その人らしさ

 絶対的な正解がある場合は全力でそれに近づくことを目指すべきだ。それが努力というものであり、この行為は必ず報われる。だが、正解のない問いの場合はどうだろう。

 世の中の大半のものは実は正解が分からない。現時点では正解と思うものが、実は間違っていたということはいくらでもある。暫定的な正解をあたかも真実であるかのように。考えるのは錯覚というものだろう。

 だから、かならずしも合っているとは限らない正解だけで判断するよりも、その問題に如何に向き合い、どう結論したのかということを評価の対象とするべきなのだ。プロセスを見ることの大切さを忘れてはならない。

 現状では結果ばかりを重視する状況にある。結果から遡及するのがよいとも言う。しかしこの考えでは新しい考えは生まれない。手っ取り早く多数派の意見にたどり着いたほうがいいのだろうか。私は中長期的にはそうではないと考えている。

 大切なのはその人らしく何をしたのかということなのだろう。単なる比較の問題ではない。そういう評価がどうしたらできるのかを考えるべきだ。

値上がり

 買い物をすると会計のときに値上がりを実感する。一つ一つの品物は僅かな値上がりでも、それが集まると大きくなる。当たり前だが事実だ。

 このちょっとおかしいが毎日続くとさらに大きな負担になっていく。私たちはしばらくインフレを経験していないのでこの違和感を理解するのに時間がかかる。

 収入の方は上がらない。経営者にはここで考えてほしい。金が回らなくなると結局自分の商売に返ってくる。人件費や投資をケチってはならない。

充電は学校で

 子どもに電子端末を持たせる活動は時代の流れとしては止められないことだろう。ただこれは学校だけで完結するべきではないか。家ではノートに手書きで書かせるべきだし、検索して終わりという思考法に落とし込むことは避けるべきだ。

 そのためにも長期休業期間以外は生徒の端末を学校で預かり充電も済ませる設備を設けることを提案したい。中等教育まではこれでいいのではないか。

 デジタルの世界で活躍するためには非デジタルの分野でどれだけ頭を使ったかが肝要だ。大人になれば日々の作業に追われる。子どもの頃は脳を活用して考える力を養うべきだ。家でもパソコンやスマホに頼る小学生や中学生の未来は暗いのではないか。完璧にではなくともとにかく自分で考えたという実績を積むべきだろう。

 そのためにも家庭ではデジタルの呪縛から逃れるべきだ。それが結局本人のためになると思う。

短時間集中

 まとまった学習時間が取れない場合、十数分の短い時間でも積み重ねれば効果はあるという研究があるそうだ。やってみる価値はある。

 集中的な時間が取りにくい要因はいくつかあるが、多忙はその一つだ。そういう毎日を過ごすと仮に時間が空いても学習に集中できなくなる。これは自分の側の問題だ。ほかにも環境的な理由や健康状態とかいくらでも訳はある。

 そういう場合は、時間を割り切って短くしても継続することが大事なのだという。習慣化できればそれなりの効果はあるのだとか。

 私の場合は通勤電車の中でこのブログを書いている。使える時間は数十分、着くまでに仕上げようと思うからこそ続けられているのかもしれない。

本を読もう

 大学共通テストの国語の問題を解いていつも失望する。多すぎる問題数と無駄なテキストの洪水、この国は一体何を目指しているのだろう。

 問題は翌日の新聞に発表されたので是非ご覧いただきたい。小さな活字で新聞2面分ある。ここに評論、小説、古文、漢文がひしめく。ここで試されるのは要領よく出題者の要求に対応することだ。情報処理能力は鍛えられる。でもそれ以上でもそれ以下でもない。

 これを知った優秀な受験生はきっとこう思う。細かいことはどうでもいいんだ。とにかく正解できればいい。どうしてそんな答えになるのか。それは他よりマシだからだ。それ以上考える必要などない。

 国の作る試験は極論すれば考えないことを要求していると言える。考えてはいけない。とにかく短い時間で蓋然性の高い解答をすることだ。これはAIの振る舞いそのものではないか。

 その末にあるのはなにか。考えるのはやめて機械に任せよう。無駄な試行錯誤より生産性だ。誰かが操っている? そんなことはどうでもいい。明日のことより今が大事なのだから。そういうメッセージしか伝わらない。

 大学に行くのもいいがまず本を読もう。自分で考えることができてこそ、未来はあるのだ。私は心からそう伝えたい。

月末は寒い

 週間予報を見る限り来週はかなり冷え込むようだ。関東でも雪の可能性もあるというが、基本的には乾燥した晴天が続くようである。

 これからの季節は受験や年度終わりの様々な作業がある。インフレにコロナウイルスとインフルエンザの不安など懸念されることが多い。それらに支障が出ないことを祈るばかりだ。

 この寒さに花をつける植物がある。したたかに生きることの大切さを学ぶべきだろう。

適湿

 このところ曇や雨の日が続いている。薄暗い昼間は陰鬱になると思いきや、意外と調子がよい。湿度が保たれているからだろう。乾燥した空気は続き過ぎると疲労感をもたらす。冬の雨もまたよし。

未来の音楽

 YMOのドラマーだった高橋幸宏氏が亡くなった。ご冥福をお祈りしたい。ライディーンをはじめとするYMOの楽曲は未来を感じさせる音楽だった。今聞いても全く古くない。テクノポップの先駆者であり、天才であったと思う。

Photo by Torsten Dettlaff on Pexels.com

 シンセサイザーが生まれて音楽はかなり変わった。さらに打ち込みといわれているコンピュータ制御が音楽に導入されるとそれまでにはなかったメロディやリズムが生まれ、最初のうちは理解不能だった。何がいいのかよく分からないまま、いつの間にかとりこになってしまうと言った感じだった。リアルタイムでは意識していなかったのだが、高橋幸宏のドラムは打ち込みではなく生の演奏であったということに改めて驚いている。細かなリズムを刻みながらグルーブもあるという独特の演奏であった。

 YMOは私の若いころに活躍し、有名になった後はバラエティ番組などにも出演して笑いを取っていたので、実はあまり評価していなかった。坂本龍一氏がソロで活躍し始めたころ、ようやくYMOの演奏技術の高さに気づいたというのが私の経験である。私にとっては出会ったのが少し早すぎた。

 おそらくYMOの影響を受けたミュージシャンは多いだろう。そして実はローテクノロジーだった時代に、すでに今のようなテクノ音楽を実現していたことに驚いているはずだ。日本のポピュラー音楽も世界に打って出るべきだとは常々思っているが、YMOのような独自性を主張するバンドの出現が期待される。

記憶の器

 私たちの脳の限界を超える記憶の方法を考えたのははるか昔の人だったはずだ。記録する際に何らかのシンボルを使い、それをみれば過去の経験を再現できるようにした。最初のうちは例えば樹木に傷をつけるとか、石を積んでしるしにするとかそういうものであったはずだ。

 音声による言葉が生まれたことで、記憶の方法は進歩する。音声はその場限りで消え去るが、何度も唱えることで記憶に残すことができる。大昔の語り部はかなり長大な内容を記憶していたというが、それも何度も唱えることで記憶をリフレッシュしたからだろう。口承伝承の類はこの段階のものである。

Photo by SHVETS production on Pexels.com

 その後、文字という抽象的な記録の道具ができたことで、飛躍的に過去の記録ができるようになった。歴史と呼ばれるものもその一つだ。文字に書き残されたものを史書といい、それ以前を先史時代などというのは文字を基準にしている。筆記するための道具の発達により、記憶の長期保存が可能になった。文字ができたことで私たちは過去のことを参考にして現在のふるまいをただすことが可能になった。歴史に学ぶことができるようになったのである。

 そして、いまはコンピュータの発達と普及によって人々の記憶の多くは小さな端末に残されるようになった。人間の容量をはるかに超え、さらに瞬時に検索可能なことから私たちの記憶は飛躍的に増えた。科学技術の発展もこれに支えられている。

 一方であまりにも人間の能力からかけ離れているために、自分の脳で記憶することをあきらめてしまった人を多数出している。昔は家族や友人の電話番号をさまざまな方法で覚えていたが、いまそれができる人は少ない。電話番号を覚える必要を感じないのだ。スマホで電話をかけるときは連絡先のアプリに記憶させ、あとはその人の名前をタップするだけなので電話番号というものを気にする必要がない。恥ずかしながら、私は自分の番号さえ忘れるときがある。

 記憶の器が人間サイズだった大昔は、その器の中でいかに記憶をこぼさないかが死活問題だった。食料調達場所や天敵の出現する箇所を記憶できなければ死に直結したからだ。その後、言葉が生まれ、さらに文字が生まれると記憶の量量は人間サイズよりも少し大きくなった。それが現代になってコンピュータの個人利用が始まると飛躍的に大きくなり、人間の尺度で考えれば無限といえるほど大きくなった。その利便性がかえって自分で考えることを怠ることにつながった。これが人類の記憶に関する歴史である。

 最近のニュースを読むと、この考えない積み重ねが認知症のような症状を若年層にもたらしているという。スマホなりパソコンをみればいい。検索すれば答えがあるという考え方が世界中に蔓延している。考えない人間はいつか環境に適応できなくなるのかもしれない。私も最近はすぐにパソコンにメモを取るようになっている。忘失を恐れず必死に覚えること、忘れないことはこれからも大切なスキルであることには変わりはないように思う。脳を退化させないようにしなければ。

求められているものは

 自分の努力のわりに評価がされていないということはよくある。逆に意識はしていないのにいいと言われることがある。意図と反応が異なるのはいろいろな場面で見られる。この事実を考えてみよう。

 自分はこれだけ頑張ったから認めてほしいと思っていても、満足した結果にはならないことがある。くたびれもうけのように感じてしまう。その理由は、自分が評価を求める要素が、実はそれほど完成度が高くないか、高くてもほかの人にもできる人が多くてそれらに埋没してしまうか。あるいはそもそも自分のイメージに合わないものであるものかといった様々な要因があるのではないか。さらには認めてほしいというアピールが足りないのかもしれない。自分が思うほど努力の跡を人は見つけてくれない。

 逆に実は他人に高い評価を受けているということもあるかもしれない。残念ながらそれを口にしてくれないから感知できない。たとえば、自分の存在が組織にとっては重要な役割を果たしているということなどである。強面でそこにいてくれると緊張感が保てる。取り立てて活躍はしていないが、その存在がほかのメンバーの心の安定と、人間的なつながりの触媒のような役割を果たすといったこと。物事を迅速にこなすことが他の手本となっていることや、逆にマイペースなのがいいということなどだ。こういった気質や性格に関する評価は表現が難しく、また本人にあたらめて指摘する機会もないため伝わりにくい。

 他人から求められているものは何か、自分の強みは何かということに関しては結局は自分では分からない。コミュニケーションのなかで他人が自分をどう見ているのかを考えていくしかない。言い方をかえれば、自分は何の価値もない人間だと自分だけで決めるのは間違っていることになる。自分自身を過小評価することがないようにしなくてはなるまい。