カテゴリー: エッセイ

みぞれ

 夜になって雨が白くなった。雪と言っていいのか霙なのか際どいところだ。寒波が南下して関東南部にも積雪の可能性があるという。もしかしたら積もるかもしれない。そんな予感がする。でも、すぐ消える雪だろう。

 富山に住んでいた頃はいわゆるぼたん雪がだんだん細い雪になり、時には雷鳴もあって激しく降り出すとまとまった積雪になった。1人ぐらしのときは覚悟のために酒を少々飲んだが酔えない。明朝は雪かきで始まり、慣れない雪道を車で走らなくてはと思うと自然と緊張してしまうのであった。いまとなっては懐かしい感触だ。

 雪の前の緊張感はなくなっているが、これから何があるかわからない毎日だ。せめて今日のような夜は気を引き締めてみたい。

初詣

 元日の今日、各地の神社では初詣の長い列ができた。日本人は宗教に関心が薄いというが、まったく当たらない。一神教的な物差しには当てはまらないが、極めて信心深い。教理に対しての信仰というより、救いに対しての素朴な思いが強いのだ。

 初詣の良いところは待たされても殆どの人は文句を言わないこと。割り込みはないが、たとえあってもそれほど目くじらを立てる人がいないことだ。いつもより寛容になっている人が多いのはこの日のよいことだ。

 初詣に何を願うのか。私の場合は結局は世界平和なのだと思う。それはいまやっていることが不可抗力で無駄にならない環境を維持したいということなのだ。戦争はそれをぶち壊す。そして、誰も責任を取らない。そうならなければ、悪あがきを続ける価値が残される。私はその環境だけは維持したい。

 初詣だけではなく時々、社寺に訪れることは意味があるのかもしれない。自分の現在地を時に客観視するためにも、自分以上の視点を持つ機会を持つことには意味がある。

2026始まる

 2026年はどんな年になるのだろう。私にとってはまもなく人生の節目を迎えることになる。最後の仕上げの一年だ。といっても、やれることは限られているし、それをとにかくやってみるしかない。毎年、年始には大風呂敷を広げ、勝手なことを抱負として述べることにしている。

 今年はこれまでにやってこなかったことを始めたい。その多くは地味で詰まらないことかもしれない。それでもいい。何もしないよりずっといい。恐らく始めた分だけ、いやそれ以上に失敗があるはずだ。その屈辱や挫折も含めて人生に彩りを加えてみよう。

 その一端はブログにも書いてみよう。恥をかき、かいたものを書く。そんな1年にできたらいい。

丙午伝説

 来年は丙午(ひのえうま)にあたる。この年に生まれた女性は気性が激しく家庭を亡ぼすという迷信があり、直前の1906年、1966年は出生率が顕著に減少している。ただこの迷信の根拠が江戸時代に起きた八百屋お七の放火事件にあるというからかなりあやしい。お七は火事で自宅が火災になったとき、非難した場所で知り合った男と恋に落ち、その後別れたが火事になればまた会えると思って自宅に放火したという。ぼやで済んだがこの罪で火あぶりの刑に処せられたという。そのお七が丙午の生まれだというのだ。お七を取り上げた井原西鶴の『好色五人女』などによればお七は丙午生まれではない。そもそもこの浮世草子自体が創作であり、史実ではないのだがどうもこの女性の人生が江戸の人々には同情を惹いたようで何度も創作化され、そのなかで丙午誕生説ができたらしい。

 この根も葉もない迷信がなぜか丙午生まれの女性を差別する伝統を作ってしまった。1966年も人口ピラミッドをみると明らかに不自然にへこんでいる。この生まれの人たちはどうかと言えば実は偏見に悩んでいるというよりは恩恵を受けていることの方が多いようだ。同級生が少ないことは入学試験や入社試験で有利に働くということである。来年はこの迷信による出産抑制は少ないといわれている。そもそも何もなくても人口減少が激しいこの国にとって、毎年が丙午のような迷信にとらわれているといっていいのかもしれない。

 国家を維持するための人口が不足しつつあるというのが専門家の意見である。丙午の迷信を気にする若い世代は少ないと考えるが、それでも多少の影響はあるのかもしれない。同級生が少ないということはデメリットもあるが、どちらかと言えばメリットの方が大きいような気がする。迷信にとらわれず、むしろそれを利用するようなたくましさが求められている気がする。

今年の衝撃的な出来事 トランプ関税

 今年の海外ニュースのなかで最も衝撃的だったのはトランプ大統領の繰り出した関税政策である。国益を守るためという理由で同盟国にも高い完全を課すことを発表し、その後の交渉によってそれを容易に変える。恐喝のような方法を超大国がしてしまうことを恐ろしく感じたものだ。そしてこれはいまだ継続している。

 冷戦終結以降、アメリカは世界をリードする国家として強大な権力を持ち続けてきた。世界中の紛争に介入し、世界の警察とも言われた時代もあった。また発展途上国への積極的な援助も行う慈善事業の支援も行っていた。それがどうやら旗色が変わってきた。他国のことを世話している余裕がなくなったようだ。支援は無駄遣いといい、移民を制限し、外国人労働者を敵のように考える。建国以来他の大陸から移民してきた新国民によって発展してきたアメリカが、その活力の源を断とうとしているのは実に皮肉に見える。

 もはやアメリカ合衆国は超大国の位置づけからランクダウンしつつあるのだろう。ロシアに変わって台頭してきた中華人民共和国も近年は国内外に大きな問題を抱えているようで、大国然としたふるまいはしていない。世界を支える存在がなくなりつつある中で、どのようにして国際平和を維持していくのかが心配になる。トランプ大統領の存在はその実に分かりやすい警鐘であり、日本もその傘下にあることを改めて考えていかなくてはならない。

今年痛感した課題 インフラ維持

 今年起きたさまざまなニュースの中でも衝撃的だったのは埼玉県八潮市でおきた道路陥没事故だった。埋設された下水管が地下で発生した腐食ガスの影響で崩壊したのが原因ではないかと言われている。この事故の恐ろしいのはこうしたインフラ老朽化による突然の事故がこれからもどこでも起こりうるということである。

 経済成長期に急速に進展したインフラの中には耐用年数を終わろうとしているものがかなりあるらしい。それをメンテナンスするための予算、人材が減少し、その技能も維持できなくなっている。解決のためには、まずこれ以上のインフラを造らないこと、もしくは都市機能を集約すること、作業の自動化やAIなどの活用で省力化を進めていくこと、何らかの方法で技能者を増やすことなどを達成していかなくてはならないという。いまの我が国にとってはかなり難題である。

 私の世代には街にものが増えていくのは当たり前であり、それが維持されてさらに新しいものが付け加わっていくという発展的な視点がある。しかし、これからはより計画性が重んじられるはずだ。造ったあとどうするのか、維持するため、もしくは解体するための作業工程を織り込んでいくことが求められるのだろう。

感動する短い動画の原点

 人の善意や悪意を短い動画にして見せるというものがある。小説には短すぎるが、短時間で全体像がわかり、それなりに感動できるというものだ。作り話だと思いながらもつい見てしまう。そして、このときに得られる感慨にどこか見覚えがあるのである。ほかでもこのようなことを経験してこなかったかと。

 何だったかとしばらく考えていると、思い当たるものがあった。いわゆる説話文学のなかにある世俗説話と言われるものや、江戸時代の奇人伝と呼ばれる個々人のエピソードを描いた文学の読後感とにているのだ。古典にまでさかのぼらなくても、個々人のちょっとした体験をつづった新聞や雑誌の読者投稿欄にも同じようなテイストを感じる。共通するのは分量が短く、簡潔で、読者は書かれていることを一応事実もしくは事実の可能性が少しはあるものとして受け取っているということだろう。そんなこともあるのかと思わせることがこの種のストーリーのミソである。

 今は人工知能の手を借りれば簡単な動画をそれらしく作ることもできる。人の善意や悪意を際立たせて筋を作れば現代の世俗説話ができてしまうのだ。しかもかつてなら専門家が長い時間をかけて作っていたアニメーションやそれっぽい実写風の動画も家庭のコンピュータで作れてしまう。それは新しい表現ジャンルができたのだということができる。それが創作であり、現実ではないというリテラシーが見る側にますます要求されれることになるのではあるが。

 

やってみることの大切さ

 やってみることが大事だとは分かっていても、失敗したくないとか、無駄なことはよそうといった気持ちになって結局何もできないことが多い。無駄なく最短の努力でと思うのは自然だが、そうなると新しいことは生まれない。若い頃は恥をかきたくないと思い、歳をとってからはもうそんなことはしないという。年齢に応じた言い訳をしながら、結局何もしないままなのだ。

 でもどうだろう。人生の残り時間があとわずかだと思ったとき、その言い訳は使えるだろうか。失敗する確率は高いです。でも、失敗後の人生はそれほど長くは続きません。成功しても同じです。そういう状況ならば、勝負を後に送るような言い訳はしないかもしれない。後味が違うという考えもあるだろう。私のように死後の世界はないと考える者にはもうそういう感覚は感じない。

 とにかくやってみませんか。失敗の確率はかなり高いです。でもやらないよりはいいでしょう。そんな声が時々聞こえてくる。その度に聞こえないふりをしたり、一見理論的な反論をしてみても、やはり何もできなかったという後悔は予見できる。ここからは百戦九十九敗最後に一勝を覚悟すべきなのだろう。近年の逆境により、結構な防御力はできている。後はその境遇に身を置く覚悟があるかどうかだ。

 かっこよくありたいとは思うが、そんなに甘くはなさそうだ。せめてそれもいいんじゃないと、芸術家肌の人がつぶやくような生き方をしてみたいと思う。

笑いの型

 私たちが他人の話を聞いて感情を動かすのにはなんらかのきっかけが必要らしい。また、それがあればいいという訳でもなく、一定の条件が揃うことが必要になる。エンターテイメントの世界ではそれを巧みに創出して、感動を引き出す。

 漫才を見ているとそれを感じることができる。漫才などの演芸を観にゆく観客は、始めから笑いたいという欲望を抱いている。ただ、それを芸人が満たしてくれることを求めているのである。その期待を満たす者には高い評価があるが、ちょっとした手順の違いで笑いが発動できなければ批難の対象となる。その違いは極めてわずかで、文化的、個人的などさまざまなレベルでの差異を満たしたものだけが評価されることになる。

 感情の発露は極めて個人的なものであり、かけがえのない個のなせるわざとなんとなく思っていたが、実態は違う可能性がある。喜怒哀楽はそれが極めて個人的な体験のように思えるが、実は文化というよりは生物学的な事由により規定されているのかもしれない。私たちが泣くのは悲しいからだけではなく、いくつかの要件を満たす必要があるのだ。

 少なくとも今のところ明らかなのは、笑うためには手順が必要であるということで、それを演じ手側から言えば、型があるということなのだろう。観客を笑わせるためにはその型を巧みに利用する必要がある。

 笑いをどのように引き起こすのかは、昔からの課題であった。日常の中のわずかな非日常的側面の表出がそのきっかけになることは確かだろう。でも、ならば一定の条件をそろえれば笑いにつながるのかと言えば、否としか言いようがない。それが話芸の難しさであり、醍醐味でもあるのだ。

 漫才の繰り広げる典型的な芸態はそれを具象化してくれるものである。型、つまり笑いのツボが完成すれば、多少の不足があっても観客は笑いを発動する。なぜ出てくるだけで笑いが取れる芸人がいるのか、何をやっても受けないこともあるのかはそれに関わっているのかもしれない。

北陸は雪らしい

 北陸は雪らしい。関東のローカル放送では天気予報の範囲が少なくとも二通りある。多くは関東の一都六県を範囲とし、時間によっては山梨、長野、新潟を含めた関東甲信越に拡大される。ただ、映し出される雨雲の分布や降雨降雪予報の地図には富山県も入ることが多いので、コメントはないがだいたいの天気は分かるのである。

 今日は季節風が強く、さらにはこの季節に多い日本海寒帯気団収束帯も発生する可能性もあるという。そうなるとまとまった雪になりやすい。年末の大雪に注意しなくてはならない。

 かつて北陸に住んでいたとき、当時は長岡や後に越後湯沢で新幹線から在来線に乗り換えた。群馬の山を越えた辺りから雪景色となり、越後湯沢駅からはスキーをする人の姿が見えたものだった。関東は乾いた青空で、川端康成でなくともその激変に感情を揺り動かれる。日本の脊梁が冬の空をいかに隔てているのかを痛感するのだ。

 関東にいると雪景色に憧れ、北陸では曇天続きの冬空に鬱々としたこともあった。どちらにも素晴らしい魅力があるとともに耐えがたい痛みもある。どちらかに住むと見えたものが、移住してしばらくすると分からなくなってしまうのだ。

 天気予報で彼の地の映像が偶然映し出されたときに、にわかに過去の感触が噴出する。しかし有効期限はすぐ切れて、日常生活がそれをかき消してしまうのだ。このごろの季節はこの差異を思い出すことが多い。