カテゴリー: エッセイ

寄り添うこと

 寄り添うという表現は現代の人々には印象強く感じるらしく、随所に見られる。他者の考えや感情、立場を洞察してそこに身を置くことである。ただ、当然ながらその意味には幅がある。

 弱者に寄り添うというときには、強い哀感と同情する気持ちが伴うはずだ。しかし、これには階層性がある。自らと相手との距離が遠く、客観的観念的に寄り添うことができる場合もあれば、自分も似た境遇にあつて、痛切な情念を伴う場合もある。この一線上に正負のグラデーションがあるのだ。寄り添う気持ちの切実さは濃淡がある。

 最近使われる寄り添いの意味は淡色のものが多いように感じる。もちろん、こういう概念を使う時点で他者を意識した感情が表出しているのであり、有意義であると私は感じる。ただ、単に相手の状態を観察するだけの段階を寄り添うと言うのは少し違う気がしてしまう。

 日本でも少しずつ格差拡大が進み、分断化が水面下で進んでいる。他者に寄り添える能力はこれを止める力となるはずだ。この問題を取り上げる機会を増やす必要がある。

日本海寒帯気団収束帯の発生

 昨日から関ケ原付近で起きている名神高速道路の大雪による立ち往生は記録的な豪雪のため長期化しそうである。予測をはるかに超える積雪量になったため、予測的通行止めの措置が取れなかったのが痛恨事となった。

 このような豪雪による長時間の立ち往生の例としては2021年1月10日に福井県内の北陸自動車道で起きた事例を思い出す。そのときも1000台近い車両が雪に閉ざされ動けなくなった。今回は岐阜県内で発生しており、陸上自衛隊に支援要請が出されている。

 気象の専門家によれば日本海寒気団収束帯(JPCZ)がこうした豪雪の背景にあるのだという。これは朝鮮半島の北部にある山岳地帯で二分された季節風が日本海上で合流したときに雪雲を継続的に発生し、さらに寒気が南下している場合は豪雪をもたらすのだという。雪の供給源としては日本海から蒸発した水蒸気であるというが、これが温暖化の影響もあってここ数年は増加しているらしい。福井や岐阜はこのJPCZの下流部にあたり、豪雪のまともな影響を受けたということになる。

 こうした気象条件は今後も発生する可能性がある。豪雪が温暖化の影響であるというのは何とも皮肉である。北陸に住んでいたころ、地元の人から猛暑の翌年は豪雪になりやすいという言い伝えがあると聞いたが科学的な根拠があったのである。

 能登地方は震災からの復興が課題であるが、その前にこの豪雪をどうするのかが問題になる。まずは予報の精度を上げ、計画運休や通行止めなどの手段を取れるようなシステムを構築することや、この時期の流通の方法や備蓄の在り方、除雪方法の開発などを考えなくてはなるまい。高齢化社会の中で災害時の対応にも工夫がいる。防災テクノロジーの開発も急務であろう。

被災地で起きたことをどう報じるか

 能登の穴水で起きた被災者による自販機の破壊に関してさまざまな報道がなされた。混乱の中での報道ではあるが、看過できない問題点がある。災害時のメディアの報道の在り方について考えさせるものであった。

 避難場所になっていた穴水高校に設置されていた自販機が被災者によって破壊された。被災者たちは破壊行為をみて悲鳴を上げたがどうしようもできなかったと読売新聞が報じると、地元紙である北國新聞は緊急時のために取り出し、取り出した商品は避難者には配布されていたと報じた。

 読売新聞の初期報道は裏が取れていないまま報道してしまったことになる。それだけではなく、被災地において無道な窃盗事件が起きていたと報じることは日本人の矜持を傷つける大問題である。この点の配慮もなく、報じてしまったのは痛恨のミスだ。読売は記事の訂正を行わず自販機の設置会社が被害届を出したことを中心に報じた。初期の報道に間違いはなく、現に被害届が出されたと弁明しているかのようである。ところが、まだ続報がある。先日の報道によると設置会社は破壊を申告してきた人に対し、請求を行わないことを発表したという。被災者の心情を考え、賠償請求は行わないというのである。ただし被害届は器物の保障のために必要なので取り下げないということだ。

 被災地の「火事場泥棒」の報道はほかにもいろいろある。中には自衛隊の服装を偽装して倒壊した建物から金銭を盗み出しているなどといった報道があった。これらも本当に裏が取れているのだろうか。

 限界状況で人々がどのように行動するのかは誰にも分からないし、とても関心がある内容だ。そこに報道が焦点を絞るのは分かるが、事実無根の情報を流せば人心を乱す原因にもなるだろう。報道の責任を感じてほしいことである。

はからずも受け継いだもの

 認めたくはないのだが、自分の風貌が年老いた亡き父に似てきつつあることを自認せざるを得ない。残念だが確実にその方向に向かっている。

 父に対しては複雑な思いがある。苦労人で人当たりの良さで乗りきってきたキャリアであったようだ。子どもの視点で見れば泥酔して帰るだめな父親であったが、面倒見がよかったらしく、部下からの信頼は厚かったようだ。父のおおらかさに救われた人は多かったようである。

 私もその気はあるとは思うが、肝心なところで突き放してしまう冷たさを持っている。深く関わらないことが美徳と考えているのだ。これは相手を傷つけないが、代わりに何も残らない。

 父親は懸命に生きたあまり、無意識の残酷さもあった。自分の尺度でしか世の中を見ることができず、常に調和を重んじ、突出することを嫌った。だから、大きな損失がない代わりに現状打破のエネルギーがなかったのである。これは子どもの可能性を狭めるものだった。

 この方面の精神性はかなりの高い水準で受け継いだ。挑戦よりは現状維持を重視することは紛れもない事実だ。すべてを親のせいにするつもりはないが、環境も含めて遺伝した可能性は大きい。最近、これに気付いた私は結構破れかぶれの行動を厭わなくなっている。失敗する余裕ができたということなのだろう。

 父が亡くなってから、私はその思い出をなるべく封印しようとしてきた。思い出せば何かが壊れてしまうように感じていささか恐ろしかったのである。少し客観的になれるようになっているいま、何を受け継ぎ、何を捨て去るのかを考えられるようになってきた。

 

 

スズメがいなくなった

 いつの間にか変わってしまった風景がある。その一つにスズメがいなくなったことがある。私の住む東京の郊外には比較的街路樹や公園などがあり、都心部に比べれば野生動物も住みやすいと思う。にもかかわらず、かつてはどこにでもいたスズメに出会うことが少なくなってしまった。

スズメの写真

 公園などに訪れる野鳥は圧倒的にハトとカラスが多く、メジロ、ウグイス、シジュウカラなどを季節によっては見つけることができる。ハクセキレイは少ないが印象的であり、ヒヨドリやムクドリは群れて飛来すると圧倒的である。ところがかつては最も多かったスズメがほとんどいない。

 鳥に詳しい方の書籍やサイトによると、都市部のスズメの減少は大変顕著な現象のようだ。その原因として営巣場所が現在の建築物では確保しにくいこと、耕作地の減少で昆虫などの餌の確保が難しいこと、騒音や排気ガスなどの与えるストレスが繁殖力に影響を及ぼしていることなどが挙げられている。おそらく、そのいくつかの原因が相関しているのだろう。

 スズメは源氏物語に幼い紫の上が飼育しようとしていたエピソードが書かれているし、枕草子にも登場する。スズメを図案化した文様はいろいろある。文化に溶け込んできた動物である。子どものころ籠を伏せてスズメ獲りに挑戦した人は多いだろう。雛を拾って育てたこともある。そういう身近な動物が少しずついなくなっている。

週末はまた雨

 今週末も雨らしい。今朝は重い雲がたれこめて今にも降り出しそうな空である。気温も下降しており、場合によっては雪が交じるかもしれないとのこと。雨は困るが乾燥が和らぐのはよい。それだけで随分楽な感じがする。明日も雨の予報が出ている。

自動改札が人をモノにした

 駅の改札に駅員が並んでいたことを知る世代が少しずつ減っている。改札という言葉の持っていた重みも正比例の関係で軽くなりつある。便利だが大切なことを忘れつつある。

 先日、駅の自動改札機をうまく通れない人がいた。後ろから来る人がぶつかって来た。スマートフォンを見ながら歩いていたのだろう。ぶつけられた人は不愉快な顔をしたが、スマホ男は謝りもしない。改札をうまく通れなかった人が悪の元凶のような風をしている。

 自動改札は人間を通過する物体に変えた。そこに求められるのは支払いを無難に行うことだけである。その人の思いとか、考えとかそういったものはまったくいらない。便利さと引き換えに私たちは乗客から移動物体になったのだ。その居心地の悪さは物体らしく振る舞えなかった他者に対して起きる。ここに私は強い違和感を覚えるのだ。

 こうした利便性と人間性の引き換え現象は随所にある。普段は気にならないがあるときにわかに不快な感情に襲われるのだ。

手持ちの道具で

 旅行者の視点というものをこれまで何度も考えてきた。日常生活の風景は次第に新鮮味がなくなり、それを語る意欲を失わせる。それが旅人の視点になると、同じものが感動の原点になることもある。

 文学でも絵画でも音楽でも、異邦人が切り拓いた作品は数多い。非日常の風景に感動することが作品を生み出す原動力になるからだ。私はこの旅人の視点こそが文化を動かしてきたと考える。

 異国にたどり着いた創作者が持っているのは、自分が使い古した表現のための道具である。それが言葉なのか画法なのか、はたして音階なのかは表現手段によって異なるだろう。でもいずれにしても手持ちの道具で表現するしかない。その対象を表現するのに最適な方法はまだわからない。ただ描くしかないのだ。

 自分の知っているやり方で、いままで扱ったこともないものを描くのは難しい。だが、それでも表現したいという気分が勝れば新しい表現が生まれる芽が出るのだ。持っている道具は同じなのに、その使い方に革命が起きる。

 この意味において旅することには効用が大きいと言える。本当に身体をどこかに移動する旅でも、精神的に非日常の空間に身をおくのでもよい。旅することには大切だと考えるのである。

ボロボロになるまで参考書を使い倒す

 はるか昔のことになるが、受験生のころはこれさえやればなんとかなるという根拠不明の言い伝えがあった。英語の場合はいわゆる「出る単」(試験に出る英単語)をやればいい、国語は『新釈現代文』と『古文研究法』、世界史・日本史は山川出版社の一連の参考書をとにかく初めから終わりまで解きとおすこと、できれば二回以上やるといいなどと言われていた。私はそれを妄信して学習をしていた。時代は変わり、別の書籍に置き換えられたかもしれないが、基本的にこの考え方はいまでもある程度支持されているようだ。

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 参考書を一つに絞り、それを繰り返し読むことは今考えても合理的であり効果的と考える。評判のいい参考書や問題集を複数買っても、結局途中で放棄してしまうのなら意味はない。ある程度評価されているものを見つけてそれを徹底的に習得した方が成功する可能性が高いのである。受験勉強のような決められた範囲内での知識を問う学習にとって大切なのは定着させることであり、網羅的にあれこれ手を出すより、これと決めたものを繰り返した方がいいのだ。

 受験生のときはとにかくそういうものだと思い込もうとしてしていた。どれだけ参考書を手択本にするかが成功のカギと信じていた。今のように情報がすぐに取り出せ、さまざまなメディアを通して学習できる時代はかえって迷ってしまう。参考書にしてもいろいろなレビューを見ているうちに迷いが出て学習に踏み出せない。ただ、私たちの頭はデジタルのデータベースとはやはり異なるインプットする情報量をただ増やすだけではなく、何かに絞って繰り返す。割り切ったぶんだけ集中するという方法が大事なのだ。

 受験生のときはできたのに、いつの間にかこの基本を忘れていた。最近、このことを思い出しやはりボロボロになるまで参考書・問題集を使い倒すことを目標にするようになった。受験勉強の大半には問題が内在していると感じるが、こうした基本的な方法は見直さなくてはならない。