今日からしばらく寒波が南下し、寒い日々が続くのだそうだ。大寒という節気に当たる今日はその名にふさわしいものになりそうだ。鉢植えにしたスイセンが開花したのだが、しばらくは寒さに耐えてもらわなくてはなるまい。
今朝は念のためにマスクを着用した。このところ暖かったので身体が油断しているかもしれない。ここからが大事なのだ。
日々の思いを言葉にして
カテゴリー: エッセイ
優れたリーダーとは ?
最近、身の回りから国際ニュースに登場する人物まで、いいリーダーが少ないと思う。自己の得意分野には聡いが、それ以外になると利己的にしか動けない。残念だが、そんな方が多い気がする。
ならばお前ならできるのかと言われれば、それは無理ですとしか言えない。つまり、私には素養がないのだ。でも、こういう人に導かれれば幸せだろうという見通しは立てられる。そこで思い浮かぶのは権力者とか資産家ではなく、目立たない仕事を黙々とこなし、なおかつそれを誇らない人なのである。
恐らくいまの時代ではそういう人はリーダーにはなりたがらない。功利的に立ち回ることそれ自体が彼らにとっては苦手であろうから。
少なくとも私たちは表面的によく振る舞っていたり、いわゆる口説の徒を上手く見抜きあしらうわざを磨くべきなのだろう。本当に大切なことは何なのかを考える余裕がいる。難しいことなのだが。
昨日行われた共通テストの「国語」は相変わらず、短時間で多くの問題を解く、反射神経と脳の若さを前提とした出題であった。昨年に比べると問3の実用文と、問4の古文が難しく感じられた。もっとも問3のような問題は解きなれていないということが主因であると考えられる。時間をかけずにいろいろな資料の要点をさっとつかみ取る力が試されている。これは人工知能の仕事のように思われるのだが。
第2問は遠藤周作の小説からの出題であった。没後発見された遺稿とのことで、古い価値観のなかで自らの生き方を貫くことを拒まれた母親の姿を描いている。自伝的な小説ということだ。遠藤周作の作品の中に登場する弱さを受け入れ、罰することなく、寄り添っていくという母親像の原点はここにあったことを感じさせる作品だ。受験生の多くは遠藤作品を読んだことがないはずだ。社会から強いられる女性の生き方をどのように受け取ったのか気になる。
社会でも女性の生き方についての問題が出題されたという。これはもしかして高市首相誕生効果なのかなどと勘ぐってしまう。女性の生き方はかなり変わったものの、いまださまざまな問題がある。そのことの問いかけならば受験生にとって意味がある。
よく使う駅の改札の外に設けられたワゴン販売に珍しく長い列ができていた。大抵はお菓子や、革細工などの小物などが売られていて、足を止める人はいて、そこそこ売れることもあるようだが、列ができることはない。それが少なくとも20名以上の列だったのである。
何だろうと思って見に行くと意外なものだった。シールだったのである。キャラクターの形に作られたシール集で、立体感がある。調べてみたらボンボンシールというそうだ。諸説あるが平成年間に主に女児の間で流行していたシール収集がここにきて復活したらしい。でも、昭和にも似たようなものがあった。転写シールというフィルム上のシールなどはあちこちに貼って怒られたものだ。
シールのような安価でかわいらしいものが流行するのはなぜなのだろうか。一つにはそれを買い与える親世代の精神が影響している。昔のことを懐かしむ気持ちだ。平成レトロと言われているようだ。昭和世代にとっては複雑な気持ちになる言葉ではあるが。さらには幼いころに回帰したいという一種の退行心理もあるのかもしれない。ストレスが多く、常に何かに追われているような毎日、また縮小する国家経済、近いうちに起きる天災などのニュースをジャブのように受けている私たちが、心理学でいう防衛本能を子どもの遊びのなかで実行している可能性もある。
現役の子どもたちにとっては簡単にできるデコレーションに創作活動を始めるきっかけを使ってほしい。そして私たちも、デザインすれば日常品が違った輝きをもつということをシールの貼付から思い出す契機となるのかもしれない。私の子ども時代のようにあちこちに貼りつけて怒られることがないようにしなくてはならないけれども。
思うにいまの世の中はあらゆることに因果関係を求めすぎて、人々の自然な行為を受け生けられなくしているような気がしてならない。偶然の振る舞い。そこにほの見える善意もしくは悪意は切り捨てられて見えなくなっている。
何かの事態を目撃して、行動するときの精神構造は必ずしも合理的ではない。その人がよいと考えることをただ実行するだけのことだ。そこに理屈はない。あったとしても後付けである。
私はわざとらしい善意に感心しない。意図せず動いてしまう人の振る舞いにこそ、心の美を感じるのだ。それは意図的なものとは限らない。あたかも知らぬふりをしているかのように見えるほど、自然で偶然のように感じられるものなのだ。
近年、こうした善意は対価のないものとして避けられている気がする。評価されない行為はその善悪に関わらず無意味なものと考えられやすい。でも、何でも商品化される世間の風潮に背を向けることも必要だ。そして、それにことごとしい賞賛は要らない。当たり前のように他者のためになる何かをする。そんな人生を送りたい。
それを理想主義者、夢想家と難ずる人もいるはずだ。その指摘は間違っていない現実離れした何かを追いたいのはいまの私にとっては切実な欲求なのだ。
予報によれば関東は21日くらいから著しい低温傾向になるという。日本海側ではその前日くらいから雪になり、所によってはかなりの積雪もあるかもしれないという。この時期にはよくあることだが、問題はその程度である。生活に支障が起きるほどの天災にならないことを祈る。
北陸に住んでいた頃は、この時期は結構スリリングだった。道路には融雪装置が付いているので、よほどのことがない限り大丈夫なのだが、問題は車庫から公道までのアプローチである。距離は大してないのだが、降り出すと除雪してもすぐにまた雪が塞いでしまう。私のような雪国ネイティブでない者にとって、手の抜きどころが分からず、無駄な力仕事が重なって疲労してしまうのである。
関東に転居してこの苦労はなくなったが、代わりに異常な乾燥と他人からのウイルス感染の可能性の多さに常に曝されている。どうも体力が逓減しつつある現状において、少しの油断もできない。冬は嫌いな季節ではないが、緊張感を要求されることにおいては他季とは違う。
今年の新成人はコロナ禍のためにいろいろなことを犠牲にしてきたようだ。さまざまな行事が感染予防の名目で中止になり、距離をとることばかり強制された。その結果、密なる関わりを阻害され、本質に迫る何かを失ったかもしれない。
君たちが失ったことは大きい。間違えないでほしいのは、人は情報の多寡のみで規定されるものではないということだ。情報にはそれに付帯する生の要素があり、それらは近くにいないと分からない。スクリーンに表示されない極めてアナログな要素こそが実は大切だったりするのだ。それは必ずしも電送されない。
コロナ禍に多感な時期を送った人たちにはこれからでも密な繋がりを持つ機会を持ってもらいたい。その多くは上手くいかない。理屈に合わないことの方が多いかもしれない。しかし、それがリアルな社会であり、私たちは理屈通りにはならない世界で生きていることを分かつてほしい。
ますます少子化していく日本社会の中で生きていくのは大変かもしれない。社会保障の問題は恐らく年配者で何とかある程度解決する時代が来るかもしれない。ただ、あなた方自体の生き方は自分で拓くしかない。この後に起きるかもしれない不可抗力に対抗する免疫は持っている世代と考えればいい。
今、どのスナックを食べますか ?
子どもの頃から好きでいまもたまに買うのが森永製菓のチョコボールである。この名称になったのが1969年ということだが、前身の商品を加えるとほぼ私の人生と同じ長さがある長期販売の菓子ということになる。
安価で美味しく、適量であることに加え、キャラクターアイコンのキョロちゃんのイメージが魅力的でこれまでにどのくらい購入したのか分からない。飽きが来ないことを考えるとかなりよくできた商品であると言える。
紙製容器の一部に隠されたエンゼルマークがあるとおもちゃの缶詰という謎の賞品がもらえるというのも子どもころは魅力的だった。ただなかなかエンゼルは見つからず、5枚集めなくてはならないエンゼルは集まる前になくしてしまい賞品にたどり着くことはなかった。
いい大人になった頃、ようやく願いが叶い、応募すると大きなキョロちゃんのカタチをした缶詰が送られてきた。中にはいくつかのアナログのゲームなどがあり、期待していたものとは違ったが、とても嬉しいものであった。子どもの頃に達成していたらさぞかし周囲に自慢していたに違いないが、それで何かを失ったかもしれないなどとも考える。やはりいい大人になって獲得したのでよかったのかもしれない。

でも、そういうおまけが目的でこのお菓子を買っていたのではないことは確かだ。何というか、チョコボールを食べられることだけで得られる安心感のようなものがある。移り変わる時代の中で一種の定点のような存在として私にとっては貴重な存在なのだ。