よく使う駅の監視カメラの上に作られた燕の巣の雛たちがかなり大きくなってきた。親鳥が近づくと一斉に口を開ける。雛たちを支える親鳥の献身は心を打つ。彼らの命は親鳥にかかっているのだ。危険を回避するためにあえて人間の生活圏に飛び込んできた鳥たちの叡智には感銘を禁じ得ない。
カテゴリー: エッセイ
雨漏り
強い雨
台風の遠い影響で関東地方でも強い雨が降り出している。今日は一日中雨になりそうだ。濃い色の上着を着てきたことだけが救いだ。
ネットの天気情報サイトにはユーザーの実況報告コーナーのようなものがある。雨の様子をポツポツとかザーザーとかいつた擬態語でランク付けして選び、クリックすると位置情報とともに送られ、それがマッピングされる。自分の居場所を見てみるとザーザーのアイコンが並んでいた。
雨を擬態語で分類するというのはいかにも日本語の発想だ。日本語話者でないと区分は難しいだろう。正確な区分はできないがザーッとザーザーの違いはなんとなくわかる気がしてしまうのは面白い。
天気の話題が好きなのは日本の天候が多彩で移ろいやすいからに相違ない。ザーザー降りのあとはカラッと晴れてほしい。暑いのはごめんだが。
台風の季節始まる
ホタルブクロ
駅のホームに続く土手に自然に草が生える場所がある。いわゆる雑草の植生が見られる場所だ。そこにかなり多くのホタルブクロが咲いているのを発見した。日本全国で見られる野草の一つだが、釣鐘状の花がきれいなので園芸に用いる人もいる。
ホタルブクロというのは子どもが花の中にホタルを入れて遊んだからという語源説が有力だ。いかにもファンタジックな名前である。もっともこの花はホタルの生態とは無関係であり、ホタルの生息地との関連もなさそうだ。
調べてみると食用にもなるようだが、食べたこともないし食べたという話を聞いたこともない。毒性がないということは確認できた。綺麗な花にはしばしば毒性があるものだ。
ホタルブクロを見ると小学生の時に読んだ児童文学を思い出す。古田足日の『大きい1年生と小さな2年生』だったはずだ。ホタルブクロがとても貴重な花のように思えてならなくなった。その後、意外にもどこにでもある花だと知ることになるが。
駅前の土手はやがて草刈りが始まるはずだ。ホタルブクロは残してほしいなどと勝手なことを考えている。
老人の姿に
老いを感じることはいくらでもあるが、それに反して実はそれほど変わってはいないとどこかで考えている。とんでもない錯覚だが、実は誰にでもあることなのだ。若い人には分からないだろうから、将来のあなたのために書いておこう。
筋肉の低下は意外なことに顕著に起こる。私は毎日10,000歩以上歩いている。筋肉低下とは無縁だと思っていたがさにあらず。最初に異変に気づいたのは50代半ばのことだが、どうも足が上がらないために、ちょっとした高低差で躓くことが起こった。そのうち平たいところでも足がもつれることがあるようになった。月に一度あるかないかなので、気にせず対策をしなかったが、今になって考えると老化による筋力低下の始まりだった。
老人というと腰が曲がり、杖をつく姿を思い浮かべるだろう。彼らはいきなりその姿になるわけではない。昨日までやってきたことが少しずつできなくなっていっただけのことなのだ。そしていつの日か劇的変化が訪れる。
老人の姿を身近に感じられる年齢になって、少しでも他人に迷惑をかけたくないと考えるようになった。そのためには最低限の体力維持のための努力はしなくてはなるまい。もう自分のためという枠を超えている。
猛暑予報
今夏も暑くなることが予想されている。かつては部活動の間に水を飲むこと自体が難しい雰囲気があった。日射病は身体が弱かったり、精神力欠如が問題だと言われたこともあった。今から考えると恐ろしい誤解だ。
そういう論理が通ったのも、今ほど気温が上がる日が少なかったからなのだろう。いわゆる真夏日やその上の猛暑日はここ数年で格段に増えている。東京の猛暑日は1990年代から増え始め、2000年代以降は毎年かなり多くの猛暑日がある。昨年は22日もあった。根性では乗り切れないのだ。
今夏も猛暑の予報が出ている。ラニーニャ現象で海水温が高くなりがちであるのが要因だという。すでに4月の平均気温が高く、このままの傾向が継続すれば史上最も暑い夏になる可能性もある。
各所で聞く暑熱順化もさることながら、公的機関が休憩室を用意したり、木陰の多いまちづくりをするなど様々な取り組みが必要なのだろう。再び根性論が目覚めないようにしなくてはならず、インフルエンサーによる注意喚起もあった方がいい。
ブログを書く人工知能
このブログのアイコンは先日始まったWordPressのアイコン生成AIサービスを利用して作ったものだ。瑠璃色、別荘などとプロンプトを並べたらできた。タイトルを決めてくれたり、要約を書いてくれたりもする。これらも使ったことがある。何なら本文も書いてしまう。整然とラベリングとナンバリングを施した文章を立ちどころに書く。これだけは採用していない。その椅子を取られたらもう私の居場所がなくなる気がするからだ。
人工知能は音声入力にも反応するようになるらしい。反応速度も人間並みになり、多言語の同時通訳も実現が近づいてきた。昔、中国の映画で役者が自国語で演じ、あとから中国語を当てて作ったのを見たが、それが実現することになる。日本語と中国語で会話しながらイヤホンでは同時通訳された声が聞こえているというふうに。
言葉の世界に人工知能が踏み込んでくるほど、人間はその能力の高さに圧倒されそうになる。そして著しい無力感が伴う。これから英語を勉強する意味なんかあるのだろうかなどと考えてしまうのだ。
よく考えればAIのしているのは瞬時の記号の置き換えと確率的に高い組み合わせの合成であり、個々の意味を理解している訳ではない。言葉にはその場に応じて使い分けなくてはならないものがある。機械にはそこまでは判断できない。言葉は音声や意味を表すだけではないようだ。
ならばやはり私たちは母語の知識や運用力を挙げなくてはならないし、外国語の学習も不可欠だ。人工知能に何でもお任せという訳にはいかない。
このブログは今のところ私がスマホで入力して書いている。毎日ネタがなくて苦労している。いっそ今日のブログを書いてと人工知能に命令したくなるが、この苦しみだけはやはり譲りたくはないと思い返すのである。
苦手なものは誰にもある
人には適性というものがある。オールマイティと言われる人もよく見れば苦手なことがある。彼らはその苦手なことを目立たないようにするのが得意だ。だから、何でもできる人のようについ思ってしまう。
私のようにいろいろな面で難渋している者には、言う資格はないのかもしれないが敢えて言おう。苦手なものがあることは個性であってそれ以上ではない。できないことがあるのは当たり前で、その点だけ取り上げて非難するのは間違いだ。そういう君もできないことがあるはずなのに、何を偉そうにと私などは思ってしまう。直接言えないが。
最近、ある局面だけで他人を見下す人が増えているように思えてならない。恐らく見下す人もどこか自己肯定感を持てておらず、他人をけなすことでようやく自己を保っているのかもしれない。哀れだがこれは互いを低め合う悪行である。本当に相手を貶す意味はあるのか。自己満足のために他人を巻き込んでいないかは考えて見るべきだ。
人間は集団の生物であり、ある意味互助で進化の過程を切り抜けてきた。その精神が失われたとき、弱い生物に転落するのだろう。残念ながらいままさにその過程にある。
自分の不完全さを知り、同族に助けてもらえる知能を獲得できていることを思い出す必要がある。援助をAIに求めるならば、人間はますます分断されていく。私の人生の尽きるまではそう間がないが、その間にヒトの生き方を思い出す機運ができればいいと思う。
人生の分岐
それなりに波瀾の人生を歩んできた自覚がある。もっと安易な生き方も可能だったはずだ。また、今のように細々したことにこだわりすぎる生活はおかしいとは思いながら、すべてを受け入れてきた。そのことを後悔はしない。なるようにしかならなかったのだ。
自分にはもっと高い所に進む可能性があって、いまは不遇なだけだ。そう思うことは慰安の言葉としては最上級だ。実際は偶然掴んだ高みだとしても人は謙虚にはなれない。自分には計り知れない可能性がある。いまはそれを発揮できないだけなのだ。時が来れば一気に駆け上がるのだと。誰もが思う幻想だ。
私はこの幻想を否定しない。妄想でもなんでもいい。成し遂げたいと思うことをこなしていく。そういう達成感の中で生きるのは一つの見識だろう。日常生活ではままならないことが多すぎる。それでも自分の中で描いた物語の主人公として生きられるならばそれは意味があることだ。
どんな成功者も転落の憂き目にあっていると思っている人も、実は偶然の人生を生きている点では同じなのかもしれない。それを仕方がないものと諦めるのか、自分なりの意味を見出していくのかで印象は大きく異なる。
