カテゴリー: エッセイ

気温上昇予報

 今日の東京は最高気温が28℃になるとの予報が出ている。暑熱順化ができていない身体にとっては辛い1日になるかもしれない。一部の地域では天候が荒れるとも報じられている。いまのところ、自分の住まいの近辺は穏やかな青空が広がっているのだが。

 ここ数日、気圧の変化が激しいようだ少しではあるがこの点に関しては気になることがあるので気をつけておきたい。体調不良のときはかなり気になるのだがいまのところは連休への期待感の方が勝っている。

 都会に住んでいても何気ない植物の新緑や、燕やその他の小鳥のさえずりに心が動くことがある。あまりに不自然な日々を送っているがゆえにたまには自然の中に身を置きたくなるのである。

稽古は強かれ情識はなかれ

人生の支えになっている引用や、よく考える引用はありますか ?

 世阿弥の言葉というこの言葉は、能役者に対する戒めである。練習することに妥協はするな、自分勝手な思い込みは捨てよ、という意味で理解している。かなりストイックな箴言だが、私は敢て時々それを思い出している。

 実際の私はかなりの怠け者で、明日できるものは明後日に回してしまう。それで自分を追い込み、何度も苦難を味わって来たというのに。難所を偶然越えるとその苦しみを忘れて怠惰に戻ってしまうのである。

 だから、世阿弥の言葉は身に沁みる。練習や準備にもっと情熱を注ぎ、自分はこんなものだとか、結構いい線いっているといった思い込みを捨てなくてはならないのである。

 ただそれを実行できるかといえば、私の場合はいまのところ不達成だ。おそらく世の中で成功している人の多くは、この世阿弥の忠告を守っているのであろう。しかも、厳しい稽古それ自体を楽しめる心性と、それに基づいた生活を営んでいるのに違いない。

 私はできないことを棚に上げて、こうした求道者に対する憧れだけは持っている。

連休の谷間

 連休の谷間だ。私は土曜日も出勤日なので本当の休みは日曜からだが、企業によっては休みが取れる人もいるらしく、今朝は朝の電車でも座ることができた。

 4月からいろいろなことが始まったので、この時期に休息ができることはありがたい。とともに、少しここまでのやり方を振り返っておきたい。果たして継続可能なのか。効果は出ているのか。やりたいことをできているのかなどと。

 実は大切なのは緑に触れることだと考えている。ルーティンから距離をおいて、考えない時間を少しだけ設ける。そこから何かが生まれるのかもしれない。休みになったら、公園にでも行ってみたいと考えている。

少しだけ飲むといいのだけれど

 少しだけ酒を飲んだときにさまざまなアイデアが浮かぶのはなぜだろうか。よく感じることなのだが酒を飲み始めて一定の時間まではいろいろなアイデアが出てくる。過去にそれで思いついたことをもとに始めたことがいろいろある。ただ、私のように酒自体が好きなものにとってゴールデンタイムはすぐに過ぎ去り、単なる酩酊の段階に入ってしまう。

 うまくいったときのことを考えると飲み始めたものの、それ以上の飲酒が許されないときで、しかも身近に記録する紙なりデジタル媒体なりがあったときのことだ。そういう偶然はそれほどないから、うまくいくケースは限られている。

酒は好きですが

 この齢になるとやるべきことの最低ラインをクリアすることはある程度できている。問題はそれ以上にならないことだ。加齢とともに、その合格ラインは逓減していき、それを上回ることで満足してしまいがちだ。うまくやった、きり抜けたと考えてしまう。

 でも、それはおそらくエントロピーの法則に従って消滅していく段階の出来事ということになる。悪あがきを旨とする私にとっては多少不格好でもやれることをやりたい。この意味で起爆剤としてのごく少量の酒を飲むことは諦めないでいよう。難しいのは第二段階に進まない工夫だ。

面倒なことをやることが

 自発的に何かができるかが人工知能と人間との違いだといわれる。AIは与えられた指令を高速で処理し、回答を用意するが、自分から問いを立てることはしない。処理を連動させるといつまでも動き続けるように見えるが、それもきっかけとなる指示があってのことだ。

 それでは人間らしいとはどういうことなのか。それは自ら考え、悩み、それでも考え続けることができること。誰かに言われなくても問いを立て、その解決方法を考えることなのだろう。

 人工知能が私たちの生活を変え、多くの職業を代替してしまうという。ならば、やらなくてはならないのは与えられたことをこなすことではなく、指示を出せる能力を磨くことのはずだ。にもかかわらず、最近の私、及び周辺の人々はますます考えなくなっている気がする。面倒なことは避け、もっとも最短距離の既定のルートを探すことに専念しているかのようだ。

 面倒なことをやることが今後の人間の役割だ。私自身がいろいろなことにかこつけて骨折りすることを避けている。損してくたびれるように思えることにこそ、次への展開の芽が隠れている。

機種変更

 これまで使っていたスマートフォンが容量不足でどうしようもなくなったので買い換えることにした。よく考えれば、最新の機能を求めなくても時間とともに使えなくなっていくのはコンピューターの性らしいが少しわりきれないところがある。

 アプリの再設計などが残されており、当面は魂を抜かれてWi-Fiで生き続ける旧機種の残務整理に追われそうだ。主役から降りてシステムファイルが小さくなった影響で元気を取り戻したのが何とも皮肉である。

 スマホ依存にならないよう、必要なとき以外には使わないように心がけたい。

水族館

 八景島シーパラダイスに久しぶりに行ってきた。もう少なくとも3回以上は入っている。大水槽の魚の群泳が圧巻である。イワシと思われる小魚は多数の魚があたかも一つの生命体のように泳ぎ回るのが不思議だ。

 水族館はガラスの向こうに水の塊があるのがいい。絶対に辿り着けない世界を切り取ってくれる。不思議な空間だ。生命の歴史を鑑みると、海の時代を経過してきたのだという。過去の命のあり方が見えているのである。

 また、魚の中には食用として一般的なものも多く、それを口にしても奇異にならないのもいい。アジやタイが泳いでいるとなぜか幸せになる。水族館は不思議な空間だ。

手に職

 AIが発達するとなくなってしまう職があるとはしばらく前から何度も言われている。技術の発展で消滅した職業は数多い。いわゆるホワイトカラーの職業の多くは今後人工知能に代替されてしまうかもしれないという。そのあとで生き残るためには、AIを操作する側に回るか、AIのできない職に代わるかしかないとも言われている。前者になるのはかなりの能力と機会的な幸運が必要だ。後者はそれに比べると転身の可能性が高い。

 ただ、AIに代替しない領域と言えば、数値化しにくい繊細で人間的な仕事か、物理的な動作を伴う、つまり力仕事になる。かつてはブルーカラーと呼ばれた職業階級がAI時代以降は人間の生きる道になるということだ。先見の明のある人はいわゆる手に職を目指して動き出しているともいわれる。

 私のような世代になるとこの種の転身はかなり難しい。でも生きるためとなればやるしかなるのだろう。今のような仕事をそのまま継続することは想定しない方がいいだろう。やはり手に職は必要なのかもしれない。

実感すること

 知の身体性をテーマにした文章に多く出会う。知識と言われるものが経験に基づく実感に裏打ちされていないことが増えているという指摘だ。

 インターネットで超高速で検索をし、近年は人工知能が付帯的な情報まで収集して、それらを分析し組み合わせて提示してくる。確かに非常に便利で効率的に感じられるが、その過程において自分の得られる経験は限定的である。わずかな指示を出して食事に行き、帰ったらレポートが出来上がっている、ということが当たり前になっている。

 経験を伴わない知識は危うい。その意味をよく理解しないまま摂取して、さらにそれを積み上げていく。かなり空虚な知の体系が形成されている。

 やはり、実感をすることが必要だろう。若い世代には一見無駄と思われることでも、屈辱的な失敗でもすべてが大切な経験であると訴えたいのである。

人工地震説が絶えない理由

 地震を人工的に起こすことは現代の科学ではほぼ不可能だ。微弱な地震を核爆発などを使って発生できても、いわゆる震災を起こす地震を人為的に起こすことはできない。地震のエネルギーは桁違いに大きく、人類がこれまでに開発した最大の核爆弾を使用しても震災レベルの地震を起こすことはできないという。

 それなのに地震陰謀説が出るのはなぜだろう。予測不可能な地震の発生を誰かのせいにしなければやりきれない切実な思いの為せるわざなのだろうか。その背景には不如意な日常に対する不安もしくは不満があるといえそうだ。自分を取り巻く好ましくない現実は、きっと何者かの陰謀で仕組まれたものであると言いたいのである。

 科学的な言説はこの場面ではほぼ無視される。あるいは理解していても分からないものとして判断停止されてしまう。人工地震が人々を襲うという幻想がまことしやかに語られるのは、社会不安の変形と言うことなのであろう。