カテゴリー: エッセイ

漢文訓読体が日本語を変えた

 漢文の研究者が書いた新書を読んだ。何となくそうではないかと考えていたことが学問的に説明されており、大いに役に立った。

 日本語の書き言葉は平安時代の半ばに一度完成する。和文と呼ばれる文体は学校の古典の時間に教えられる古典文法のもとになるものである。しかし、時代とともに和文では書き表せないものが増え、そこに漢文訓読体が影響する。外国語を読むための人工的な文体が、書き言葉のパーツとして使われだすのである。

 先日、戦国時代や江戸時代の武士階級が残した書簡を展覧会で読む機会があった。いわゆる候文で書かれた文章は、漢文訓読そのもののような部分を多分に含み、実用的な文章においてはそれが標準であったことが分かる。

 外国語を読むための言葉が自分の意思を表記する手段となったのは、それほど書き言葉の壁は厚かったのだろう。話した通りに書けばいいと思うのは実は間違っている。現代語でもたとえば「じ」と「ぢ」は書き分けるが、発音の違いはないし、大阪は「おおさか」なのに王様は「おうさま」と書く。助詞の「を」などはよく考えてみれば不思議である。いまでも話し言葉と書き言葉には厳然とした差があり、混同すると学識を疑われる。

 いま書いているこの常体の文章も私が普段人に話すときの言葉とはかなり異なる。かといって、話している通りに書くことには抵抗がある。ブログの世界では少数派の文体で書き続けているのは、私にとってこうでないと正確に書けないからである。気取りとかいう次元のはるか前の問題として。

 だから、漢文訓読体を手本にしていまの日本語の書き言葉の基礎が固められ、それが明治の言文一致運動などを経ていまの日本語の書き言葉になっているというのが事実なのだ。漢文の学習は外国の古典を読むことにとどまらず、日本語がどのように形成されてきたのかを知り、その成果を通して表現力を高めることなのだろう。

夏へのギアチェンジ

 わずかな時間ではあるが体調不良で休まざるを得ない状況になった。気温上昇による疲労が少しずつ体力を奪っているようだ。気をつけなくてはならない。

 少しずつならまだ対応できるが、急激な変動や日較差の大きさがよくないらしい。もちろん基本的な体力が落ちていることも要因の一つだ。いまはバランスを考えてするべきことをしていくしかない。

 何となくではあるが乗り越えなくてはならない何かに今は直面している気がする。ギアチェンジして登りきらなくてはならない。

気のせい

 今日は何度言えない不快感に襲われた。気圧の変化によるものと勝手に考えている。今日の気圧変動はさほど急激なものではなかったが、それでも平均的な変化量よりは多かったらしい。これまでも同じような症状を感じたことがあり、大抵は軽い頭痛で一過性のものであった。

 気がつけばもう月末に近く、梅雨の季節も近い。気圧のみならず、さまざまな気象要素が日々急変する時期に入っている。頭痛や不快感が気のせいならばいい。気圧が原因ならば防ぎようはなく、症状が出た際に冷静に対処することが第一に求められることだ。

 まずは身体を慣らすこと。そして焦らずに乗り切れることだ。

敢えて諦める

恐怖や自信のなさと、あなたはどう向き合ってる?

 本当の恐怖の前では何もできないかもしれないと予測している。この問いに答えるときの恐怖は傷を負っても何とかやり過ごせる可能性があるものに対してだ。その場合、私は敢えて諦めるという戦略をとる。

 失敗したり、屈辱を味わったりすることは耐え難く苦しい。しかし、できないことはできないし、それに関わってばかりはいられない。若い頃は何でも一通りできることが理想であり、それが果たせないときには強い敗北感に苛まれた。できる人たちへのコンプレックス、ジェラシーに似た感情などに覆われることもしばしばあった。いまはできなくてもいつかはできるようになるはずだ。いまできないのは努力が足りないのだと考え、余計に落ち込んだ。

 ただ、よく考えてみればできないことの方が多いはずで、日常生活ではそれを感じる機会が少ないだけのことだ。それができなければ生き残れないという極限状態にでもならなければ、大抵は自分の持ち駒で何とかなるものだ。その質的な問題は措くことにすれば。

 自分ができないことの項目があらわになるととても残念で悲しくなることもある。でも、できないことはできないという割り切りも大事だと最近は考えることが多い。自分ができることの方を追求しよう。それで自他のためになればなおいい。何もしないで終わるよりは、ささやかな前進ができればいい。そんなふうに考えるようになっている。恐らく若い頃の自分に聞かせたら、それは言い訳に過ぎないのではないかと失笑されるだろうが。

アメリカファーストではなく

 多くの人が気づき始めているようだ。トランプ氏のいうアメリカファーストは、実はマイファーストであり、そもそもアメリカの利益は副次的なものだった。彼はアメリカをグレートにしようなどとは思っていない。グレートになれば自分の利益が増えるという自己中心的な考えによっていたのだと。

 勝てばいいという発想は、商業世界ではぎりぎり成立しても、実際の社会では上手くいかない。結果的に勝者の側に立っていたとしても、それが全面的な勝利とは言えない。むしろとりかえしのつかない悪例になるかもしれない。

 国のために働くということは実はそう簡単ではない。何処かに己の利益追求の気配が感じられてしまうものだ。それが見破られるとことは上手く運ばない。

最近の文章の書き方

 少し考えれば文章が降りてくるといったことは数年前まではあった。完成度を問わなければ、それこそが私の目指していたことであり、ブログを書き続けてきたのは、このスキルを維持することが主目的なのだった。

 ところがここ数年はどんなに考えても一向に話が浮かばない。いたずらに時間が過ぎ、やがては眠くなってしまう体たらくである。恐らくこれは脳の体力、それを脳力というならばそれが低下していることを示すものと思われる。脳が生み出す不安や憎しみも含めて低減されるので、平穏に近いものになるが、楽しいことも喜びも浮かび上がらない。だから文章も書けない。

 最近気づいたのだが、ゼロから一には進めないが、どんなことでも書いてみるとそれに繋がる何かは書ける。無駄な前置きになるかもしれないがとにかく書き始めると、次の段落が思い浮かぶことが多いということだ。恐らく私の頭は文脈を作ってその上を流れる力はまだ残しているのかもしれない。

 そういえば最近の文章は首尾一貫という観点では傷が多い。考えながら文章を書き、ろくに推敲せずに時間切れでアップしているのでそんなふうになりがちなのだ。

 それでも続けていこうと考えている。文章を書くことによって、思考力を何とか保つこと。世の中のさまざまな雑念に対して正気を保つことの手段として駄文を積み重ねていこうと考えている。

歌徳説話

 日本の古典文学の中で和歌は特別の意味を持っている。和歌を歌うことにより事態が急激に変わることが多い。諸事情があっても和歌が詠まれることによって解決するという話がたくさんある。これを歌徳説話ということがある。歌には力があり、それが周囲の状況を一変させる。対象は人間だけではなく神仏や地霊といった超自然的存在にも及ぶ。それだけ特別なものという意識があったのだろう。

 和歌は短詩形文学であるために限られた情報しか盛り込めない。制約下に作者は言葉を選び、読者も隙間だらけの情報の間を埋めながら表現世界を再現するしかない。そこには厳密な論理性は期待できず、作り手も読み手もあらゆる段階で情緒的な読みが求められることになる。

 現代は何でも理詰めであることが求められ、曖昧なものは価値が低くみなされることが多い。歌が事態を解決するというのはファンタジーの域の考え方になる。情より理であり、文学は不完全な情報と分類されてしまう。そこで、歌の持つ力も忘れられつつある。

 しかし、韻文のもつ力を私たちは手放してもいいのだろうか。なんでも説明可能かのように錯覚して、実は伝えられていない様々な情報を無視しているのは間違いではないだろうか。本当は和歌でしか伝えられないこと、文学作品でないと表現できないものがあることを私たちは忘れているのではないか。歌徳説話を読むたびに起きる違和感は私もまさに歌の力を理解できなくなっていることを意味していると思う。

ナフサをめぐる取り組み

 中東情勢に安定化が見られないいま、日本ではナフサの供給不足による不安が徐々に始まっている。原因は供給の円滑性が滞り、必要な所に行き渡っていないことにあるらしい。政府の説明は在庫は十分にあるから心配するなの一点張りだ。しかし、この手法は長くは続くまい。

 原料が届かなければやがて品薄になる。そうなってから売れば利益率は高い。商人がそう考えるのは至極当然である。これを統制するのが政府の役目なのだが果たして機能しているのだろうか。

 消費者レベルでのプラスチック使用を節約しても現今の問題の解決には容易には繋がらない。ただ、危機意識を多くの人が共有することにより、流通の目詰まりをもたらす関係者への圧力を与えることにはなるのかもしれない。何よりも指導的立場にある部署が積極的に動くべきなのだ。医療機関での資材不足は人命に関わる。

 いたずらに危機を煽るのは論外だが、中東の戦局に終わりが見えないいま、ある程度の現実的状況説明と取りうる対処の執行報告を政府がするべきであると考える。

雑草の風景

 今日は気温が下がり雨が間断的に降り続いたが、ここ数日の暑さは近くの風景をすっかり変えてしまったようだ。草むらの丈が一気に延びている。こんなに植物があったのだろうかと驚くのである。

 いわゆる雑草と呼ばれる植物は条件が揃えば一気に成長し、生息域を広げる。少ないチャンスを確実にものにしていく逞しさがある。この点を甘く見ていると、結果的に圧倒されることになるのである。

 少しだけ低温の日があり、今度は一気に暑い日が来ることはほぼ間違いない。少し喉に痛みを感じているのは体温調節がうまくできていないからだろう。雑草に見習いもっと強かに生きていかなくてはならないと思うのである。

まだ水曜日

 曜日の感覚を失って一日先だと考えていた。まだ水曜日かと思ったのである。あまりにも毎日が単調だとこんな錯覚も起こしてしまう。

 このまだ水曜日には、次の休みまで日があることを嘆くことが根本にある。休みまでは頑張らなくてはならない。食いしばらなくてはならない。そんな思いだ。ただ、その後に別の考えも浮かぶ。締め切りが一日延びてやるべき余裕ができた。焦る必要はないと。

 時間の感覚は多分に主観的で、それが行動を変えることがある。本当はただ続いているだけなのだが、なんととらえるかで長くとも短くもなる。私にとっては授業時間はまったく足りないが、生徒諸君には耐え難く長いはずだ。

 だから曜日の感覚がずれてしまったのは、何をもとに時間の流れを計るのか、その基準が途中で変わってしまったことが原因なのかもしれない。一日損した、もしくは得した今日を大切に過ごすことにする。