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文化の日が夏日になる

 予報では今日の東京の最高気温は25℃となっている。本当ならまた夏日が加算されることになる。Microsoftのウィジェットが示す過去最高気温は去年の24℃である。ここ数年で記録を更新し続けているのなら、やはり温暖化が急速に進行しているのかもしれない。平均気温は19℃らしい。

 文化の日が夏日ならば夏とはいったい何だろう。もちろん最低気温の方を考えればやはり夏ではない。昼間は半そでが欲しく、夜は上着が欲しい。そういう日格差が大きな季節を秋と言えるのだろうか。人間が築き上げた豊かな文化が結果的に環境を大きく害しているとするならば、文化の在り方を考えなくてはなるまい。

 カルチャーは農耕に由来する言葉と聞く。自然なしには文化は起こりえない。

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昔書いた字

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 自分がかつて書いた字を読み返すと不思議に思うことがある。こんな字を書いていたのかと素直に驚く。それが子どものころの文字であれば普通だろう。子どもは手の大きさや筆記具を扱うための筋力が異なるだけではなく、字形に関する認識も違うから書いた字の印象が大きく変わって見えるのは当たり前だ。

 気になるのは大人になってからの字形の変化だ。ある時期には繊細な字体で書いていたのに、突然豪快もしくは乱暴になる。そういう繰り返しを何度も繰り返している。これは気分や環境の変化によるものに違いない。活字のような字を書くことを理想と考える時もあれば、自由闊達に書きたいときもある。ノートなどをみると、どうもその気分の波が私には大きく作用するようだ。この時はどんな気持ちだったのだろうか思い出すのもいい。

 デジタルでブログを書いているのはその意味では物足りないことになる。いつ書いても同じフォントで画面に現れるのは大切な感覚の何かを失わせているのかもしれない。

楽曲とともに

 谷村新司さんが逝去された。私より少し上の世代であるが、アリスとして活躍されていたときはリアルタイムで楽曲に親しんだ。そのころ始めたギターの練習曲にもアリスの曲が多かった。時代を彩る方がなくなると何かが大きく変わったような気になる。

 人の命は限りがあるからいつかお別れが来るのは知っている。自分だっていつこの世を去るのかは分からない。この後すぐかもしれないし、もうしばらく世にはばかるかもしれない。ミュージシャンの場合は少し違う。人生は短く芸術は長い。残した曲はいつまでも消えない。誰かが歌い継ぐ限り続く。個人的には「遠くで汽笛を聞きながら」の哀愁が好きだ。絶望しながらも生きていこうとする底力を感じる。あの時代の雰囲気には実にあっていた。

 最近の歌にもいいものがある。それを共通体験として持てているのだろうか。多様化の中で時代を代表する歌謡なり、事象というものが細分化されている。すると共通の体験は持てなくなるのでは危惧してしまうのだ。

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スポーツ界に学ぶこと

 最近日本チームや日本人選手の海外での活躍が多い。大谷翔平選手のホームラン王はその象徴的な例だが、ほかにもトップレベルで活躍する選手がたくさんいる。少し前のことを思い出すと、日本人は体格的に不利だとか、スタイルが悪いからだめだとか、様々な自虐的な自己卑下があったことを思い出す。それらはしょせん思い込みであったことになる。

 現在成功している分野では競技人口を増やしたり、将来を見据えた設備投資をしたりしたものが多い。幼少のころから少数のエリートを選抜して育成するというスタイルは日本ではとりにくい。裾野を広げることで可能性のある選手の現れるのを待つというのがこの国の在り方とみる。

 スポーツ以外でもこの方法はとらなくてはならないのではないか。科学者を育成するならば多くの科学好きを生み出すことが必要で、その中から図抜けた人材が出てくる。文学もそうだ。多くの人が創作体験をすることで達人が生まれる。かつての俳句がそうであったように、文芸のレベルを庶民にまで広げることは大事なことだ。そしてそれがこの国の底力であった。

 それなのに昨今は効率や生産性のことばかりいい、無駄な努力を嫌う傾向にある。本当に自分が好きなものを探させ、熱中させることこそ、この国のあるいは地域の未来を築くことにつながるはずなのだ。スポーツのように単純ではないが、でも世界を変えるためには決してエリート教育だけが必要なわけではない。

支えとなるもの

 何かに行き詰ったときに特定の神にすがるということを日本人はしない。一神教ではないからだ。それでは人間を超越した存在を信じていないのかといえばそれは違う。日本人は結構いろいろなものに神性を見出す。多神教かつ自然崇拝の日本型の信仰形態は世界的には珍しいのかもしれない。

 このような風土を培ってきた背景には過酷な自然条件がある。四季のはっきりした気候は恵みを多くもたらすが、反面災害も多く発生する。さらに地震や津波被害、火山活動など他の地域には少ない条件も加わり、常に崩壊の危機を感じて生きることに慣れている。現代のわれわれも東南海トラフ崩壊型の大地震の非常に高い確率を知っても冷静に日常生活を営んでいる。

 そういう風土に住むものとしては支えとなるものは一柱の神だけでは足りないのかもしれない。神もまた人間と同様に相互に関係を持ち合う多神教こそが複雑な現実の説明には適している。このような精神風土になったのは意味があったのだ。学生の頃にこのような内容の書籍をいくつか読んでそうかもしれないと思ったが、最近は実感として覚えるようになっている。

伝統文化

 伝統文化の多くは後継者不足に悩んでいる。高齢化も大きな要因だが、それ以上に文化継承の方法に問題があることが多い。

 どんなに価値あると評されるものでも、現在の私たちに何らかの価値を感じさせるものでなければ人生を傾けることはできない。それは実用性とか生産性などとは無縁でもいいが、他者を感動させられるか否かは大きな分かれ目になる。

 伝統文化を継承する人を育成するためにはこの感動経験が欠かせない。だから文化を守ることではなく、よく見せることの方が結果的に目標を達成することになる。そのためにも、多くの伝統文化に接する機会を儲けることが大切だ。

学者という生き方

 牧野富太郎の人生を調べると実に興味深い。日本植物学の父としての名声の裏にはさまざまなドラマがある。それは朝の連続テレビ小説で描かれるようなさわやかなものだけではなかった。

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 牧野は裕福な商家に生まれたため、経済的な問題は当初はなかった。ただ高知県の山間部では植物学を学ぶ環境がなく、かつ、一つの研究に専念できるような環境が地方にはなかったのが難点であった。彼はその難関を家族からの資金援助で切り抜けている。ただそのために家業が傾き、果てには廃業に追い込まれている。それでも植物学に熱中できたのは生まれながらの気質と研究への情熱の深さである。

 だから必ずしも周りの人物に幸福をもたらしていたとは言えない。むしろ周囲の献身、もしくは犠牲のもとに成り立っていたともいえる。そのような環境にあることを自ら受け入れ、研究を続けたのが牧野の才能といえる。一歩間違えば独りよがりな危険人物であった。

 学者という生き方にあこがれたことがある。学問に身を捧げ他を顧みないという生き方をした人に素晴らしい成果を残した人は多い。世事にとらわれず自らの知的好奇心の思うがままに研究を続けられることには羨望する。ただ、それは思うより易しいことではない。周囲ことを考えず熱中できることはもはやその人物の才能であり、それができない人は突き抜けることはできないということなのだろう。

 牧野富太郎だけではないが、優れた業績を残した人物の周囲にはそれを支える人たちの並々ならぬ努力が隠されている。

写経という学び

 中世の学僧が残した写経の展示を見てきた。写経が歴史の中では重要な修行となっており、多くの写経僧が存在したことは承知していたが、実際の文書を見るとその情念の深さが伝わってきた。

 写経のようにノートをとるなとはよく言われる。これは黒板の文字をただ写すだけでは学習効果は上がらないという意味だ。ただこれは本来の写経の意味を取り違えている。

 写経は経典をただ書き写す行為ではなさそうだ。写しながら学びとるものがたくさんあったのだ。写経を通して仏教の教えを体得するのだ。その意味で写経は決して受動的な行為ではない。

 現代でも写経に心の安定とか鎮静を意図して行うことがあるという。決して単なる書き写しではないなにかを感じているのだ。

夢の存在を崩した事件

 いろいろな意味でアイドルが注目されている。漫画の「推しの子」ではアイドルという虚構の存在が内側から描かれている。アイドルは人間がつくり出した理想形を現実に演じる存在である。そういう人がいたらいいと思うが本当はいない。そういう存在を演じることがアイドルの条件になる。

 昭和のアイドルにもさまざまな伝説や醜聞はあった。制作側がつくり出すイメージにいかに自分を当てはめるのかがアイドルになる条件だった。それに耐えきれず挫折する人や、そのイメージから脱するためにほかの方面に進む人も多数いた。また、手の届かない存在としてのアイドルとは別の、身近にいそうなイメージを演出するタイプの人もいた。これは現在でもその流れをくむタレントが多数いる。ただ彼らもまた現実にいそうでいない理想形のタイプの一つであるのには変わりない。

 現在ニュースを毎日騒がしているジャニーズ事務所の問題はもっとも知られてはならないアイドルの裏側を暴露してしまったことで大問題である。これまでの噂話のレベルの醜聞とは桁が違う。しかも当事者が物故した後にようやく露見するということは、多くの人が見て見ぬふりをしていたということになる。その意味では非常に構造的な大問題だ。

 アイドルという存在に夢を見ることができなくなる時代は大変残念なものだ。でも、過剰な期待を人間に求めるのは間違いなのかもしれない。そういう一種の絶望感を今回の事件は浮上させてしまった。私たちは何に自分の夢を求めていくべきなのだろうか。

スーツにスニーカー

 業界の人ならすぐに見破られてしまう格好というものがある。いわゆるスーツを着ているのになぜか運動靴を履いていたらかなりの確率でそれは学校の先生だ。特に中学校か高校の教師が怪しい。我々はよく自嘲気味にこの話をする。

 着せ替えパズルに失敗したかのような格好をするのは訳がある。教員という仕事はよき整容を説きながらもやることが多く忙しい。その中には荷物を運んだり走ったりすることも含まれる。だからスーツのような服を着ることと、スニーカーで走り回ることの両方の要求を満たすためにこの滑稽な姿が出来上がるのだ。もちろんもう一つファッションの呪縛がかかりすぎていない人物であるということも加わる。

 私もその業界人なので例えば合宿や試合の引率でこのスタイルをとったことがしばしばある。何度かの反省の上、黒いスニーカーやウオーキングシューズと呼ばれている靴は比較的チグハグさが目立ちにくいとわかり、私の持っている運動靴はみな黒い。

良く考えてみればこのヘンテコな組み合わせは教員としての仕事着のようなものであり、別に卑下するものではない。かつては上着を脱ぐことさえ失礼とされ、夏でもネクタイを外さなかった。時代とともにドレスコードも変わる。だから一流企業の会社員が高級なスーツをきて足元は原色のスニーカーという姿もいつか許されるときが来るかもしれない。だとすればティーチャーズコーディネートは最先端ファッションということになる。