気温差が激しい朝は霞に覆われている。車窓からいつもなら見える少し遠くの丘の上の屋根の色が分からなくなっている。昨日の暖かさで空中に浮遊した水蒸気が慌てて液体に戻っているようだ。
午後からは本格的な雨に変わり、さらに寒くなるかもしれないとのこと。一進一退の季節はそれでも確実に前進している。
日々の思いを言葉にして
カテゴリー: エッセイ
今日の日中は汗ばむほどの陽気だった。関東地方で夏日を観測したところもあるという。2月にして夏というのは異常というしかない。ところが、明日は気温が急降下し、更に今週末にかけて低温傾向が続くという。週間予報では雪のアイコンが付いている日もある。全く激しい変化だ。最高気温が10度以上下がる地点が多いのだと聞く。
咲き始めた梅花の勢いはもう止められないだろう。しばらく寒い日が続いても高温傾向には変わらないようで、桜もかなり早くなるのかもしれない。このところ桜は入学式の花というより卒業式の花となっている。さらに気候変動が続けば、私たちの季節感はかなり変わったものになるのだろう。
このころは気温や天候の変動が激しいことが特徴である。季節が変わるときの身震いのようなものと考えている。
科学の本を読んだ後は私たちが見ているものは自然現象の一過程に過ぎないと考えてしまう。いろいろな現象が重なり合って私が感じる現実が形成され、その印象から概念が形成される。こういう思考方法では、私たちの見ている世界は極めて物質的な偶然性の産物ということになる。
それにしては私たちの経験は多種多様であり、そこに法則性は見いだせないような気がする。ある現象と、別の現象の間に因果関係があるといえばあるが、ないともいえる。それが私の考える実感である。物質的な観点に立てば、私が見ている様々な現象は本質的には一つにつながっていることになる。そうは見えないけれど。
すべての物事が統一的な世界の中に含まれるという考えは、むしろ宗教に近い。物理学者は宗教の対局のようでありながら、実は最も宗教的な考えを持つ。私はその深みには全く近づけないが、自分の実感というものがどこまで自分のものなのかという素朴な疑問を繰り返している。

実家から散歩をすることにした。田園の中を歩くと時々梅花に出会う。恐らく地主の趣味なのであろう。通りすがりの私にとっては嬉しい偶然である。
万葉時代は梅花は舶来の花という感覚が強く、海外の植物という感覚があったようだ。令和の元号の由来となった大宰府の梅花の宴の歌のようにどこか構えた作品が作られたのが当時の梅に対する思いなのだろう。
現代人は梅をむしろ和風のシンボルのように考えている。梅花を愛する気持ちは恐らく世界一ではないかとも思う。梅鉢の模様は天満宮のみならず、日本人の多くを説得できるものとなっている。
いま田舎道を歩いて気づいたことがある。私はいかに知識の上だけでものごとを見ているかということである。実際の風景は変化にとんでおり、理想とはかけ離れている。それをありのままに認めることで、つぎの発見があるのだ。最近の私の生活に欠けていることに実体験というものがある。体験を通して知識が得られることを理想とするのなら、今の生活は極めて低調なものだ。経験より知識が先行している。
私の日常がいかに記号化され、実体験から遠ざかっているか。今日の散歩はそれを痛感させてくれた。
この時期になると、年度の自分の教育に対する反省をすることにしている。成績の上位者に対する対策ばかりを管理職は気にするが、私はこの方面には実は関心がない。成績のいい生徒は誰が教えてもうまくやる。学習の仕方が分かっているのだ。むしろ、教員が勝手にやり方を変えることで調子を落とすことさえある。
関心の中心は学習の習慣が定着せず、成績が実力以下になっている生徒である。彼かの中にも様々なタイプがあり、一概には言えない。ただ、ある程度やる気はあるのにテストで点が取れずに挫折してしまうといった生徒には手を差し伸べたい。
今考えている方法はいくつかあるが、1つは時間の管理である。同じ学習を30分以上続けないようにさせる。ストップウオッチなどで計時して30分で途中でもやめさせ、別のことをさせる。これは集中力を高めるためのルーティンとしたい。恐らく脳が強い関心を示せる時間がそれくらいなのだろう。
教えるときも20分くらいを目安にして、話題を変えていきたい。これは授業で直ぐにできるはずだ。
今年の実践でうまく行ったと思うのは問題を作る授業だ。いわゆる現代文の設問を生徒に作らせた。すると解き方が逆に分かる。どんなふうに問題ができているのかが分かれば、何を求めているのかも分かる。
他にもいろいろなアイデアがある。来年度は少し余裕ができるので教え方の工夫を進めたい。うまく行ったらご紹介する。
明るすぎる人には裏があるという。経験上、ある程度の信憑性はある。内面に何かを抱えている人はそれに対する反発のため、明るく振る舞うのだろう。もちろん、根っから明るい人はいる。性格の問題であれば問題はない。ただ、それが無理に表出されているものであるのならば心配になることが出来する。
自分自身のことを考えてみても、日常のどうしようもない苦悩に疲れると人前では無理に陽気に振る舞うことが多い。自分の暗さを見透かされないように必死になるからかもしれない。事情を知らない人は私をポジティブな人間と思うこともあるようだ。抱えているものの大きさ、重さを隠し通すことは真逆の行為でごまかすしかないのだ。
明るく振る舞うことが自分の心の平安を保つための手段とすれば、それを尊重することには意味がある。バランスを取ろうとするいわば健気な振る舞いを暖かく見守るべきだろう。
表現の多様性は生活の質を上げるためにも不可欠である。言語による表現は我々の思考と行動の全てに影響を与える。実際には連続的でしかも不定形の世界を言葉はあたかも定形のピースが存在するかのように世界を切り分ける。これは多くの言語学者が述べていることなので改めて言うまでもない。
使える言葉が少ないと世界の切り取り方は雑なものになる。現代社会は大量生産にとって物が増え、さらにインターネットなどの情報サービスの発展により、物質を超えた情報が重視されている。なんでも機械が処理するせいか、人間が使う言葉の方は貧弱になっており、使える言葉の数が減少しているかのようである。極端にプラスかマイナスしか表現できない。評価の種類が少なく、判断者の意図が正確に伝えられない。
言葉の数を適度に増やすことは意識して行うべきことだろう。教育の担当者はこの点に十分に配慮すべきだ。そして、個々の学習者が言葉に対する好奇心を持ち続けることが必要なのだ。