カテゴリー: エッセイ

関東でも積雪予報

 いわゆる南岸低気圧の通過によって関東でも積雪が予報されている。5日の昼過ぎからが積雪の条件が揃うらしい。関東南部は積雪についてはいわば極限地域で、ちょっとした条件で雨にも雪にもなる。一度積雪が始まると備えの少ない地域ゆえ様々な問題が発生する。

 まずは靴を気をつけるべきだ。関東南部の人々の履く靴はアスファルトの上を歩くことに特化しているために、靴底には溝が少なく雪上を歩くのには適していない。格好は悪いかもしれないが、雪の降る日は長靴かグリップの効くスニーカーにすべきだろう。女性ならハイヒールは厳禁だ。トリプルアクセルが跳べるならば問題ないが。

 次には歩く姿勢に気をつけたい。重心が高いと転びやすくなる。膝関節をうまく使い、しっかりと踏みしめるように歩きたい。腰高は厳禁だ。転んで怪我をするより、少々不格好でも歩き続けられる方がよい。

 そんなことを考えながら天気予報を見てみた。雪の思い出は様々にある。それを少しずつ思い出してはいろいろな感情が噴出する。

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脳が見せるもの

 私たちは見たり聞いたりしたことを脳で認識している。普段は意識することはないが、何らかの事情で脳の機能が低減したときにそのことを感じる。

 慢性的に脳の機能は低下していく。これは人間の宿命というべきもので今さらどうしようもない。ただし、自分には無縁と誰もが思っている。あるときに急に気づくのだ。記憶の力が落ちたと。感性の低下で感動することが減ったことも。

 脳が見せるものが現実の世界だとしたら、人間の見る世界は脳の機能で規定されていることになる。私たちが見ているのは脳というフィルターを通して投影されたものなのだ。

 これは考えてみれば当たり前だ。感覚器の機能の中でしか物事は把握できないし、その中で様々な判断がなされる。このことは些かの寂しさも伴う。私たちは世界をそのまま見ているのではないのだ。人間の機能で捉えられるものだけを見ているのに過ぎない。

 こういうふうに考えていくと、私たちが考える真理とか正義といったものが、実は相対的なものであると気づかされる。人間とは違う認識能力を持った生物が見る世界は全く違うかもしれず、その中で生成されるルールやモラルは我々とは似ても似つかぬものなのだろう。

 脳が見せる世界は何なのか。それを考えていくべきなのだ。見ているものが全てではない。私たちは見られるものしか見ていないのだから。

蕎麦を食べるようになった

 蕎麦屋に行くとどちらかというとうどんを頼むほうが多かったのが、最近は大体蕎麦を食べるようになった。蕎麦の持つ独特の風味がこの歳になってよく感じ取れるようになったのである。駅の蕎麦屋に寄ってしまうこともある。

Photo by Eva Bronzini on Pexels.com

 私にとってはうどんはかなりしっかりと食べたいときに選択する。蕎麦は過度な満腹感を持ちたくないときに選んでいる。この感覚は科学的には間違っているようで、同量ならうどんのほうがカロリーや炭水化物、脂質が低いらしい。違うのはタンパク質が蕎麦のほうが多いことで、これが相対的には体にはいいといわれている。

 蕎麦を食べるのは私にとっては日常であり、あまり身体のためとかそのほかの目的を考えてはいない。歳とともに味覚が変わっていくという話はよく聞くがこれもその一つかもしれない。

寒波戻る

 昨日の日中は春の陽気を感じさせたが今朝はまた冬に逆戻りした。月曜には雪の可能性もあるという。体感温度は相対的なものだから、気温差の方が身体にこたえる。風邪もはやっているようで注意しなくてはならない。

半導体不足

 交通系ICカードのPASMOがカードの発行を抑制している。半導体不足が原因だという。

 半導体はかつて国産のシェアが高かったが、海外の安価な労働力による価格競争に敗れたため、多くの企業が撤退してしまった。その後の設備や研究開発の投資も遅れたため、技術的優位性も保証できなくなっている。

 こういうときに自給率という問題が出てくるように考えられる。その他の産業でもこの問題は考えた方がいい。自由競争に委ねるというのが日本の行政の立場だが、こういう横綱相撲を続けている限り負け続けるのは必定だ。国のレベルでのリーディングを期待したい。

 いざというときにどれだけ準備ができるのか。それが本当の国の力と言うものだろう。

一月尽

 今日で一月も終わる。元日の能登半島地震、2日の航空機事故と衝撃的な年明けになった。今年は何かがあることを先触れしていると考えている人は多いだろう。

 私事に限ればさしたる変化は今のところはない。むしろ、自分から変化を求めなくてはならないといつも考えている。いまのルーティンを崩すために何ができるのかを模索し、実現したい。

 とりあえずは労働時間の短縮と隙間時間での学習、もしくは趣味の活動を始めよう。やるべきことをやるだけだ。

すずめ続報

 この前すずめを見かけなくなったという記事を書いてから、ずっと気になっている。やはり、私の生活圏にはすずめがいなくなった。一度だけ10羽ほどの群れを見たときは実に嬉しい気持ちになった。

 恐らく私のようなアスファルトに囲まれた空間にお住まいでない方々には何のことか分からないだろう、確かにすずめに出会う機会が激減したのである。カラスやハトはいくらでもいる。ヒヨドリやムクドリもいるのになぜかすずめだけが消えてしまったのである。

 様々な環境要因を考えなくてはなるまい。いまは小さな鳥の問題だが、この延長に人間がある。何が原因なのかを明確にしてその対策を考えなくてはなるまい。

少し前のことを考えてみると

 少し前の世代のことを考えてみるといまの異常さに気づくのだ。何でも検索でき、世界に向けて発言しようと思えばできる。こんな事態は誰も予想しなかった。

 私の学生時代は壁のような蔵書の中から一語を見つけるのに数ヶ月を要し、自らの意見を公にするのに数多の関門があった。それが当たり前の時代に生きていた世代にとっては現代はなんとも野放図である。

 生き方にしても多様な価値観で生きられたはずなのに、今や細かな部分まで序列化され、あたかも共通の物差しがあるかのようである。コンピューターのスペックのように人生を計り、順位付けられることに疑問を感じない。これは明らかにおかしなことである。

 間違えてはいけないのはいまもまた変化の途中ということだろう。現代の基準もいつかは変わる。いま正しいと言われているのものが未来まで通用するという保証はない。時々の流れに叶ったものが評価されているのに過ぎない。

 少し前のことを考えることは少しあとのことを考えることでもある。些細な差を気にしすぎてはならない。

健康への配慮は功利的

 スマートフォンについているヘルスケアアプリの測定によると私は毎日10,000歩程度歩いていることになる。立っている時間も比較的多い。といってもきちんとしたスポーツをしているわけではないし、筋肉を使う仕事をしているわけでもない。腑抜けた身体でも少しずつ歩く生活をしているのである。健康に気を付けることも中途半端であり、スリムになりたいと思うよりも膝に負担をかけたくないとか、周りに迷惑をかけたくないといった程度だ。

Photo by Tirachard Kumtanom on Pexels.com

 ただ、最近更新した保険が健康への配慮の度合いを常時報告し、それを割引率として算定するものであるため、この考え方を変えなくてはならなくなっている。毎日の歩数や健康診断の結果などがそのまま割引ポイントに換算されるため、健康活動が金銭に結びつくことになったのである。健康診断の結果は悲惨なものだが、歩く量に関しては今のままの生活を続けていれば問題はない。問題は仕事をやめたり、変わったりしたときにこの生活が維持できるのかということである。

 なるべく歩くことを心がけていこう。歩くだけが目的ではなく、その道中で出会う風景とか人との出会いとかを大切にすれば自然に歩く量は増えるのだろう。もともと10年以上前にこのブログの前進を作ったときには散歩の記録を残すために作ったものだった。そのことを思い出してこのブログにもそういう記事を時々入れていくことにする。

動じなくなった

 歳を取ると些細なことには動揺しなくなる。正確には一々反応できなくなる。そして、何を言われてもすぐに流してしまう。これは利点であり欠点でもある。

 いろいろな失敗を繰り返しているうちに、失敗データベースのようなものができる。過去の経験に照らし合わせ、そのどれかの亜種のように扱う。個々の出来事に向き合っていないのは不誠実だが、そうして過剰な反応をすることを避けている。

 私の目指すことろは別にあると思えば日常の些事にはこだわらなくなる。最低限の勤めを果たせばそれでよい。面従腹背も一度やってしまえば心地よい。

 若い人には私のようにならないようにと言っておきたい。人様に迷惑をかけることは絶対にしないが、やりたいことを妥協しないためにかなり狡猾に立ち回っているのだから。

 私自身は年配の部類になっても遠慮するつもりはない。したたかにやりたいことをやるだけだ。歳を重ねてもこういう変人がいることにはご注意いただきたい。