びよん

 電車の放送で英語のアナウンスが聞かれるようになった。今年行われるはずであったオリンピックに向けての対策だったのだろう。なかには中国語や韓国語の放送も入れる場合もある。多くは録音された音声だが、マイクを使って英語でアナウンスする車掌も時々いる。

 こうした取り組みはぜひ続けてほしい。日本のホスピタリティを形として示すだけではなく、語学への関心を高める契機になるからだ。特に車掌が直接話す英語を聞いた若い世代は、学習意欲を向上させるはずである。

 かくいう私はまるでできない。時々乗る路線の英語放送でビヨンとしばしば言うのが印象的だったが、かなり最近まで聞き取れなかった。どうやらbeyondらしい。分かると結構使われていることが分かった。こういうきっかけにもなる。身近に外国語を話す人がいること。それが自分の利害に関わることは語学上達に欠かせない。

上着

 今日から上着、ネクタイを着用することにした。まだ少し暑いが気分転換のための手段である。

 上着を着ると便利なのは収納が増えることだ。ポケットにはいろいろなものが入る。だからいろいろ入れてしまう。これにはよくないこともある。どこに入れたかわからなくなって大捜索を繰り返してしまうのだ。これを避けるためにいちおう一歩どこに何を入れるのかはだいたい決めている。しかしそれでも確実にエントロピー増大の法則に支配されてしまうのだ。

 上着をつける生活は個人的には気にいっている。けじめのようなものが具現化できていい。ただこれになれるまでは今年も無駄な動きを繰り返すことになりそうだ。

9月折返し

 今日は15日であり、9月も半分終わったことになる。今朝はかなり涼しく感じる。秋は進んでいるのだ。

 自民党の総裁は大方の予想通りに決まった。金融緩和による日本経済の延命策をどこまで続けるのか。根本的改革に着手できるのか。少しだけ期待はしているが道は容易ではなさそうだ。

 季節が確実に進むように、社会のあり方も常に変動している。それを見通す眼力と、不屈の実行力とがいま求められていることなのだ。

漫画と老眼

 残念ながらかなり老眼が進んできたことを実感している。近視なので遠くを見るには眼鏡が要り、近くは邪魔になる。実に面倒な状況だ。しかし、気づいたこともある。ものの見方が少し変わったのだ。

 絵を描くときはラフな描写から始めるという。クロッキーというものもあった。ぼんやりと位置関係だけを捉えるものだ。その状態でも少なくとも描いた本人は画像が再現できる。そしてこの状態は眼鏡を外してみている私の視覚と似ている。

 つまり、はっきりとはわからないがそれと知れる程度の画像を私は見ていることになる。それを紙の上に描けばいいのだ。そう考えると絵が描けるようになる気がしている。老眼になって失うものは多いが、得られることもまだあるはずだ、

再び暑く

 再び暑さが戻って来た。ただ空は薄い雲が覆っている。またいつ降るかわからない。季節の変わり目なのだろう。

雲の多い東京の空

夏日でも

 今日の東京の予想最高気温は25℃だそうだ。夏日と分類される一日になりそうだが、これまでの暑さになれた身体にとってはかなり涼しく感じる。ただ、熱帯低気圧が湿度を絶えず供給しているとのことで爽快さとは程遠い。

 気がつけば9月も中旬になっている。おそらく来週には肌寒さを覚える時間帯もくるのだろう。ここ数年は夏が長く秋が短いという感覚がある。気候変動なのか何なのか分からないが、何かが起きていることは確かなのだ。

マルチタスク

 コンピュータのOSのMS−DOSを始めたころ、マルチタスクという言葉があるのを知った。複数の作業を同時にこなす便利な機能を理解するまでには結構時間がかかった。機能の使いにくさというよりはその概念に私がついていけなかった。

 Windowsの時代になり、さらにコンピュータの性能が向上するとこれは当たり前になった。何かをやっている裏で別のことをするというのが当然の毎日になった。パソコンの中だけではなく、私たちの日常は常にマルチタスクで動いている。しかし、それを意識するとなぜかうまく身体が使えなくなる。

 紙面やアプリにやるべきことを書き出して頭を整理することはあるが、それをすることによってマルチタスクができる訳ではない。むしろ、それぞれの業務が断片化され、繋がりが消えてしまう。私の頭は意識的なマルチタスクにはいまだについてゆけてない。

 ならば、そつなくすべてをこなすという考え方を止めた方がいいのではないか。最近はそう考えるようになっている。集中して何かをやる方が結果的にうまくいくと。

警報はご遠慮なく

 台風10号に関する警報が行き過ぎだったのではないかという話があるようだ。確かに80メートルの風は吹かなかった。

 しかし、現在の予報技術には限界があり、規模も進路も来てみないと分からない。最悪の事態を予測して警告するのは責任者の当然の行動だ。

 問題なのは警報慣れしてしまうことだ。我が国はさまざまな天災を受けるリスクを抱えているが、人々はかなり冷静に生活している。それは素晴らしいことだ。ただ、常にいろいろな可能性を考えておくことは、自らの宿命に勝つために不可欠だ。

自分が

 自分などいなくても世界は変わらない。そう考えて人生をはかなむ経験は誰にでもあるだろう。私もかなり頻繁にそういう思いになる。いわゆる魔が差すときは絶望感という色合いを帯びた感情が目の前を覆うことがある。そんなときはこういう風に思うことにしている。

 たしかに自分がいなくても世界は全く変わらないかもしれない。でもはたしてそうだろうか。自分という存在は世界に何も影響を及ぼしていないのだろうか。おそらくそれも違うのだろう。自分の価値観に沿うか沿わぬかは別としてきっと幾分かの影響を及ぼしているに相違ない。それがたとえ微々たるものであったとしても。たとえはっきりとは分からなくても、そのために世界は動き、場合によっては他人も動かす。

 自分の存在意義を考えるときにはそういう風に考えることにしている。私などいなくても構わないのではなく、私がいるために世界に何らかの影響が出ているに違いないと考えるのだ。私の場合の自我意識の調整はこうしてかなり恣意的に行っている。

価値を与える

 いま必要なのは価値の付与を行うことなのだろう。何もない、意味がないと思われているものに価値を与えることによって新たなチャンスが生み出される。それが昔から行われてきた革新というものの本質なのだろう。

 日常生活に埋没しているとどんどん見えなくなっていくが、実は毎日は非常に新鮮でそこにはなにがしかの価値がある。その価値を見出し、ラベルをつけて普遍化すれば人々が幸せになれる何かが見出されるのかもしれない。価値を見つけ、価値を与えることこそ現在社会においてとても大切なことなのであろう。

 そのためには日ごろから毎日をよく観察していかなくてはならないだろう。そして、日々の行動を悲観的にとらえるのではなく、むしろ宝の山のような魅力的なものとして観る態度が必要になってくる。それがもっとも大切なことであり、そこからいろいろなことにつながりが出てくるのだ。価値を与えることの重要性を改めて考えるのである。