北千住

 北千住には小学校に上がる直前まで住んでいた。親が東京での生活を始めた借家があったのだ。

 年齢が年齢だけに覚えていることは少ない。隣に同年齢の少年がいたのは心強かった。下町ゆえいろいろな住民が雑居していたようだ。近くにほうきを作っている工場があり、演歌歌手の住まいもあった。ヤクザなので近づかない方がいいといわれていた家もあった。当時相当売れていたか歌謡曲の作曲家の大きな屋敷があり、白い犬を飼っていた。その犬に噛まれて嫌な思いをした。入り組んだ細い道は蝋石で落書きする遊び場になった。ローラースケートをして転んで擦りむいた。

 断片的な記憶が浮かぶ。中には混同したり、事実とは異なることもあるのだろう。いま北千住はかなりきれいになり、かつての場末感はなくなっている。

短歌

 二十歳前後から断続的ながら続いているのが短歌の作成だ。何年経ってもうまくはならないががそれがこの文芸のいいところでもある。満足してしまえばこんなにも続くことはない。

 短歌は私にとっては感情のスケッチのようなもので詳細な色塗りはできないがある程度の視点の確定と塗代の確保はできる。展開を気にせずにとりあえず心の点描をしておくというときに役立つ。

 こういう考え方は私のブログの書き方にも影響しているかもしれない。毎日何かを書くことは欠かさないようにしているが、記事相互の一貫性とかテーマとかはほとんど気にしていない。場合によっては以前書いたことと矛盾しても平気でいる。

 こうした無責任な書き方は時々の精神状態のスケッチと考えることで弁明している。

警戒情報

 コロナウイルスは変異種が拡散しつつあるということだ。感染力が上がり、若年層でも重症化する確率が上がったという。ウイルスのように短いサイクルで再生産されているものは変異が起きやすく、そのなかには強毒化するものも含まれると聞いている。ここまで蔓延すると簡単にはウイルスの進化を止められない。

 その結果、再起動が期待されていた社会活動が景気よく始まることができなくなっている。多くの人が気づいているようにafterコロナはなく、withコロナの時代に入ったといえる。どのように厄介な病魔を飼いならしていくのかを考えていかなければならない。

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多動

 最近つくづく思うのは私はマルチタスクには向かないということだ。同時に複数のことをやろうとするとすべてが中途半端になってしまう。

 電子媒体を使い始めた頃からマルチタスクが求められるようになった。いろいろなことを並行して行うことが機械では簡単にできてしまう。それを操作するためには自分もそれぞれの仕事に関与しなくてはならない。

 そこでオーバフローが起きてしまう。どうしようもなくなって作業が止まる。もしくは不十分なものになる。

 多動に対応することにあきらめの気持ちが出ている。効率が悪いといわれても一つずつ片付けるしかない。

伝達

 教育とは何かを考えるときいつも考えることがある。伝えることの方法は多様であるということだ。

 私自身の体験からすると学びの基礎は学校にあったとしても、主体的な学びの発動は自己の中にあったように感じる。何かを学びたいと思ったとき学びは効果を発揮する。

 教育とは何か。知識の伝達はもちろんだが、それは本当の目的ではない。大切なのは学ぶことの意味を気づかせてその行動を発動させることだ。人によりそのきっかけは異なる。それを注意深く探し、ボタンを押していく。教員の役割はそれかもしれない。

春の雨

 春の雨の一日になりそうだ。路面が少しずつ湿っていく。強くはないが確かな雨だ。傘を開くか迷っているうちに髪も上着も露のベールを被される。存在を主張しない湿りは油断は禁物とささやいているかのようだ。雨の向うに今日の生業が待っている。歩みを止める余裕はない。春の雨に少し感謝したい。自分の位置を教えてくれたのだから。

花水木

 街路樹の花水木が咲いている。桜に比べるとしっかりと咲いているように見える。実は花びらと考えられているのは苞といわれるもので、実際の花はその中心にかなり小さく集まって咲いているようだ。

 この花はアメリカヤマボウシという名もある。アメリカが原産地だ。東京がソメイヨシノを送ったのと交換で植樹されたというがすっかり日本の春の風景にとけこんでいる。

 ハナミズキのあとにはツツジが続く。すでにもうかなり咲いているようだ。

ノートに

 ノートといっても紙面のもののことをいう。そのノートにいろいろな情報なり、思い付きを書いたものがたくさん並んでいるというのは私の思う理想であった。知識なり経験なりが物理的な形となって蓄積していくというイメージがあるからだ。

 しかし、現在は書くためのノートがたくさんある割には埋められていない。何もたまっていないのだ。それはとても残念であるし、なぜか悔しくもある。このブログのようにデジタル上に書き残したものを集めるとおそらくそれなりの分量にはなる。私の場合は質より量だ。内容より継続が目標になっている。

 それでも大学ノートやらコクヨの野帳やらに何かを書き続けたいという思いは常に持っていて鞄の中には何冊ものノートがある。それらは書かれることなく、自宅と職場やその他の場所の間を移動し続けている。いつかはそれが活用されることを期待しているのだが。

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春寒し

 ここ数日、季節が後戻りしたような寒さだ。ソメイヨシノはすでに散り、今は八重桜が見頃だ。近隣の小さな神社の境内にはあふれるほどの花が道行く人の目を惹きつけている。すでにツツジも少しだけ開き始めた。それなのにこの寒さである。

 もっとも絶対的な気温はさすがに4月のものだ。それを寒いと感じるのはそれまでの気温が高めで推移していたからに相違ない。つくづく体感とは相対的なものであると思い知る。このような過渡期を過ぎて季節は進んでいくのだ。

 

葉桜

 ソメイヨシノはあらかた散ってしまった。これからの状態を葉桜というが、実はこの方が桜の木としては普通なのだ。

 葉桜は残念なという意味がその初期には被されている。落花した後のさびしさと重ねられることも多い。しかし、この葉こそ魅力的なものだ。若葉の鮮やかさも、夏の日を遮るたくましさも、病葉も痛ましさも、花以上に鮮やかな紅葉もみなこの葉のもたらすものだ。

 かつて庭のある家を借りたとき、玄関前の桜に大量の毛虫が発生して慌てたことがある。桜はいろいろ手をかけていかなければならない樹木だ。それも含めて愛しい。