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贈答禁止の余波

職場で贈答品授受の禁止が通達されました。関電の事件が影響したもので、企業側から自主的に送られたものについても断り、返品することが求められるようになりました。

 趣旨自体はよいことであり、遵守すべきだと感じています。贈答のためのコストを商品そのものに反映させた方がよいのに決まっているからです。

 ただ、少しだけ困ったことがあります。毎年楽しみにしていたきれいな写真のカレンダーやちょっと重いけれども十分に使える企業名入りの手帳などもまた禁止されてしまったことです。旅行会社のものはかなり使いやすいものでしたので残念です。

 カレンダーや手帳についてはいわゆるバレットジャーナルを始めたためにほとんど必要がなくなり、カレンダーは百均にいいものがあることを知りました。当面は問題なく過ごせそうです。ただなくなるとちょっとさびしくなる。これからこういう感情を持つことが増えそうです。

メンテナンス

 様々なテクノロジーが発展する状況の中で、改めてインフラとセキュリティの問題が気になります。

 駅に設置が進むホームドアは転落事故を防ぐための大切な装置であり、東京のような混雑が激しい地域では必須のものと考えます。ただ、多くが後付けのため、エネルギーを伝えるケーブル類が露出しており、経年劣化や人為的損傷を受けやすい状況にあります。装置のメンテナンスも継続していかなくてはなりません。

 他にもさまざまなテクノロジーが普及する中で持続可能性がより一層注意されなくてはならないと感じられることが多数あります。道路や橋脚の劣化が大きな事故に繋がった事例は国内外に多数あります。今度は新たなインフラがやがてまきおこすかもしれない災禍の可能性を常に考えておかなくてはならないでしょう。

 便利なものを使い続けるのにはそれなりの努力が欠かせないのです。

愛国心もしくは愛国民心

 所得格差が広まる中で改めて必要になってくるのが愛国心だと考えます。正しく言えば愛国民心とでもいうべきものかもしれません。

 所得格差は国民の中に分断をもたらし、幸福感を下げ治安維持にも関係を及ぼします。資本主義社会の中で所得に差がつくのは必然ですが、それが大きく、かつ固定化すればもはや民主主義が維持できなくなるはずです。崩壊の前兆を感じる前に手をうたなくてはなりません。

 富裕層にこれ以上の課税をすると資産の国外移動が起きるから、広く薄く課税した方がよいという意見があります。一理ありますが、納税能力に差があることを知りながら、平等に課税するというのは実は平等ではないことは明らかです。

 たとえばあり得ないことですが、私が巨万の富を得たとして、累進税の最大限度の課税をされたならば、やはりいい気にはならないでしょう。自分で稼いだ金なのにと思うかもしれません。ただそこで考え方を変える必要があります。その富の出所が他者であるということを知らなくてはならないのです。

 財産が自分の才覚だけで得られたものという錯覚は誰にもおきます。それを抑えるのはやはり広い意味での教育の力なのではないでしょうか。自分たちが暮らす国の仕組みを理解し、その中で生かされている事実を知るべきなのです。学校のみならず、社会全体が健全な愛国心を持っていることが資本主義社会の条件だと考えます。

減らして増やす

 労働時間の短縮に関しては行政の指導もあるため、強制的に進められています。ただ、単純に仕事量を減らすのでは全体的な利益が減ってしまう。それでは現状維持ができなくなるのが問題です。

 私たちが目標にするのは決して現状維持ではありません。むしろ発展の方法を模索し続けなくてはならない。エントロピーの法則に抗うためには常に生産の方法を考えなくてはなりません。短時間で効率をあげるためには、仕事の内容を厳選するか、働き手の技能を上げるか、もしくは機械の補助を活用するかでしょう。おそらく、そのすべてをやらなければ達成できない。

 とりあえずは退勤時刻の30分後にすべての業務を終えることを目標にします。私の仕事の場合、これはかなり困難ですが少なくとも自ら制御できる項目については強制終了の時間を考えていきます。

 働くことに生きがいを感じる人にとってはこのやり方はかなりの苦痛も伴います。しかし、パラダイムシフトがなされなくては時代に対応できません。

投資

 昨今のソフトバンクの活動を見ていると、投資会社の存在感が今後ますます注目されることが予感されます。ソフトバンクは通信分野の会社としては後発であり、シェアも小さく、決して満足度も高くはありません。にもかかわらず世間の耳目を集め、存在感を日ごとに高めているのは孫氏を中心とする徹底的な投資実績にあります。

 これからの時代は働かされるものと働かす者、そして働かす者に出資して分け前をもらう者になるという話を読んだことがあります。投資家はあくどいという先入観を捨て社会の現実を知るべきだと。そんな言説に触れたのは一度や二度ではありません。

 投資は新興企業の応援につながり、イノベーションを支援するというのも事実でしょう。私も非常に少額ですが、クラウドファンドに関わったことがあります。子どもの小遣い程度ですが。

 ただ、投資が単なる金儲けの手段と考えられたとき、労働の意味が変質してしまいます。まずは生業を持ち誰かのために働くことが基本になければならない。投資家に求めたいのは働く人の応援者であるという立場を忘れてほしくないことです。

みんなで作る

 個人の幸福が尊重され過ぎた代償として私たちは公共の福祉についての価値を下げてしまいました。社会が縮小化するいま、改めて共同体の幸福を考え直す必要があります。

 個々人が幸福を追求することは現代社会の常識であり、条件でもあります。個人の幸福が保証されているからこそ、私たちは安心でき、明日を生きる活力が得られます。ただ、さまざまな閉塞感が漂う昨今の情勢においては、個人の利益追求だけでは立ちゆかなくなっていることも事実です。一人ではできない段階に入っています。

 誰かが成功してもそのために多数が不幸になるという悲しい現実も情報化社会にあってはすぐに顕在化します。それが環境問題など地球規模で影響を与えるものとなると一層深刻です。誰か一人が幸せになるということが難しいのです。

 このような現況にあって必要なのは人間が集団の生物であるという再認識です。一人では生きられない人間は幸福の基準を個ではなく集団に置くべきなのです。そしてその集団が成り立つためにはより大きな環境が保全されなくてはならない。そうした基本に立ち帰ることが不可欠なのでしょう。

 人のために何かをする尊さを先人は語り続けてきました。この話はそれを別の表現で述べているのに過ぎません。まずは自分の近くにいる人を幸福にするために何ができるのかを考えていくべきなのです。未来はみんなで作るものなのです。

カボチャたちの素顔

 ハロウィーンは日本ではその意味も理解されることなく、商業利用や個人的な遊興として受容されています。ただその奥には切なる願いがあるのかもしれません。

 仮装を行う年中行事は京都の節分お化けが知られています。地域では悪鬼の厄を逃れるために敢えて普段とは異なる姿になると伝えているようです。祭の時に晴れの衣装を着用し日常とは異なる振る舞いをするのも広く考えれば一種の仮装行事といえます。異装には厄除けの意味があるといえます。

 現代人にとってはさらに意味があるように感じます。いわゆる変身願望の代償行為です。自由平等の建前の現代社会の内実には格差と分断が進行しています。越えられない何かが巧妙に姿を隠しながら確かに私たちに影響を与えている。それに抵抗するのが外見上の意図的変更なのではないでしょうか。

 もちろんハレの日は常に祭とともに去ってしまう。翌日には厳然たるケの日の秩序が現れます。その中を生きぬくためのささやかな抵抗が仮装という形で表現されるのです。この仮説が正しいならばおどけたカボチャたちの内側には切実な思いがあることになります。

相次ぐ閉店

近隣に大型ショッピングモールがまもなく開業します。人口の割には買い物が不便な地域であったのが一挙に解消される予定です。一方でこのことろある種の店舗の相次ぐ閉店という現象が起きています。

 閉店しているのはコンビニエンスストア、ガソリンスタンド、ビデオレンタル店、それにデパートなどです。ここ数か月の間に急になくなってしまいました。この先に閉店することを告知している店もあります。その中には次のオーナーが決まって別店舗として再開することが決まっている所もありますが、放置されていたり、取り壊されて更地になったことろもあります。

 今後の経済を象徴するかのような縮小現象を目の当たりにすると、大型ショッピングモール開業に浮かれることができないのです。生活の細部を支えてくれた近所の店は消え、少し遠い大型資本の企業が総取りする。どこかで読んだような事態が身近で起きているのです。

 最終的にはあるもので間に合わせるしかありません。消えていくものを惜しむことはできても止めることは難しい。ただ、本当に必要なもの、いい仕事をしているものについては支援をしなければなりません。売っている商品がコモディティ化しても店の立地や雰囲気などは置換できないのです。

 本当に必要なものを必要な店から買うことが私たちにとっては最終的な利益につながることを考えなくてはなりません。