うなぎ

鰻とりめせ

 今日は土用丑の日であった。この日にうなぎを食べるのは江戸時代の販促戦略であったと言われる。この季節にうなぎを食べるのには栄養学的にも根拠はあるらしい。実はこのうなぎという魚には様々な背景がある。

 万葉集には武奈伎として登場するうなぎは、家持によって滋養豊富な夏の食材として奈良時代から認められていたことを知ることができる。ところがこのうなぎの生態には不明なことが多く、産卵は南洋の深海であり、稚魚は黒潮に乗って日本沿岸に漂着する。さらに大半は河川を遡り、淡水魚として過ごす。産卵期に再び海に戻り深海に次世代を産むというのである。泳ぎが決して上手いとは言えない魚がどうして地球規模の移動をするのか。分からないことが多いらしい。

 養殖として知られるうなぎの卵からの育成はできないらしく、沿岸地域で稚魚を獲ることにかかっているという。乱獲と気候変動など複数の要因が重なり、ニホンウナギは絶滅危惧種とされている。ここまで述べてきて分かるようにニホンウナギという名称には自己矛盾があり、決して日本だけの魚ではない。

 養殖されるうなぎの最近は輸入されるものが多い。養魚段階で問題のある餌や薬物の使用もあると言われ、食の安全性は確保できていない。何か昔と味が違うと感じるのはそのせいかも知れない。もっともこれには科学的根拠はない。

 今年のような異常な暑さにあってはうなぎ料理は救いのような気がする。平賀源内の知恵の後に訪れたこの魚の境遇の劇的変化は、希少種となってやがては消えていく結末に至るのだろうか。暑気あたり気味の頭脳では上手くまとめることはできない。

読むのを見せる

その本おもしろい?

 読書をしない子どもたちが増えている。読解力がとんでもないことになっている。そういった話は世上に溢れている。そして、現実にもそういう人に出会うことが多い。何とかならないかという話をされることもある。

 国語のテストである程度の点数を取るための技術ならばある。しかし、それは生きるための読書力かと言えばあやしい。難関大合格者の中に国語は要領ですよとコメントするのを読んだことがある人も多いはずだ。そういう人の大半は読書を作業と捉え、学び取る力に欠けているように感じられる。筆者に対する敬意も、批判する精神も薄弱だ。

 普段から読書をし、他者の意見を受容し、ときに吟味して批判する人になるためには、やはり子どものころの読書習慣が影響する。子どもに本を読ませるにはどうすればいいのだろう。これも長年の課題の一つだ。

 もちろん課題図書として課すというのは一つの手だろう。しかし、自主的に本に親しむ環境を大人が提供することの方がより大切である。提案したいのはまず大人が読書する姿を見せることだろう。率先垂範はこの話題にも当てはまる。できれば読んだ本の話を聞かせるのがいいが、ただ読んでいる姿を見せることだけでも効果がある。

 電車に乗るとほとんどの大人はスマホを見つめ、そのうちの大半はゲームをしている。次にソーシャルメディアを読む人がいてほぼそれで終わりだ。スマホで読書もできるが、できれば紙面の本で読むのがいい。子どもはそれを見ている。

 

爺ちゃん先生

 

先生はいませんか

 教員不足が一部で深刻化しているという。本来、教壇に立つ予定はなかった管理職の教員が臨時で代講したり、複数クラスを合同にして急場を凌いでいるらしい。教員が不足することはかなり前から予測されていた。それなのにこの事態に陥っているのは行政の失策が大きく関与している。

 資源のない我が国は人材こそ最大の資源だと言われ、教育には最大限の支援をするべきだとはよく言われることなのに、実際にはそうなっていない。東大を始めとする難関大学に合格させることのみを目的とする一部の教育と、そのほかの悪しき平等主義の教育しかない。結果としてまったく平等ではない格差教育が行われている。

 魅力のない教育の世界に敢えて身を投じようとする優秀な人材は少ない。他に楽でやり甲斐があり、高給が保証されている仕事の方を選ぶ。当たり前だろう。その結果、少子化なのに教員不足という異常事態に陥っているのだ。

 高齢の教員を再登板させて何とか切り抜けている現状もある。これも一案ではある。かつてほど老け込むのは早くはない。定年をあげて働ける人は続けていただくのは確実な方法だ。経験も役立つはずだ。お爺さんお婆さん先生にご活躍いただこう。

 でも、究極の解決法は若い教員の人材を増やすことだ。労働条件を改善するとともにある程度の高い賃金を約束しよう。中途採用も積極的に行うべきだ。私はこうした議論が一向に深まらないのは大問題だと考えている。

かき氷

 かき氷というものを最近食べていない。かつてはかなり楽しみな夏のおやつだった。母が家庭用の削氷器を購入してからの数年は家庭でも作った。シロップの着色料などまったく気にせずほとんどメロンの味のしないカラフルな氷菓子を楽しんだ。

 今でも街角にかき氷の看板や幟を見ることがある。喫茶店などでも選べる。しかし、なぜかそういったものには関心が向かない。年齢のせいだろうか。

 ある程度離れていて、何かをきっかけに興味が再燃することがある。また、あの冷たい体験に復帰しようか。思案中である。

読解力の測定

時間をかけずに読め?

 読解力の低下はここ数年我が国の教育界が危惧するものである。しかし、この読解力にもいろいろあって、速読力に左右されるものとより深い読みを要求するものとがあるように感じる。後者の方面に対する手当が十分てはないことを注意したい。

 例えば共通テストの国語は明らかに問題が多すぎる。ここで求められているのは深い読みではなく、いわば情報処理能力だ。要領よさと手際の良さが主に測定されているといってよい。しかし、こうした能力はAIなどにもっとも代替されやすい分野だ。これを国語科で試す必要はないのではないか。

 共通テストに限って言えば、時間を増やすか問題数を減らすかのどちらかをまず行うべきだ。次により深い読解を求める設問を考えていくのがよい。その結果、平均点が下がっても意味があるはずだ。

 センター試験時代から国語の情報処理能力測定志向は疑問であった。共通テストになり文学的な文章が減るとか、契約書のような実用文書を読むようになるとかいろいろな懸念事項があった。それらはいまのところ大きな変化はなかったものの、時間の割に問題が多すぎるという難点は強まってしまった。

 国民の読解力を底上げしたいのならこのような出題は止めたほうがいい。時間をかけて考えるより、とにかく速読とそのためのテクニックへの関心ばかりが高まるだけなのだから。

価値観の逆転

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 何がよいか、何が悪いか。何が美しく、何は醜いといった価値観は共時的には絶対的な価値のように見えて通時的には相対的なものに過ぎないことがある。私は古典文学を読んでいて常にそれを感じるのだが、もっとわかりやすいのが美術史を学ぶことでわかるようだ。

 たとえば現在、新宿のSOMPO美術館で開催中のスイス・プチパレ美術館展の展示をみるといい。印象派からエコール・ド・パリに至る作品をほぼ美術史的時系列にそって並べた展示であり、とても分かりやすい。印象派前史を知る必要があるが、印象派が色彩の独特の使い方を開発し、絵画の革新をしたかと思ったら、点描画に進んだ画家やフォーヴィスムやキュビスムに展開した画家もいれば、エコール・ド・パリと総称される個性的な画家もいた。それぞれが独自の価値観を持ち、それが年代とともに変遷していく。

 それまでは駄作と言われていたものが、あるきっかけで価値のあるものとされるという現象は美術史にはしばしばみられるようだ。おそらくそれは美術だけの問題ではない。私たちが常識として持っている価値観は実はかなり流動的なものであり、決して絶対的普遍的なものではないということだ。このことは常に思い返さねばなるまい。

 美意識というもっとも根源的なものと思われるものでさえも時代的な変化がある。美女の定義を21世紀風にしてみれば、おそらくほかの多くの時代の先人に否定されるだろう。それほど価値観は変転するものであり、それを踏まえて私たちは生きる必要があると考える。

使う分だけ作るエネルギー

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 資源のない国にとってエネルギー問題は死活問題である。発電に限って言えばほとんどを火力で行っている。2020年度のエネルギー供給では、化石燃料による火力発電が76.3%を占め、その原料は石油が6.3%、石炭が31.0%、LNG(液化天然ガス)が39.0%だった。原子力発電は東日本大震災以来停止している発電所が多い。再生可能エネルギーとして、水力、風力、太陽光、水素、地熱などのエネルギー源もあるが、いずれもコスト、効率などの問題点を抱えており、普及していない。

 これらのすべてに共通するのは使用するエネルギーを大規模な発電施設に依存し、そこから送電したものを消費するという考え方だ。ここを変えていかなくてはならないと考える。もちろん最低限のインフラとして公共施設は安定した大規模エネルギー施設からの供給を受けるべきだろう。しかし、その一方で個人や企業が自分の消費するエネルギーの半分以上は自前で生産できるシステムを作るべきではないだろうか。

 太陽光パネルや風車による発電はイメージしやすい。しかし、現状では効率が悪く、設置や廃棄にかかる費用やカーボンニュートラルの方面に関して問題があるという。技術者の皆さんにはこの点に注目し、小規模発電でもいいので安全に確実な製品を開発してほしい。かつては屋根の上に太陽光温水器をつけている家庭がかなり見られた。太陽光パネルもある程度利用されている。それぞれには問題もあるようで改良はしなくてはなるまい。集合住宅でも同様の工夫はできないだろうか。鉄道などは各駅や線路わきに太陽、風力などの発電施設を作ることはできそうだ。高層ビルも屋上や壁面に発電システムを組み込むことはできるのではないか。

 基本的な概念は使う分だけ作るというエネルギーに対する考え方を変えることである。作れる以上のエネルギー消費はしないという精神にもつながる。このイノベーションこそ、日本を世界を変えるものとなるだろう。

ひかえめに

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 かなりひかえめに蝉が鳴き始めた。今年は蝉が少ないと思ってしまうが、真実は蝉の鳴く季節の前に真夏の暑さが来てしまったということだ。

 蝉が鳴くと生命の高まりを感じることもあるが、騒がしくもある。しかし、あるべき風景に蝉が鳴かないと何かおかしいと感じてしまうから不思議なものだ。ニイニイゼミは年々少なくなっている気がするし、アブラゼミやミンミンとともにクマゼミも増えてきたと言われている。そのどれもがいまのところほとんど鳴いていない。

 昨日は近隣の市で出された洪水に関する避難勧告の警報音に驚かされた。被害は出ていないようだが、今後も豪雨が降る可能性はあるということなので気をつけねばなるまい。

ゲームを作る

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 ゲームを楽しんでいる人が多いのは今に始まったことではない。私も以前それに多くの時間を費やしたことがある。気休めや現実逃避にはよい。問題なのは無意識のうちに他人が決めたルールのもとで泳がされていることだ。ゲーム好きの人の中にはその感覚がなくなっている人がいるように思えてならない。

 これは比喩的に現代人の行動の大半に当てはまる。高度に完成されたシステムをプレイヤーとして操作するだけで、そこに自らの創意や工夫はない。そもそも自分ができることはほとんどないか、できても成就する可能性は低いと考えている。だから、そういうことができるとは思っていない。

 他人本位の世界の中で自分の位置をこんなものだと位置づける。それには本当は何の根拠もない。しかしゲームの世界ではたとえばその成果が得点となって可視化される。自分の位置はどこにあるのかが疑似的に示される。それはある意味、快感であり、屈辱にもなる。いずれにしても自分の立ち位置が分かる気がするのは実際には曖昧な現実社会の靄を晴らしてくれる。

 そもそも私たちがこの世に生まれたとき、既存の社会というシステムの中で生きることが決められている。だから、きまったルールに従って生活を営むのは仕方がないのかもしれない。ただ、ゲームをする人はその宿命的な枠組みをあえてさらに狭めて自分の精神を閉じ込めているのではないだろうか。むしろ自ら小枠にはまる選択をすること自体に生きがいを見出しているのかもしれない。

 私たちに必要なのはゲームで遊ぶことだけではなく、ゲームを作ることではないかと考える。作家の森博嗣氏のエッセイに、子供ころおもちゃは自分で作って楽しんだという話があったのを覚えている。ないものは作るという環境が創作的な人生を導いたと拝察した。比喩的に言えば既存の社会の中で、既存のルールでプレイするだけではなく、時にはルールを考えて新たな遊びを考えることが私たちに求められているのではないか。

 何をやっても徒労感と無力感、相対的な敗者としてしか自分を考えられない現代人にとって、こうした考え方は幸福の追求という観点からも大切なのではないだろうか。

雨が洗う

 住まいの近くはこのところ雨続きだ。強い雨ではないが、いつまでも止まない。地域によっては水害も出ていると聞く。

 通学途中の駅の土手に葛が群生しているところがある。この季節になると日々勢いを増して斜面を遡る。次々に広がる葉は、それぞれ大きくなって陽光を奪い合う。 

 いまその太陽は雨雲の上だ。それでも少しでもよい位置取りを目指すかのように緑が埋めていく。それを雨が濡らし洗っていく。来週はまた暑くなるという。