急に夜の気温が下がったために、寝具の選択を誤ったようだ。肌寒さのために安眠ができず、何度も目覚めてしまった。
季節の変わり目は生活体系も変えていかなくてはならない。着るものの選択は大切な要素であり、これに失敗すると体調を崩すことにつながる。毎年繰り返していることなのに、いつも失敗している。
東京は秋雨前線に包まれてこのところ雨ばかり、つい最近まで騒がしかった蝉がいつの間にかいなくなっている。
日々の思いを言葉にして
急に夜の気温が下がったために、寝具の選択を誤ったようだ。肌寒さのために安眠ができず、何度も目覚めてしまった。
季節の変わり目は生活体系も変えていかなくてはならない。着るものの選択は大切な要素であり、これに失敗すると体調を崩すことにつながる。毎年繰り返していることなのに、いつも失敗している。
東京は秋雨前線に包まれてこのところ雨ばかり、つい最近まで騒がしかった蝉がいつの間にかいなくなっている。
どうしてもいまはできないと思うことがある。それはできないと言いたいがいえない状況に置かれることも多い。できないことはできない。これは真実だ。
こういう場合、私は強い劣等感に苛まれる。なぜできないのかと自分に詰問する。当然答えはない。
もう一人の私が助け舟を出す。できないならばやらなくてもいい。君には向いていないんだ。やらない方がいいんだという。するとさらに別の私が逃げるのは卑怯だという。
いろいろな自分がひとしきり言い合ったあと、結局できないことはできない。何か別のことをしようという具合になんとなくまとまる。長い時間をかけてようやく重い腰が上がる。残っていた自分の分身が歩き始める。
行政のデジタル化のシンボルとして、ハンコ文化の廃止とデジタル署名促進とがある。稟議書に並ぶ肩書ごとの押印の列は日本経済界の悪癖として捉えられることが多い。
もっとも押印の文化は古代から継続するものであり、近代社会にのみ責任があるわけではない。印鑑の持つ権威を共有する人々にとっては便利なアイテムであることは確かだ。また、複数の関係者に文書を共有し、納得させるという工夫として機能してきた。言質をとるよりずっと強制力のある同意確認として。
デジタル化することは私も基本的に賛成だ。文書を回す時間のロスは蓄積すれば相当な長さになる。ただこれは効率だけの話で終わらない。LINEが普及した一因としてスタンプ機能があった。自らの感情を既定の型で表現することが習い性となっている日本人の根元にふれる意識改革が必要なのかもしれない。
既視感というものがある。この経験はかつてしたことがあるというものだ。大抵は思い違いか類似した状況との混同ではないかと考えられる。しかし、程度のさこそあれ、私はこの錯覚で随分助けられている。
新鮮な体験というものは言葉としてはそれはそれで魅力的な響きがある。ただし、実際にそれに直面するのは相当の覚悟と忍耐力がいる。どう対処していいのか分からないのは不安だからだ。
そんなとき、これは過去に経験したことがあると考えること、もしくは思い込んでしまうことは、大きな安心に繋がる。傾向と対策は把握できていると判断することができるのだ。
実際はどんなことも一度限りで同じことは二度と起きはしない。それを繰り返しと考えることは、生きるための知恵に属するものだ。過度な緊張から逃れ、つかの間の余裕を演出することで次のステップが得られるのだ。
だから既視感を軽視することは止そうと思う。活用すべき幻想なのだから。
今朝は時折小雨が降る重い曇天になっている。予想最高気温は20℃前後だ。涼感というより相対的に肌寒さを感じる。
天気予報によるとこれから南海上を台風が通過するらしい。上陸の予報は劣勢になったが風雨はそれでも激しくなる可能性が高いらしい。嵐が季節を一層進めることは経験上知っている。彼岸過ぎてもう秋も半ばだ。
やらなくてはならないことがいくつかある。それを始めるきっかけにしよう。秋の方が集中できることもある。
秋分の日が敬老の日と連休になるなどかつては考えられないことであった。おかげで土曜が休みの人にとっては4連休となった。私は土曜勤務なので恩恵はなかったが。人はシルバーウイークともいうそうだ。
気がつけばこれからは夜の長さの方が長くなる。つるべ落としで昼は短くなっていくというのだ。季節の変動を実感できることは私たちにとっては何かを見直すきっかけを与えてくれることになる。季節という永遠の循環をとおして自分の生の有限を見直すことになるのだ。
そういえば彼岸の中日でもある。最近は死後の世界など信じなくなっている私だが、死後に何らかのストーリーを考えたくなる気持ちにはなる。そういうことを思うのも季節の変わり目のもたらすものなのであろうか。
今日は敬老の日である。日本のみならずどの国でも年配者に対する敬意を示す気持ちはあるはずだ。日本の場合は高度高齢社会であり、かつて老人に分類されていた人でも今は立派な現役であることから、この言葉の意味もずいぶん変わったものになっている。
源氏物語では光源氏は40歳を迎えたことから人生が暗転し、波乱にとんだ展開になる。かつては40歳は人生の転機であり老齢の始まりと認識されていたようだ。織田信長は幸若舞「敦盛」で人間50年と謡い、人生のスパンをそのくらいに見ていた。古希は70歳であるが、現在は日本人の平均寿命が女性で87.45歳、男も81・41歳(2019年)であり、100歳まで生きる人も稀ではない。
老人を引退した世代と考えるのはどうも違うようだ。少なくともこの国においてはそんなに早く老け込むことはできない。健康年齢が終わるまでは労働人口に属する必要があるようだ。そのための生き方をしなくてはならない。
アメリカ大統領選挙が近づいている。この時期になると残念なことがある。それは相手陣営に対するネガティブキャンペーンが始まることだ。
明らかな非を指摘するのならいい。しかし、大半はいわゆる粗さがしであり、言わずもがなの内容も混じる。また誰が言ったのか分からないようにして言う巧妙な悪口雑言も混じる。それが民主主義の必要悪のように感じさせられてしまうのが実に残念だ。
もちろん世の中は善意だけではできていない。どんな善人に見える人にも、見方によっては悪事に見えることはいくつも行っている経験はある。そのどちらかを誇張することは様々な問題がある。特にネガティブの方向に延長することには明らかな悪意がある。それがまかり通るのが、そしてあたかも正義であるかのように行われるのがアメリカ大統領選挙であるようだ。とても辛い事実である。
もちろん民主主義を生きる私たちはもっとタフにならなくてはならない。巧言令色に包まれて本質を見失うことがないよう常に現実に向き合うことが必要だ。主人公が何者かではなく、自分であるためには清濁を併吞する必要があるのは事実だ。
あっと言わせるような感情操作に騙されないこと。本当に必要なのは何かを常に忘れないことが大切だ。それは時々思い出さなくては忘れてしまう覚悟なのかもしれない。
見た目で人は判断され、第一印象は大きな影響をもたらす。いろいろな機会にそのような内容の言説を耳にする。経験上もそのようなことは確かにある。
だが、視覚は見事に騙されることもある。いわゆるフェイクの技術は日進月歩であり、厚化粧はリアルだけでなくバーチャルの世界でも容易にできるようになった。デジタル加工に一定の時間がかかっていた頃はまだ身構える余裕もできた。それがリアルタイムで行われるともう区別はつかなくなる。
自分の皮膚の上にホログラムを貼るデジタル化粧を幻想してみた。スイッチを入れると自分の容姿が瞬時に変わるという夢だ。肌の状態だけではなく、部品のプロポーションまで変更可能だとすれば、もはや変装そのものである。世界に美男美女が溢れ、おかしなキャラクターが歩き回る。そんな妄想だ。
そういう事態が一般化したあと、私たちの視覚に関する概念はどうなるのだろう。百聞は一見に如かずが通用しない時代はすぐそこに来ている。
生徒諸君には目標を決めてものごとに取り組むことを勧めることが多い。これには訳がある。ただ、目標がなければだめな訳ではない。
何かの目標を具体的にイメージした方がやる気が出るのは多くの人にあてはまるだろう。何点とるかとか、平均以上とかいう形なき目標ではなく、数学を克服して経営者もしくは投資家になる。文章力を上げて何かを執筆する。なんでもいい。私にとってはその方が内的動機づけに結びつく。
ただし、目標を持つのが義務とは思わない。人により場合はよっては目標にとらわれず、その場その時に関心があることに取り組んだ方がうまくいくこともある。なんでも目標達成型行動パターンにあてはめるのは実態にあっていない。
本当に大切なのは主体的に行動することであり、目標設定はその手段の一つにすぎない。