同窓会の知らせが来るたびに迷うが、仕事と重なることが大半で参加できていない。その前に過去の友人と会う覚悟ができていないというのもある。
懐かしい人たちと再会するのは心開ける経験となるだろうが、同時に自らの変化を痛感することにも繋がる。時の変化を痛感するのはかなり大きな痛手にもなりうる。ようやく維持している日常を壊すことにもなる。
先日誘われた同窓会は休めない仕事と丸かぶりであったので、大義名分がある。何もないときに誘われたらどうしようか。少し迷っている。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
下手くそな詩を書いている。最近一向に詩が書けない。創作をするためには時間と余裕が必要だ。時間はあればいいというものではなく、精神の解放ができる時間の塊が必要なのだ。
それが今はない。空いた時間はぼうっとして浪費してしまう。恐らく問題はフィジカルな局面にある。体力的な余裕がないと心を飛ばすことができない。
言い訳と言われれば反論はできない。逆境の中で創作を続けた文人たちに敬意を禁じえない。
猫背にならないようにというのは若い世代にとっては美容の問題だろう。私の年齢になるとより切実な問題となる。説明は難しいが年寄りには見られたくないという見えの要素が大きい。
猫背になる原因の一つにうつむきがちに歩く癖がある。これは文化的要因があるのかもしれない。猫背を防ぐためには正面遠くに視線を保つ必要がある。そのためには歩き方の見直しが必要だ。重心を靴の真中に置く意識がいる。実際はそれでは歩けないだろうが、視線を前方遠くに置くことさえ意識していればよい。座ったときも椅子に深く腰掛け顎を引くという心掛けがいる。
スマートフォンの使いすぎも影響がある。前かがみになりやすい。人類の進化を表すシルエットに、猿人から直立歩行する姿がよく描かれるが、続きとしてスマホを持つ前かがみの姿を描く戯画には説得力がある。
直立を維持するには重い頭部を支える筋力も必要だ。首や背筋などは衰えやすいから、日頃から鍛えておく必要がある。いまできることはこれが最優先事項だろう。動画サイトにはいくらでもこの回答がある。
おしゃれをするつもりはないが老人扱いは嫌だ。その意味では大いに足掻きたい。
ハロウィンの夜、渋谷を通る電車に乗った。去年までは大勢の化け物たちが乗り合わせたが、今夜はほとんど見かけない。渋谷区長の呼び掛けは奏功したようだ。

アメリカでは仮装するのは本来子どもであり、大人が憂さ晴らしの乱痴気騒ぎをする行事ではないようだ。日本ではなぜかそれが大人の行事となり、渋谷のハチ公前交差点がその「聖地」となってしまった。さらに飲酒酩酊して暴徒化寸前にまでなった年もあった。間違った文化摂取が隣国にも伝わり、大事故を引き起こしている。
渋谷区長の呼び掛けは、大勢に従う日本人の性格には効果を得たことになる。結果としてそれでも渋谷に集まる者は社会的規範の意識が薄い者とみなされ、非難の対象となった。化け物退治は成功したという訳だ。
ハロウィンには祖霊へのまつりと収穫感謝の要素があるという。この方面に関しては注目していい。秋彼岸や名月鑑賞など、伝統的行事との関連も考え、大人の行事として作り直すことも必要だ。
小学生の頃、親の転勤に伴ってよく転居した。4つの小学校に通ったことになる。幼さ故に転居に伴うプレッシャーはさほどなかったが、その都度変わる環境に適応するために多くの精神力を費やした。
子どもの持っている排他性とか、非社会性とかは転校生には深刻な局面をもたらす。いじめられることもあれば無視されることもある。私の場合、東京と福岡を行き来したので、方言の問題もあった。
ただ、新しい話題を持っていることが注目され、交友のきっかけになることも多かったようで、転居後数ヶ月は緊張の日々、その後は友人に恵まれるという繰り返しがあった。
教員の存在も大きかった。特に博多弁がおぼつかなかったときに陰から支えてくださった先生には感謝している。もちろんその反対に、扱いが不適切であった教員もいた。自分がその立場になって、その対応がおかしいと気づいただけなのだが。
その後も転宅を繰り返している。子どものときのような大きな衝撃はないが、そのたびに何かが大きく変わっている気がする。
高校時代の思い出の一つにあんバタがある。校門からほど近いパン屋で売っていた。百円以下だったと思う。店で焼いたコッペパンにバターを塗り、その上に小倉餡を挟んだよくある何の変哲もないものだ。バターとなのっていたが、マーガリンだった可能性も高い。
やたらと甘くカロリーが高いもので、食べごたえがあった。高校生の頃は部活帰りにこの店によることにしていた。制服のない高校だったので店を一色に染めることがなかったことだけは幸いだった。これを頬張ることを目標にしてあまり楽しくなかった部活を切り抜けた。高校生にとってはそれで十分だった。
コンビニで似たようなものが売っているが、味がまるで違う。冷静に考えれば今のものの方が遥かに美味い。でも、思い出のバイアスを入れたなら、高校横のパン屋に勝る味はない。あの頃のことはなかなか思い出せなくなっているが、あんバタのことは忘れられないでいる。

あのとき別の選択肢を取っていたらとはよく思う妄想である。別の選択をすれば関連して更にいろいろなことが変わり、結果として全く別の状況になる。いまとは違う自分がいるはずだ。
こういう考え方をしているとき、無意識のうちに並行世界を考えていることになる。量子力学理論ではないが世界はいくらでも分岐すると漠然と考えている。
学問的な裏付けの有無にかかわらず、この考え方は実は妄想のようなものだ。一人の人生では一通りの経験ができず、それを俯瞰的に捉えることはできない。どんなに並行していても見えなければ存在しないことと変わらない。
それでもこの妄想をすることは楽しい。それは人生を少しでも豊かにしたいという思いによるものだろう。ただ、生きられるのはやはり今の人生しかない。
いつもお世話になっている赤帽の運転手の方とお話をする機会があった。世間話を早々に切り上げて彼からはインボイス制度への不安と不満が漏れてきた。どうもこの制度はベテラン運転手の皆さんにはかなり具合の悪い制度らしい。
インボイス制度はこれまで課税の対象になっていなかった一定額以下の売り上げ所得の業者に対してあった課税の特例を廃止する方向に向かわせるための制度らしい。所得税の申告の必要のなかった小規模企業、個人経営者などにも課税の記録を求めるものである。下請け的な発注がなされていた場合、所得に関する税金は結果として大企業が肩代わりしていたことになるが、これが許されなくなった。個人経営者にとっては複雑な税務管理を強いられることになる。
知り合いの赤帽運転手によれば、税金の計算などを管理するアプリケーションソフトなどがあるようだが、これについていけないらしい。高齢のドライバーはこれが原因で廃業することを決めたという。その方はこれまで税率が変化してもいつも計算しやすいピッタリ価格で通してきた。そのために実入りは減ってきていたが、今回はどうするか分からない。もしかしたら、外税価格にしなくてはいけないかもしれない。でも、それは自分の主義に合わないからもしかしたらもう止めるかもしれないなどとおっしゃっていた。
この制度は運用に関しては様々な問題点が指摘されている。まじめで良心的な労働者の気概をそぐようなことだけはしてほしくはない。
十三夜も過ぎて今夜の月は冴えざえと輝いている。木星を従者として落ち着き払っているのだ。時折りかかる薄雲を虹色に彩るのを見ると、秋も終盤だと痛感する。