書店の意味

 近隣の書店が閉店してしまった。駅ビルの中にあって便利であったのに残念でならない。電子書籍を利用することも多いが、大切な本はやはり冊子で購入したい。それがどんどん難しくなるようである。

 小規模の書店は近隣からほぼ消滅してしまった。いくつも支店をもつ中規模以上の本屋が残り、それも次第に数を減らしつつある。読書をする人が減ったのに加えて、ネット注文ができたり、電子書籍が普及したりで、この業界には逆風が吹き荒れている。

 自分の本を所有することの意味はデジタル化社会でも変わらないといわれる。知識の吸収という面において紙面メディアは優位にあると言うことはデジタル教科書問題でしばしば議論されている。

 その意味で書店が消えていくことは残念だ。損失というしかない。

定点観測

 かなり前に同じ場所から同じ方向の写真を取り続けたことがある。定点撮影を気取って四季折々の変化を比較して楽しんでいた。

 定点観測はいろいろなことを気づかせてくれる。よく考えれば変わるのは風景の方だけではない。例えばこのブログのように毎日考えることを綴っているのは、自分という定点がある。そこから見える世界は日々刻々と変化しているが、それを見ている自分も動的平衡を保ちつつ変わりゆく存在だ。

 ブログを定点とすれば、変わりゆく世界とともに自分の変化も記録されていることになる。くだらない文章を連ねる意味があるとしたら、己の定点観測をすることにあると言える。暫く続けていきたい。

マスク、フィルター

 近隣の動物園に行ってきた。小動物が中心の市営の動物園で入場料もいらない。珍しい動物はいないが、間近に見られるのがよかった。

 鳥類の展示にはみなフィルムが張り付けてあり、外気を遮断していた。掲示によると鳥インフルエンザ対策という。人間はコロナウイルスのためにマスクをつけ、鳥は透明なフィルムで囲まれている。まったくこの世は油断ならない。目に見えないものに対してこんなにも怯えて過ごさなくてはならないことに少々疲れてきたのは事実だ。

 まだ我慢しなくてはならないことは分かっている。その我慢が多くの人を救うことも。しかし、理解することと感情とは別にあるようだ。やり場のない悲しみだ。飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。鳥もダメだった。

偏見

 脳に事実を曲折する機能が織り込まれていることが最近読んだ本に書かれていた。偶然だが同じような言説に出会うことが多い。これをバイアスと言ったり偏見と言ったりしたあるいは錯覚と言ったりしている。

 このような現象は脳の不完全さを示すだけではないようだ。むしろ、現実の生々しさを軽減して受容できる形にするために遺伝的に形成されたのだという識者もいる。首肯すべきだ。

 ただ、森の中で生きてきた先祖と、機械に多くの作業を任せている現代人とでは生き残るための戦略が異なる。にもかかわらず錯視の中で生きるのには問題があるのだろう。

 少なくとも自分の見たこと聞いたことが世界の真実だとは思わないようにしなければ。錯視の風景をそれなりに楽しむことが必要だと思う。

忘れる効用

 最近はいろいろなことを忘れてしまう。大げさに言うと脳の老化は始まっているのかもしれない。忘れることは悲しい。辛くもある。でも別の見方をすれば幸せなのかもしれない。

 自分でも反省しないようになっていると感じることがある。同じ過ちを繰り返しそれでも改めない。これは恐らく脳の老化が関係しているのだろう。ただ、そのために深刻に悩みこむことも少なくなったように感じる。鈍さがストレスを和らげているのかもしれない。

 もしそうならば感度の落ちた脳はそれなりに機能を果たそうとしているのかもしれない。

延長されて

 東京などの関東の緊急事態宣言は2週間延長されることになった。医療機関の負担を減らすためだという。一時感染者数が激増し、今も毎日増え続けていることを考えれば仕方ないともいえる。

 ただ、後世のために記せば東京の街は人出に溢れている。もちろんかつてのような超過密ではない。普通の過密状況はここ数ヶ月変わることがない。ほぼ全員がマスクを着用している写真は残しておく必要があるかもしれない。いやこのあとも状況は変わらないのだろうか。

 この延長を東京オリンピック開催の方便と考える人は多い。現状ではかなり危ういがやることはやっているというメッセージを世界に発信したいのだろう。そうなればいいが。

 いずれにせよ暫く忍耐だ。

節日

 3月3日はひな祭りとして日本では女子の成長を祝う日となっている。本来は古代中国の陰陽思想に基づくもので、奇数のぞろ目の日が節日として特別扱いされていたのに基づく。

 古代の宮廷では上巳の節句とも言われたようだ。曲水の宴なども行われ、風流な一面もある。旧暦のこの日は今より暖かく、様々な花が開く春の一日だったはずだ。その根源は禊や祓いをすることであったという。日本の宮廷には定期的にこうした行事がある。

 科学の進歩により簡単には穢れは消えないことがわかってきた。しかし、古人が年に何度も禊を繰り返したように、何かにすがって生きるのも一つの知恵なのかも知れない。

謙虚

 最近の自分に欠けているのは謙虚さであるとは自覚している。この歳になると一応のことはできるつもりになっている。実際に大抵のことはできている気になっている。

 ただ、何事もよりよいやり方があるものであり、それを知る先人も多い。その先駆者の業績に学ぶことは何より大切なことだろう。学ぶことに消極的になっている己がいる。

 その原因が謙虚さの忘却にある。周囲の人から学び、読書を通して知見を知り、またブロガーの経験談からも学ぶことが多い。そういう触覚を鈍らせないことが私の今の課題だ。

年度末月

 日本では4月を学年の始まりとする関係で、年度の終わりを3月と考える習慣がある。春が顕著になる月を年度替わりにすることは精神風土と結びつき定着している。

 3月にはいろいろなことが行われる。その中のまとめにあたるものは最もスリリングなものだ。連続していく日常に無理やり切れ目を入れて何らかの形に仕立てる。かなり強引で無理な作業が施される。

 そのためには切り捨てなくてはならないことがあり、急遽作り出すこともなされる。その矛盾を一気に乗り越えなくてはならない。それが強いられ、また許されるのが年度最後の月なのである。

昔の地形

 近隣の考古学資料を主に展示している小さな博物館に行ってきた。市が開設したもので入場料は無料である。展示によるとこの地域はかなり古くから住居遺跡があり、それが重層的に発掘されているというのだ。人間が生活するのには恵まれた地形であることになる。

 その地形だが過去の史料から見ると時代ごとにおおきく変わっていることがわかる。かつては河川の流域の変遷が地形を変えていたが、近代に入ってからは宅地造成や区画整備などでおおきく地形が変化していることが分かった。いま見る姿がそのまま過去に遡れないことを知ったのである。

 歴史を考えるとき、いろいろな考証は必要だが、大前提としての地形の変化を考慮に入れなくてはならないことを痛感した。現在の風景もこの先さらに変化していくに違いない。