときに言われたのか。もう思い出せない。

VAR

 ワールドカップの日本・スペイン戦はまさかの逆転勝利だった。逆転弾は目視ではゴールラインを割っているように見えたが、VARによって有効性が認められた。

 VARとはVideo Assistant Refereeの略で、様々なスポーツで採用されつつある。野球のホームランの判定は昔から行われていたが、サッカーの場合は移動する審判が判定する性格上、判定不可能な状況が起きやすくVARがその補助をするのは合理的といえる。

 ただ、審判が判定するというスポーツの根本を脅かす存在ではないかと思うと不安なところがある。曖昧なところも含めて審判の判定はなされるものであったはずだ。人間のスポーツがますます人間以外のスポーツに代わっているような気がしてならない。

 今回は日本の勝利にVARが貢献した。逆の立場になることもあるだろう。その時は機械が判定したことだから従おうという精神になるのだろうか。

ギアチェンジ

 今朝の天気は明らかに冬の様相だ。重い曇天に町が覆われている。マイナーの音楽が流れそうな雰囲気だ。季節がここで大きくギアチェンジしたことが感じられる。体調が思わしくない。倦怠感などはないが、多少気になる。今日は大人しく過ごして切り抜けよう。

気圧の関係

 気圧が急低下しているせいなのか。軽い頭痛に悩まされている。コロナ禍のあとはちょっとした熱にも神経質になりやすい。今のところ熱はなく、形容し難い不快感以外には症状はない。しばらくは無理をしないで過ごそう。いわゆる気象痛ならば少し待てばいい。焦りは禁物だ。

霜月尽

 今日で11月が終わる。行事が少なくやるべきことを地道にこなす月と考えていたが実際はそうたやすくはない。いつものように要領悪く、毎日を慌ただしく過ごしてしまった。

 比較的暖かい日が多かった。郊外の散歩にも何度か行った。いくつかの美術館を見学した。その都度感動し、これを明日に活かそうと考えた。いかせているのかは分からない。成果は速効か遅効かは後にならないと決められない。

 健康状態は維持できた。周囲にウイルス罹患者が少しずつ出ている。しかし、今のところ何とか切り抜けられているのは幸運というしかない。流行病はいつかは罹る。被害を最小限にすることを考えるべきだ。

 明日からは年末。やるべきことはさらに増える。状況対応型の自分に喝を入れなくてはなるまい。

木枯らし

 昼過ぎからかなり強い風が吹き始めた。雨も降り冬の訪れを予感するような天候になった。夜になっても風はやまず。むしろ強くなっている。紅葉した葉を吹き飛ばす北風になるのはまもなくだ。

 今朝は通勤の道にカラスがたくさんいて餌を求めてかなり緊迫した様子がうかがえた。鳥には天候の異変がわかるのだろうか。これから食べ物を確保するのが難しくなることを見越しているかのような動きだった。やはり野生を生き抜く動物には特殊な能力が備わっているらしい。

 私といえば特にこれといった対策もない。少々ののどの痛みを感じるのを気にしながらも結局はよく寝ることくらいしか思いつかない。野生の勘が働かない以上、愚直に生きるしかあるまい。