投稿者: Mitsuhiro

寒気の前の

 今日の予想最高気温は22℃、明日は20℃、そして12月1日は14℃とある。今日はまさに寒気の前の暖かさなのだ。

 天候が大きく変化するとき、何らかのサインが現れることがある。山が大きくはっきり見えるときは大抵その後大きく荒れる。これは北陸の山麓に住んでいたときに何度も経験した。気象学的に説明できるらしく、検索するといくらでも解説が載っている。

 北陸で思い出したが季節の変わり目には大きな雷が鳴った。大気が入れ替わるときの儀式のようなものと勝手に解釈していた。関東では殆どない雷雨ならぬ雷雪も懐かしい。

 まもなく寒い季節だ。手袋はどこにしまったのか。探しておこう。

間違った時短

 最近は時短の名のもと強制的に仕事を終わらせられる。それはいいことでもあるし悪影響も大きい。

 時間が来るとオフィスが閉まるのは当たり前という人もいる。しかしよく考えてほしい。それではアイデアは生まれない。与えられた仕事をこなすだけの仕事ならばそれでいい。でも、いま日本の企業の多くが求めているのはブレークスルーのはずだ。その可能性自ら摘み取っている。

 思考を時間で区切るのは大事だ。でも、もっと考えたいという人がいた場合、それを追い出すのはいかがなものか。数字上の生産性は向上しても、用意に他社他国に凌駕される仕事をしていていいのか。いまの日本の労働環境には極めて深刻な危惧を禁じえない。

値上がり続々

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 このところいろいろな物の値段が上がっている。資本主義経済の中では値上がりは避けられないが、その前提として収入も上がらなくてはならない。ところが、我が国の労働者の賃金は世界的にも特異なほど低迷している。入る金は少なく、出る金は多い。それがいいはずがない。

 日銀の目指していた2パーセントのインフレは奇しくも外圧によって達成されてしまった。むしろ今までの利下げは日本の経済を弱体化させるだけで効果は少なかった。大きな変化が起きなかった分、国民は安心してしまったが、成長やイノベーションの努力を怠ることとなり、国際的経済力が低下してしまっている。

 今後の厳しい時代の中で、日本の経済がかつての勢いを取り戻すのは極めて難しい。せめて、働いたものが損をすることがないようにするべきだ。非正規雇用という極めて巧妙な格差階級を作って経済を回してきたやり方が、もう機能しなくなっていることを考えなくてはならない。今後は大半の労働者が非正規雇用になる可能性があり、それでも混乱が起きないような社会の仕組みを作らなくてはならないだろう。

 まずはそのためにも労働者の賃金をあげることを考えなくてはならない。金を回すことで経済は活性化する。経営者はまずは人に投資をすべきだ。それができれば結果的に収益があがる。今後は人材確保も容易ではなくなる。優秀な人材を確保するためには人的投資を惜しむべきではない。

 国民も自分の価値を高めることを考えるべきだ。学歴を持つことだけがその方法ではない。それぞれの職の専門知識や経験を言語化し、説明できるようにするべきだ。実務面で優れている人にも高収入を保証すべきである。

 このような社会的な問題になると、日本の風土では横並びを重んじる。突出したことをすると周囲から非難されると考える。しかし、この問題に関しては先を進む人や企業が出てほしい。彼らが成功すれば後に続く存在が現れる。

秋の終わり

 今日も日中はかなり暖かった。上着一枚でコートはいらない。快適な一日だったと言える。でも、この快適さは長くは続かないらしい。

 師走に入ると気温が下がり、文字通りの冬になるという。息が白くなる季節だ。肌に差し込むような冷気、関東の場合はそれに乾燥も加わる。

 寒さのなかには懐かしい感覚もある。個人的には冬は嫌いではないが、それも限度がある。寒さの中の失敗は富山で嫌というほど積んできた。でもいい思い出もある。おそらくそのほうが多い。

 東京生活が長くなりすぎて冬の恐ろしさも楽しさも随分観念的になってしまった。光太郎の詩でも口づさんで冬に備えよう。楽しみでもあり、恐ろしくもある。

買い物かご

 幼いころ、買い物に行く人は自分の入れ物を持って行っていた。買い物かごと呼ばれた編み籠はいまのプラスチック製のレジ籠とはずいぶん趣が違った。スーパーのような何でもそろった店ではなく、いくつもの小売店を歩きながら買うスタイルだった。買い物かごは形を変えていまエコバッグと呼ばれている。

 昭和のスタイルでは籠に入れる商品は新聞紙などにくるんで入れることが多かった。肉や魚はさすがにビニール袋が使われたが、それも今より透明度の低いものだった。その他は新聞紙か紙製の袋であった。我が家ではその袋をごみ袋などに転用して使っていたことを思い出す。

 スーパーマーケットができて、レジ袋というビニール袋が普及するともう買い物かごを持ち歩くことがなくなった。手ぶらで買い物に行けるのは便利だ。専業主婦が少なくなって、職場の帰りに買い物をする機会も増えたこともあり、買い物かごはほぼ絶滅した。コンビニエンスストアができるようになると、自宅から袋を持っていくことはむしろおかしなこととなり、疑いの対象にすらなった。

 それが環境問題でレジ袋の削減が提唱されると、再び家庭から袋を持参する形が復活した。最初は従来のレジ袋を再利用していたが、使っていくうちに劣化して破れ始めると、少し強めのいわゆるエコバッグを使う人が増えてきた。折りたたむことができるので会社帰りにも使える。私もカバンにいつも一つは入れている。

 ところがこうしたバッグの多くは底にあたる部分の面積が小さく、弁当などを入れると地面に垂直に入らない。歩くうちに傾いてしまう。こぼれることもあって不快だ。そこで最近はもう少し大きく丈夫な袋を持参することが増えている。こうなるともう昭和の買い物かごに近づいている気がする。生活のスタイルはもしかしたら形を変えながら繰り返されていくのかもしれない。

自己暗示

 色々な本に書かれていたり、スポーツの選手やコーチが言う言葉に自己暗示の大切さがある。苦しいときこそ笑顔を作れ、作り笑いが本当の幸せをもたらすことがあるというのだ。

 最近はこれを精神論ではなく脳科学の観点から説明する人もいる。ポジティブな行動をすると脳が活性化し、上手くいくことが多いのだという。かつては歯を食いしばって頑張れと言っていた野球の監督が、いまは無理にでも笑えという。事実優勝するチームの多くはチームに明るい雰囲気がある。

 自己暗示とは自分を意図的に騙すことに他ならない。そしてどうも人間は騙されやすいらしい。自己暗示は効果的に使うべきだ。また教育おいてはほどよい自己暗示の方法を教えるべきなのだろう。

教える学習法

 よく言われていることを私なりに述べる。効率的な学習法の一つに教えるということがあるということだ。

 何かを学習したとき最終的に習得したと言えるためには、知識を言語化し、さらには再現できることであろう。何を学んだのかを説明できて、それを人に伝えることができればほぼ習得したと言えるはずだ。これができない段階は分かったつもりになっているか、知識のエッセンスが分かっていない。

 それを達成するのが人に教えることだ。教えるためには知識を整理し、母語に組み立て、分かりやすく話す過程がある。意味が分からなければ相手の反応からそれと分かる。

 家庭での学習において保護者があれこれ口出しすると年齢によっては反発される。そういうときは何を学んだのかを教えてもらう形で確認すれば本人のためになる。この際、聞く方は生徒役に徹することだ。知っていても分からない立場で接すればいい。

非現実的現実

 私たちが生きている世界は限りなく偶然の積み重ねでカオスなもののはずだ。同じことは二度と起きない。同じものには二度とめぐりあえない。それなのに、この現実を巧みに忘れる方法を知っている。

 二度とない現実をあたかも繰り返しのように考えることができるのは、一つの叡智である。尖っている詳細を削り落として、別のものを同じものとしてしまう。それを無意識で行えるのは進化の過程で獲得した生きるための戦略なのだろう。

 適度な鈍さは大事だ。あまりにも先鋭化すると不自由でたまらなくなる。いい加減は無責任ではなく、変化の多い毎日を生きるためのスキルなのだろう。

相づち

What’s up?

 一見意味のない相づちがある。うんとかああとか、そうだねとか。私はそういうのが苦手で随分相手を不快にすることがある。

 What’s up? もその類という。疑問の形を取っているが答えなくてもよく、鸚鵡返しに言うことも許される。もっとも軽い安否の確認の方法で、存在を意識させることだけで事足りるらしい。やあとかよっとか、そんなものに近いという。

 意味がないわけではない。人間関係の始まりを意識させるきっかけであり、自他を認めることの重要な役目だ。私がこれが苦手なのは、いまだに適度な人間関係における距離感が掴めていないからだろう。

 相づちは適当な量がある。やたらと打てばいいというわけでもない。多すぎるとかえって無理に聞いているような雰囲気を相手に与えてしまうそうだ。確かに聞きたくない話を遮るための相づちはある。もういいです。分かりましたと言わんばかりに首を振るのも同じ効果がある。

 相づちは重要なコミュニケーションの手段であるのにも関わらず、誰かに教えられるということはない。経験の中で適度な方法と量を獲得していく。リアルな人間関係を築く機会が減った世代はどのように相づちを覚えるのだろう。まさか安易にいいね! と言って、大きな誤解を生み出してはいないだろうか。

勝ちましたか

勝てました

 ワールドカップでサッカー日本代表がドイツに勝利したという。ほとんど攻め込まれていた中でわずかなチャンスをものにしたらしい。今回はあまり関心が持てないままでいるので朝になって知った。

 それを教えてくれた同僚はサッカーにまったく興味がない。それなのに教えてくれたのは夜中、近所の人がやたらと騒いでいたからという。その歓声は明らかに勝利を表していたと言うのだ。

 今回の大会はカタールという特殊な場所であることや、ドイツのブンレスリーグに所属する日本選手が多いことなどいろいろな好条件が重なったのだろう。選手諸君には賛辞を送りたい。それにしても中継を見て大騒ぎすることは少々迷惑だが、世界が回復しつつある一つの現象として喜ぶべきなのだろう。