タグ: 生活

速度制限

 いつの間にか通信の量が増えてしまい、いわゆるギガ不足状態になっている。月末まであと数日なのでこれで持ちこたえることにした。メール以外の殆どが使えない。

 原因はクラウドへの写真のバックアップにモバイル通信の制限をかけていないことだった。これには設定で解決できる方法があることを知り、早速始めた。来月からはそういうことはないだろう。

かつてのモバイル機器に比べて通信にかかる容量は飛躍的に増えている。ネットは格安プランでいくなどの変更が必要なのかもしれない。画面より本を開けという天啓と考えることにしよう。

伝わらない思い

 コロナ禍を経て失ったことは数多い。痛切な悲しみもあった。諦めたこともあった。ただ得たこともある。その一つが人との関わり方の多様性を学べたことである。

 ディスダンシングという拘束を味わった私たちは、それでも思いを伝えるための方法を考えた。デジタルデバイスの活用はその代表だ。しかし、テクノロジーの力だけではない。マスクをしてもコミュニケーションができるように伝達の方法を工夫した。大げさなリアクションはその一つである。

 また、何をやっても伝わらないこともあるという事実を痛感した。それも大切な確認だった。自分の思いがすべて伝わるなどという幻覚を少しだけ排除することができた。

 私は4月からは特に求められない限りマスクをしないつもりだ。花粉症対策薬が効き続けることが前提だが。新年度はどんな年になるのだろう。コミュニケーションの限界を知った私はそれを乗り越えられそうな気がしている。

経験と感触

 物事の本質を見るためには直感が必要なのだろう。ひらめきと言ってもいい。それはまさに天から降ってくるような感覚だ。

 その直感はどのように培われるのだろうか。天賦のものという表現もある。しかし、これは先天的な要素だけではうまくいかない。経験と感触の記憶のようなものが影響していると言われている。

 天才と言われる人は何もせずに能力を発揮できると信じられている。ただ、その才を表出する前に基盤となった経験をしていることが多いようだ。一見結びつかないような出来事から才能を開花する養分を得る。自分でも意識しないうちに準備ができているということになる。その組み合わせが起きる可能性が低いため、天才は希少なのだ。

 天才にならないまでも、私たちは一見結びつかないが経験やそこから得られた感触が知的活動の基盤になっていることに気づかなくてはなるまい。役に立つことだけをやろうとする昨今の風潮はその意味でかなり危険だ。シンギュラリティを恐れている人間が進んで機械の思考システムに近づこうとしている。

外套置く

 まだ肌寒い日が続いているが、今朝は思い切ってコートを着けずに出勤した。通勤電車の車内ではコートなしは少数であるが私にとってはこの方が快適だ。

 このところ桜のことに気が向くが早くも散り始めた株もある。その後を追う花々も今年は早そうだ。汗ばむ日が来るのも間近だろう。

 花粉症予防のため今日もマスク生活だ。いままでより口元が暑く感じられる。もう少しの辛抱だ。

Someone to watch over you

 川崎駅周辺に100以上の監視カメラが設置されるのだという。川崎市長は全国で最も安心できる街にすると記者の取材に対して述べたらしい。川崎は現在訪れるとかなり整然としているが、かつては犯罪も多く発生していたので危ない街という印象がある。おそらくそういう先入観を払拭したいという考えもあるだろう。

 川崎に限らず設置者の公私を問わないならばすでに多くの監視カメラが設置されている。警視庁が設置するカメラは分かりやすいが、そのほかにも駅の改札付近のカメラやコンビニエンスストアのカメラ、個々人が防犯のために玄関から外を写しているカメラなどがある。さらにこれは盲点かもしれないがいわゆるドライブレコーダーは移動しながら街の様子を記録し続けている。

 すでに現代社会は監視されている社会なのである。いまのところはそれを統合することは難しいかもしれないが、やろうと思えばできてしまうテクノロジーはそろっている。犯罪が起きないようにするため、起きてもすぐに犯人を特定するためにはこうした技術は有益だろう。ただいつも誰かに監視されているということを忘れてはならない。世間の目がゆるさないという日本人が伝統的に持ってきた価値観はすでに形而上学的なものではないということなのだ。

 エラ・フィッツジェラルドの名曲 Someone to watch over meのようなロマンティックな状況とは少々違う。

花散らし

 昨日からやや強い雨が降り続いている。早くも花散らしの雨ということになろう。通勤電車の車窓に流れる小学校前の桜並木も春休みの間に散ってしまいそうだ。今日は気温も下がる。穏やかにあってほしい。

 

4月から

Photo by Karolina Grabowska on Pexels.com

 私の職場では4月からマスクの着用義務がなくなった。ようやく自由に仕事ができると思いきや意外にも当面つけ続けることを考えている人は多い。3年もマスクをつけ続けたための弊害もある。

 もちろん、いまだコロナウイルスの感染の恐れはなくなっておらず、一定の予防効果があることは捨てがたい。私にとっては花粉症の方がその何倍も恐怖である。今シーズンは飛散の量が多めらしく、周囲に症状が出ている人が多数いる。花粉症シーズンが終わってもまだマスク着用を続けるのかがこの話題の問題点になるのだろう。

 マスクの着脱が個人の判断であるかどうかを私は問題にしたいのである。パンデミックの前から季節に関わらずマスクをしている人はいた。それには体質的な問題もあれば、精神面での要因もある。何から自分の身を守るのかは疫学だけでは語れないのだ。それを認めることがこれからも大切なのだ。

 危惧するのはいわゆる「マスク警察」を自任する人が勘違いを起こさないことだろう。自分とは異なる少数派をあたかも犯罪者のごとく排斥する行為は、残念ながらこのパンデミックが露呈してしまった。今度は脱マスクに関して行き過ぎた行動をすることはないだろうか。

 同調性が極めて強い私たちの国民性は新しい局面に移行するとき様々な問題を引き起こす。慎重さが奏功することもあるが、対応が遅れたり、少数派を傷つけたりする負の局面も多い。個々人が判断することの大切さを現在の状況は求めているのだ。

春の雨

 十八九の頃、郵便配達のアルバイトをしたことがある。もっと割のいい仕事はあったのだがなぜか肉体労働がしたかったのである。

 業務は郵便番号ごとに郵便物を仕分ける仕事と、ポストにはいった郵便物を収集すること、それに配達だった。

 仕分けの仕事は大まかなことは機械がやるが、集合住宅の部屋番号ごとの区分けなどは手作業で行われていた。バイトはその補助を行った。私が働いた郵便局は東京の中でも人口の多い地域だったのでこの仕事だけでも大変だった。職員(当時は郵政省の管轄だった)は私の何倍もの速度で仕分けしていたのたのを覚えている。悪筆で数字が読めなくても何号室と瞬時に教えてくれた。大体の住人の名前を覚えているかのようだった。

 ポストからの収集は結構プレッシャーがかかった。郵便車を交通量が多い路上に長くは停められないということで、運転する人とポストの鍵を開け、郵便物を取ってくる人とに仕事を分けられる。私のような学生は当然、取ってくる方の仕事が割り当てられる。いまのようなレターパックはなかったが、それでもかなり大量の郵便物が詰まっていることもあった。するとかなり重いのである。雨の日は特に大変で濡れないようにするのが一苦労だった。運転手の中には時間がかかると不機嫌になる人もいて謝ってばかりいた。理不尽な怒りをぶつけられたこともある。要領の悪さを嘲笑されることもあった。

 配達は自転車で集合住宅それも大型マンションの配達を託された。大抵は入り口に共同の郵便受けがあり、その中に郵便を入れていく仕事だった。かなりの家が氏名を表示しておらず、部屋番号だけが頼りだった。中にはほとんど受け取りがなされず、満杯になっているものもあって、無理矢理詰め込んだこともある。

 細かいことは忘れてしまったが、もらう給与の割には大変な仕事であった。家庭教師などすればその何倍もの金が短時間で手に入ったが、なぜかそれは好きではなかった。いま教員をしているというのに。

 自転車で配達をしていたとき、細かな雨が降ったことがあった。予報ではそれほど降るとはいっていなかったので雨具を借りることもなく出てしまった。郵便は蓋を締めて防水できたが自分は濡れる。焦りもあってペダルを漕ぐ力を強めると自然と汗が流れた。3月下旬の頃だった。

春の雨静かに落ちて郵便を配る男の汗に変はれる

 という短歌を作って当時入っていた短歌の会で披露したら、集まっていた年配の方々にとても褒められた。こういうことは何年経っても覚えている。それだけでこのバイトをした意味があったのかもしれない。

 この季節になると時々思い出す。いまはネット時代で郵便の量はその当時から比べるとかなり減ったはずだ。仕分けも機械読み取りの制度が高まって人力の範囲は減っているに違いない。今となっては自転車で配達など数日でも無理かもしれない。何もかも懐かしい。

つくし

 アスファルトに囲まれた中でわずかに残る露面に今年も土筆が育っているのを発見した。すでに伸びきって立派な形になっていた。

 この場所はもう何年も前から3月になると土筆が立ち、しばらくすると雑草に覆われ、気がついたときには草刈りされている。使い道もない空間なので放置され続けてきたのだろう。

 実はこの場所はこの後、道路が建設される予定になっている。周辺の家屋のいくつかが取り壊され、予定地である旨の看板が立ちだした。おそらくこの土筆の小景も近い将来見られなくなるはずだ。

12年目

 東日本大震災から12年が経過した。12年も経つとかなり記憶が曖昧になっている。それは経年の習いでもあるし、災禍を忘れ去ろうとする本能も関係している。でも忘れてはならないことである。

 いわゆる被災地ではない場所に住んでいる私にとってもこの震災は大きなものだった。ちなみに私が住む市内でもこの災害による死者は出ている。しかし、建造物の倒壊は軽微であり、ライフラインも何とか保たれた。福島第1原発の事故による放射能漏洩の恐れが連日報道され、過敏な人は国外に去った。しかし、多くの市民はなにもできず、出資を控えた企業の影響で、公共広告機構ACの啓蒙的なビデオが繰り返し流れたことを覚えている。

 地震発生の日は職場から帰れず、翌日からは途中駅までしか鉄道が動かなくなった。それでもパニックも起きず、食料の供給も途絶えなかった。私は当時からブログを毎日書いていたが、そのころの書いた記事を時々読み返している。焦りや怒り、そして根拠は薄いが希望を持つべきだというメッセージを書き連ねていた。

 12年経ってその後に起きた他地域での地震や、景気の悪化、政権交代、そして近年のパンデミックなどで震災の印象はかなり薄くなってしまった。しかし、南海トラフ地震の可能性は依然として高く、壊滅的な被害がでるとの予測もある。いざというときに何をすべきなのかをもう一度考えたい。

 震災から12年。もしあの時、自分が被災していたらと思うと複雑だ。その日の被害者が12年後に何をしている可能性があったのか。それを思うとその人の可能性が失われたことに大きな悲しみを感じる。そしてその代わりに生きているおのれのことをもう一度考えなくてはならないとつくづく思うのである。