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 雨の日曜となりました。少し乾燥していた空気を潤す恵みの雨と考えています。

 コロナウィルスのニュースが次第に過激化してきています。中国での死者が急速に増加したことに加え、その対策に不安があること。さらには日本でも死者が出てしまったことなどが不安を掻き立てているのです。

この病だけで死に至るのではないことはほぼ明らかになっています。ただ、他の疾病と併発したり、高齢者などの体力低下がある人は注意が必要ということです。

 東京ではすでにマスクが手に入らなくなっていますが、実際に電車に乗るとマスクなしの人もたくさんいます。マスクは予防効果よりも拡散防止の意味があるのだとか。動画サイトには手作りマスクの作り方が公開されています。私もそろそろ作ってみようかと考えています。

 雨はウイルス騒動を少しだけ忘れさせてくれます。その意味でも恵みです。

国別対抗

 オリンピックが国別対抗になっていることには歴史があります。古代オリンピックの時代は休戦期間でもあったといいます。ただ、少なくとも先進国にとってはもう国という縛りは要らないのではないでしょうか。

 選手が国のために戦うのは確かに大きなモチベーションです。巨額の支援を受けている選手にとってはいわばスポンサーでもある訳ですから、不可欠であるともいえます。それを踏まえた上で、やはり国家別の競技は減らしてもいいのではないか。少なくとも表彰式で個人競技なのに国歌で表彰することは止めてもいいのではないかないでしょうか。

 団体競技は複数国籍の選手がいてもいいのではないかとも考えています。スポーツの祭典であるオリンピックが変われば他の大会にも大きな影響を与えることができる。国ではなく人が競い、応援する大会にいつの日かなってほしいのです。

マスクを着けて

 僅かな喉の痛みを覚えてマスクを着けることにしました。インフルエンザなどの予防の意味もありますが、喉の保湿の方が目的です。

 中国で新型の肺炎をもたらすコロナウイルスが発見され、日本にもすでに入っているとの報道があります。いわゆるパンデミックをもたらすような感染力はないとのことです。グローバル時代では水際作戦はほぼ無意味です。最新の情報を手に入れ、対処するしかありません。

 マスクが万能ではないのはよく知られています。気休め程度という人もいます。ただ、少しでも日常生活に穴をあけないように、無駄な抵抗をやってみたいと考えています。

共同体という考え方は誰が教えるのか

 世界的な社会分断が進行している中で、日本の社会も中流意識は急激に減少しつつあります。自分さえよければそれでいいという考え方に行きつくこの流れは非常に危険なものです。人間が社会的な生き物であるという考え方を誰がどのように若い世代に伝えていくのか。大きな問題です。

 私たちはこの存在に関して過大評価をしてきたのかもしれません。確かに個人の努力は重要であり、それがなければ何も始まりません。しかし、個人の業績は必ずしも自己の利益を増大するためのものではありません。共同体の福祉に何らかの好影響を与えるものでなくては意味がないはずです。自分の成功にはその周囲にいる人々のさまざまな支援や利害関係が影響を与えています。自分だけがうまくやったというのは思い上がりにすぎません。その成功を形成した社会システムがあるからこそ達成できたもののはずなのです。

 成功者はそのシステムがよりよいものになるよう、また自分以外の存在にも利益がもたらされるよう考える必要があります。自らの共同体が衰退してしまえば自分の成功の価値も目減りすることになり結果的に不幸になるのです。こうした考え方を私たちは常に持っていなくてはならないはずなのですが、そして横溢する情報社会の中で容易に得られる叡智のはずなのですが、つい忘れてしまうのです。

 我が国を衰退傾向に向かわせているのは少子高齢化などの不可避な情勢が要因ではありますが、それよりもむしろ共同体を皆で支えていこうという考え方の欠如がそうさせているのかもしれません。国のために働くという考え方は極端な全体主義として戦後日本が避けてきました。しかし、共同体意識の欠如がもたらす悲劇はそれ以上です。仲間を大切にすること、先に進んだものが振り返って周囲を助けることというのが今後の社会では特に大切になるであろうことをどのように意識し、伝えるのか。それが大きな課題になっています。

カジノ反対

 IR誘致に関して贈収賄があったことでカジノ誘致に対する関心が再燃しています。私はカジノの設置には反対します。

 カジノが国と自治体の主導で始められようとしているのには、多額の安定した税収の確保が見込まれるからです。造ってしまえばどんどん金が転がり込んてくるわけですから、人口減少や高齢化で苦しくなっている財政を改善する方策として効率がよいのです。統合型のリゾートと言ってもカジノの収入以外はあまり期待されていません。

 我が国はカジノの設置を認めなかったために、ギャンブルは極めて限定的なのものになりました。競馬や競輪などのスポーツや、パチンコなどのゲームなどは公認されており、税収も期待できますが、その他の地下に潜った賭け事はあくまて闇から闇に消えていきます。それをカジノ施設が管理統括すれば飛躍的な税収が期待できます。

 ただ、すでにカジノをもっている国々からの報告をみると、どこにも必ず一定数のギャンブル依存症が存在し、それが犯行にも繋がっているといいます。それが分かっていながらカジノを造ることの不誠実を考えるべきではないでしょうか。

 税収を得るための方策は別の方法で考えましょう。一度できてしまうと安易な道に深入りしてしまう。カジノ設置には反対します。

働かざる者食うべからず

 働かざる者食うべからずというのは勤労の意味を考えさせる諺の一つです。生産こそが生存の大前提であり、労働なしの人生はありえないという訳です。

 ところが、この古諺の意味が変容しつつある。今後の社会を予測する人々の中には働かなくても生きてはいける状況を理想とし、実現可能であるという学者が多数現れているのです。AIなどのイノベーションにより、生産の効率性が高まると人が働かなくても富は蓄積される。これを広く分配することで多くの人々の生活は保証されるという訳です。

 人々は生きるために最低限やらなくてはならない勤労からは解放される。そうだとしたらそこで生まれた時間を何に使えばよいのか。より高度な知識の追求や芸術的な活動に向えばよいのですが、私利私欲、権力独占などの方面にいかないとも限らない。そういう社会をどのように運営するべきなのかを考えていかなくてはならないでしょう。

 おそらく私の人生の中では起きない事態だとは思います。ただ、考えておくことは必須のことがらです。

色のイメージ

 国旗に使われる色にはそれぞれ込められた意味があるといいます。フランスやイタリアなどのように色彩に託されている意味が深いものはそれを知ると強い説得力を示します。

 ただ色彩が惹起する印象が民族によって異なるのも確かです。欧米の一部の民族では緑に嫉妬心を読み取るのだそうです。この感覚は私にはありません。見ているものが同じでも感じることは異なるという事実はいつも意識していなくてはなりません。

 色の分節についても共通していると思いこんではいけないようです。日本の古代では青の指す範囲はいまより広いようですし、虹が何色かという国際比較にも興味深い結果が出ています。通時的にも共時的にも色彩の区分は様々です。細かいことを言えば色覚の個人差も考える必要があります。同じ世界を見ているというのは幻想なのかもしれません。

 色分けは日本語では分類そのものを表す言葉でもあります。その色分けが極めて個人的な判断によるものである事を再認識しておきたいのです。

長く続けるために

 かつては55歳が定年だった時代があります。それが60になり65になり、やがては70歳もしくは定年制度そのものがなくなるかもしれないとのこと。私たちはまだ走り続けなくてはなりません。

 定年延長とはつまり扶養家族にならないということです。社会保障の対象にならずに自立しなくてはなりません。それなりの収入が必要になります。高齢者が企業にどの程度貢献できるのか。あるいは若い世代への影響を考えるとキャリアの後半は低賃金になることも覚悟しなければならない。そういう考え方に早く適応しなくては立ち行かなくなりそうです。

 こうした事態においては自分のポジションを確保しておくこと、時代の流れに敏感であることなどいくつものクリアしなくてはならない条件があります。その中でも最も重要なのは健康でいることなのでしょう。長く走り続ける選手であるためには乗り越えなくてはならないハードルがたくさんあります。今回は義務表現を何回使ったことか。こうした状況を好機と考えることにしたいと思います。

善意の連鎖

 私の通勤で使う道には自主的にゴミ拾いをする方がいます。最近2人目の方に出会いました。

 道端に落ちているゴミをトングを使って拾い集めているご高齢の女性がいました。持参のビニール袋には結構な量のゴミが集められていました。さり気なく作業をするその方の様子にはちょっとした感動を覚えました。

数日前から別の男性がゴミ拾いをなさっている姿をお見かけするようになりました。もし善意の行動が広まったとしたのなら、すばらしいことです。ボランティア活動は現代の日本に必要です。これが善意の連鎖ならばこの世の中も捨てたもんじゃない。

 他人のことを誉めるだけではなく、自分には何ができるのかを考えることが大事です。いかにして社会に貢献できるのか。身近なところから考える必要がありそうです。

付き合って考える時間を

 英語の4技能をいかに育成するかという議論が、大学共通テストの運営の問題でおかしな方向にそれつつあります。そしてそれ以前に母国語の4技能も怪しいのではないかという危惧も生まれています。

 PISAの試験結果によれば日本人の読解力の低下が懸念されるという結果が出たとのことです。国際比較試験はその測定方法に問題点も感じるので、その結果そのものが事実を反映しているのか否かについては慎重であるべきです。ただ、実感としても若年層のみならず、大人世代以降についても読解力の低下がもたらす弊害が随所で出てきている気がしてなりません。大きな原因は文章をしっかりと読む習慣が減りつつあることに相違ありません。

 日本の産業界の悪習として無駄な説明書を作りすぎるということがありました。その反省からいまは直観的に操作できる機械とか、説明なしに始めてしまう社会システムが優先されています。それはそれで素晴らしいことなのですが、個々人が説明を理解することなくなんとなく始めてしまうということが増えています。またその方法について話し合うとか教え合うということもあまりなされず、個々人の試行錯誤に任せるという風潮にあります。こうした中では文章を読んで理解したり、互いにコミュニケーションをして答えにたどり着くということが行われなくなります。自然と読解力、理解力の育成される場がなくなっていく状況にあります。そして、この方法を大人たちは子どもにもそのまま当てはめてしまっています。

 子どもたちの読解力低下をスマートフォンなどの情報機器のせいにするのは簡単ですが、それ以前に子どもにものを考えさせる機会を奪っている大人たちの責任も考えるべきではないでしょうか。情報さえ与えれば子どもはそれを勝手に理解できると勝手に考えている。そして、子どもの疑問に付き合い、ともに考え、答えのヒントを出していく過程を今の大人たちはほとんど放棄している。それが読解力とか話の内容を理解する力を身につける機会を奪っているのです。

 将来のこの国のあり方を真剣に考えるのならば、大人は子どもの置かれている学習環境にもっと関心を持つべきです。そして特にコミュニケーションの分野においては学校任せにせず、もちろんそれ以前に機械任せにせず、家族とか社会全体で将来の世界を担う人物を育てるという視点を持たなければならないでしょう。子どもたちに考えさせる時間・場所をそれぞれの立場で考えなくてはなりません。