暑い毎日を過ごしていると段々身体感覚がおかしくなる。自宅の冷房はあまり効かないのでそれほどではないが、近隣の商業施設の空調は効きすぎていて、出入りする毎に気温差に驚かされる。まるでサウナのようだなどと考えてしまう。冷暖が逆なのだが。
カテゴリー: エッセイ
大衆を相手にするならば
韓国の女性タレントが日本で性的ハラスメントを受けたとの報道が出ている。この方の存在は全く認知していなかったし、今でもよく分からない。ただ、同胞が不愉快な思いをさせたことを申し訳なく思う。痴漢行為をした輩は速やかに罰を受けるべきだ。
日本人は、というより男という者は理性的には行動できない。男は抑圧的に日常生活を送っているものの決して理に従っているわけではない。だから、安易に男を信じてはいけない。あなたの国と同じなのだ。ファンは大切だが距離は置いた方がいい。
一言余計なことをいうなら、日本人は手の届きそうで届かない存在をアイドルと感じる。あなたの間合いは近すぎるのだ。日本で成功するなら、近づきすぎない方がいい。握手するのに大枚を要求するのは理不尽のようで意味がある。
昭和時代のアイドルは基本的には一人であり、事務所の意向に服従していた。キャラクターの設定からプライベートのあり方まですべて他人任せで自主性は感じられなかった。それがいいとは全く思わない。自主性のないのはよろしくない。ただ、一人のものの見方に固執しない社会を市場と捉える方法はできていたとも言える。
大衆を相手に商売をするためにはそれなりの方法論がある。自分の価値を保つためには距離をコントロールすべきだ。それさえできれば日本で成功することはたやすくなるだろう。
境川散歩
残暑というにはあまりに暑い日々だ。しかし、さすがに身体が適応してきたせいなのか午後に散歩に出かけた。かつてはジョギングしていた境川べりの歩道を少し歩いた。

この川は両岸とも護岸が施されており、一部を除いて水辺に近づくことができない。だからかえって魚や鳥にとっては安全地帯になっている。小鷺や鴨の類、そして羽根の美しい翡翠もみることができた。水は澄み、夏の暑さを瞬時忘却し得たのである。

変わった光景としてこれまで何度も紹介してきた水管橋がある。道志川と相模湖の水を東京に送る設備だ。川の上を他の川の水が渡る不思議な風景である。
グランベリーパークに吸収された鶴間公園に着くと文字通りの蝉時雨だ。桜並木の下のベンチでこの記事を書くことにした。木陰はやはり涼しい。

まもなく夏休みも終わりだ。何もしない時間を大切にしよう。
警報のあり方
マウイ島の山火事の被害の甚大さが連日報道されている。そして問題視されているのがサイレンが鳴らなかったのではないかという疑問である。昨日の報道ではサイレンを鳴らすと津波と思って人々が山の方向に避難してしまうと懸念されたからという当局の釈明があったということだ。事実かどうかは分からない。
非常時のネットが使い物にならないことは先の東日本大震災で経験した。一部のソーシャルメディアは生き残ったが電話やメールは機能しなかった。だから原始的だがサイレンは大事だ。音声で火事だと放送しても分からないこともある。パニック状況では聞き取りにくくなる。
解決策としては津波と山火事の警報音か鳴らし方のリズムを変えることが考えられる。そして、それぞれが何を意味するのかを繰り返し定期的に広告することだ。これは日本でも早急にやらなくてはならない。
被害を少なくするためには初動が大事だ。そのためにはハイテク以外の方法論も確立させておく必要がある。
エノコログサ
再び酷暑
送り火は再生の儀式なのかもしれない
かなり前に京都で五山送り火を見た。前日に銀閣寺の裏手の山を登ると、送り火のための準備が進んでいたことを思い出す。16日の夜、ビルの屋上から見たいくつかの送り火は厳かで印象に残った。
送り火はこの世に訪れた祖霊を冥界に送り返すためにともされるらしい。大文字のような大規模なものではなくても、かつては軒先で焚火する光景を見かけた。
学生時代、先祖祭りの行事をいくつか見たが、その多くに祭りの終了を印象づける所作があった。片付けることも含めて祭祀になっているのだ。祖霊には期間が終われば確実にお帰りいただかなくてはならない。送り火もそのためのものなのだろう。
祖霊を返し、再び褻の時間に戻ることは新たな日常の再開を意味する。祖霊祭りは、実はこの世に残された者たちの再生のための手段なのかもしれない。
足るを知る者は富む
景気の話であまりいいことはない。正確にはうまくいく人と、いかない人に分かれつつある。問題は後者の方が多そうだということだ。
個人的には多少つつましく生きる方がいい。今の生活は何でも手に入りそうな気配は見せるが実際には手が届かないということが多い。だから無理して買い求めて貧しくなっていく。これは現代社会が仕掛けた巧妙な罠なのだろう。
子供の頃を思い出してみると、必ずしも満たされていなかったのにも関わらず、何かがなしとげられたときの喜びはとても大きかった。そして何かが足りないときは自分で代替品を作った。それもブリコラージュで大体は済んだ。見た目は悪くても本人にとっては素晴らしい宝物になっていた。
へたに安価な既製品が手に入るようになってその努力をしなくなったのは残念な展開だ。ただ、一度金を出せば買えることを知った者は、すべての幸福の素を財力に求めようとしてしまう。そして、いま経済の不調が多くの人々を貧しくし、貧しいのにかつての財力第一主義から抜け出せない。

貧すれば鈍する現状から脱するにはどうすればいいのだろう。古人は貧の中に楽を見出すことを勧めている。物質ではなく、精神的な楽しみを見出そうとするのである。足るを知る者は富むとはよく言ったものだ。これからの生き方は足るを知ることを目指すことにしたい。
熟考すること
何かをするときにその意味を深く考えるということは大切だ。意味を考えずにやることはときに大きな失敗を招くばかりか、周囲に多大な損害を与える。それは分かっているが実際には考えずに行動することの方がはるかに多い。
意味を考えていたら行動に移せない。出遅れれば制せられる。そこで受ける損失を恐れて考えずに行動してしまう。中には習慣化して行動を半ば自動化していることも多い。訳を考えずに行動することは仕事をこなすスキルともみなされている。
でもやはり、時々立ち止まることが必要なのだ。無批判に他人の言われるがままに過ごせば、いつか悪意のあるものに操られるかもしれない。そのような前例は歴史の中でいくつもある。沈思熟考のときを設ける必要がある。

