黄砂

 今年は黄砂の量が多いとのこと。花粉症の私にとってはまた防がなくてはならないものが増えた。緊急事態宣言は解けるようだが、別の意味での緊急事態は暫く続く。

 黄砂は中国などの砂漠地域の砂塵が風に飛ばされたものという。その総量は計り知れない。一点に絞れば微量だが、人体にも機器などの人工物にも甚大な被害を及ぼす。

 自然の循環の一つではあるが、人智では制御できないものがあることを思い出させてくれるものでもある。

読書量

 読書量といわゆる国語の能力はおそらく相関関係があるはずだ。たくさん本が読めるということは、文字から内容を理解できているということであってそれだけで読解力のある証だろう。

 ただ、本を読まなくても国語の点数がいい子どもはいくらでもいる。つまり、読書量は国語の点数を取る必要条件ではない。点数を取ると断ったのはあくまで従来の大学入試のような問題を想定しているからだ。より深い読解をここでは考えないことにする。

 国語の試験で聞かれることは論理の展開を把握できているかどうかだ。だから極端なことをいえば、内容が本当に理解できていなくても正解は書けてしまう。国語の成績はいいのに、その知識の深みが感じられない人がいるのはそのせいなのだろう。

 読書量は国語の成績のためというより知識や知恵の厚みを担保するものとして重ねるべきなのだ。

短冊

 スマートフォンを使うようになって、フリック入力にもすっかり慣れた。このスタイルは昔の人がみたら短冊を持っているかのように見えるのかも知れない。

 昔から短歌や俳句を作ってきた。いまでも思い出しては作り続けている。スマホに横書きのデジタル文字で歌や句を書くことは抵抗感が消えないが、いつでも書いてなくさずにいられることは便利だ。

 俳句のブログは実はそこそこアクセス数がある。きっと時代が変わっても、共通する情緒があるのだろう。

自己開拓

 何事も効率よく行うことが賢い選択のようにいわれる。ただ、自己開拓の大切さは忘れてはいけない。

 できるなら無駄なことはしたくない。そう思うのは人情というものだ。この考え方が新しい何かを生み出して来たのは確かだ。その事実をないがしろにはできない。ただ、いつでも最短距離で行くことがいいとは限らない。失敗のなかから生まれるものもある。

 いつも思うのだが、失敗はそれを寛容する社会がなければできない。そして、失敗を前提とした生き方は自らの勇気が試される。自己開拓をすることの苦労と楽しさは今の自分にもっとも必要なものである。

旧弊

 最近の自分の中のキーワードが「旧弊」だ。古臭い言葉自体がすでにその雰囲気を醸し出している。私の生きてきた過去を否定したくはないし、するつもりもない。ただ、何となく前例に倣うことは現状を維持しているどころか、確実に後退していることに繋がっている。

 何か次の段階に進むためには捨てなくてはいけない要素もある。時に痛みを伴うことがあってもそれは仕方がない。新しいことを始める覚悟とはそういうことなのかも知れない。

 体力と気力の衰えを感じる最近ゆえ、切実な問題として旧弊を早めに打破しなくてはならないと感じる。恐らく今やらなければもうできなくなるのだろう。

集中のための遮断

 最近全く集中力が落ちている。気力の問題が一番だろうが、デジタルデバイスがなにかに向かう気持ちをかき乱しているというのが事実だと考えている。最近読んだ『スマホ脳』という本にも書かれていたが、スマートフォンはその存在を意識するだけで人の集中力を奪うのだという。たしかにそのような事はある。

 今朝もいろいろなことをしようと考えていたのに、ネットに向かった瞬間からあれこれ見たいものが発生し、一つを見ると関連したものへの誘惑が起きてしまう。その連鎖がいつまでも続いてものごとがはかどらない。これはデジタル分裂症とでも言うべきものなのだろう。

 わざわざカフェで仕事をする人はそうした誘惑を自分に不自由な条件を課すことで集中力を保とうとしているのかもしれない。何かに向き合うために、他の多くを遮断することが今私達がしなければならない生活のスキルであることは間違いがない。

分かれ目

 卒業式の定番曲「仰げば尊し」の歌詞を分かれ目と誤解していた時期は長い。係り結びの法則を学んだあともこの歌詞に思いを致すまでには暫くかかった。

 ただ分かれ目説にもそれなりの説得力がある。卒業を気に人生の分節点を意図的に作りだし、現状からの脱却をはかるというのはむしろ卒業の意志にふさわしい。そう思って歌唱している人は多いのではないだろうか。

 慣れ親しんだ学舎と同窓の仲間との訣別を覚悟する点においては当たらずといえども遠からず。それぞれの思いで歌えばいいのかもしれない。

記憶

 震災記念日を過ごしたが、10年前本当に不安だったのはそれからの日々だった。福島を始めとする原発や火力の発電設備に支障があり、エネルギー不足に直面したからだ。

 街頭が部分的に消され、電車内の照明も間引きされていた。広告用の電球は優先的に外されたようで結果として街は暗くなってしまった。

 毎日放射線の量が発表され、それがどの程度深刻なものなのか理解できないまま、小数点以下の変化に一喜一憂していた。

 終わらない余震、ソーシャルメディアに出ては消えるデマなど、心を揺らすものは止まらなかった。地震発生後の経過を振り返ることは苦しいが、今後のためにはやっておかなくてはならない気がする。

10年目

 東日本大震災から今日で10年経ったことになる。震災発生時は職場にいてその日は帰宅できなかった。翌日部分開通した電車で途中まで行き、あとは歩いて帰宅した。東京でもかなりの揺れがあり、近隣で死者が出た。ただ、自宅の家具はほとんど無事で不思議なほどだった。

 恐怖はその後にやってきた。福島の原発事故や、各地の発電所の停止による計画停電、ライフライン寸断の脅威などいろいろあった。それらを乗り越えてきたことは考えてみればかなり歴史的なことだった。

 そしてパンデミックが起こり、いまに至る。私たちの生きる世界はいつもなにかが起こり、それへの対応が迫られる。この国に住む限り、グローバル時代に生きる限り、この事実からは逃れられない。震災記念日はそれを再認識する一日なのだ。

使わないなら

 古典の学習が無意味だという人はかつてから一定数いる。特に学習に興味を持てず苦しんだ人に多い。学生たちの愚痴として、また大人の思い出話の一環として語られることが多かったが、最近、影響力のある人までが発言するようになったのは残念だ。

 古典文学の学習は文化の継承に不可欠というだけではなく、母国語の深層部を知るきっかけになるものだ。例えば「うつくし」が可愛らしい意味を中心に用いられていたことを知ることで、現在の「かわいい」文化の淵源がわかる。考え方の型や、人生観の変化も学ぶことができるはずだ。

 学校の古典教育が入試科目として位置づけられ、表層的読解に終始してしまっているのがいけないのかもしれない。このことは回を改めて述べてみたい。