雨の前の景色

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 遠くの山の景色がくっきりと見えるときは雨の前兆だ。北陸で暮らしていたころの経験である。科学的に証明できるかどうか分からないが、大荒れになる前の山の風景は鮮明で大きく見える。経験的な事実だ。とても美しくもある。おそらく、実測すればほとんど微差なのだろうが、実感的にはかなり大きく見えた。

 東京に帰ってからこのことを感じることはない。山を見ていないからだ。でもおそらく同じ現象はあるはずで、嵐の前には遠景が鮮明に見えるはずだ。ビルにさえぎられて切り取られた風景ばかりを見ているとこういう経験が味わえない。

 今日は久しぶりに雨が降った。未明の霧雨といった感じだが、湿度は久しぶりにあがった。おそらく昨日の風景はいつもとは違ったはずだ。できれば遠い風景を見る余裕は欲しい。

特別警戒

 大学共通テストの日になった。利用している路線では特別な警戒態勢を取るとアナウンスしている。奇妙な放送になったのは昨年の東大会場での障害事件があったからだろう。

 受験には大きな精神的圧力がかかる。それが引き金となり事件が起きることも考えられる。これを社会的問題として捉えるならば、一度もしくは一年度の試験ですべてが決まるようなやり方を変えるべきではないかという問題提起の機会と捉えるべきだろう。

 受験で必要とされる能力の大半は社会的リーダーになる素養に結びつく。大雑把にいうと言われたことを素直に受け入れる力、受信した内容を自分の言葉に変換し蓄積する力、そして問われたことに手短に答える情報処理能力だ。

 しかし、測れないものもある。新たな問題を考え、やり方が分からない問題を解決する力や、他者と協力して解決する力などである。実践経験や成功失敗体験の量も分からない。

 評価の方法を複数回設けることの意味を考えるべきなのだ。受験生諸君には全力を尽くしてほしい。ただ、その結果が全てではない。

ウケ狙い

 新しいものを発想するとき、最も理想的なのは理論的に説明可能なことだ。理詰めで考えた上に新機軸が生まれるのなら最高である。

 しかし、場合によっては敢えて理論を超越してもいい。まったく新しいものを生み出すには破天荒もいる。そのとき誰かを笑わそうとか楽しませようという思考があればうまくいくのではないだろうか。

 奇を衒い悪ふざけすることはこの意味で無駄なことではない。自由に発想した分、突破口を示してくれる可能性もある。

季節の往還

 これからしばらくは気温が上がるらしい。4月並みという予想も出ている。季節が変わるときには、行きつ戻りつの時期がある。その波のひとつなのだろう。

 心配なのは花粉の飛散だ。最近は対策薬でかなり症状は抑えられるのだが、いつ始めればよいのかは毎年悩む。今年もその時期になったということである。

1円パック

 黒部市に住んでいたいた頃、あるスーパーの卵の値段で驚いたことがある。1パック1円と言うのだ。条件があって他の買い物を500円以上することだった。低過ぎるハードルなので何度もお世話になった。

 卵は価格の優等生と呼ばれ、時代を越えて値上がりしないものの代表だ。かつては卵は高価で寿司屋に行くと玉から注文した人もいたという。卵は生食だけではなく、様々な料理に活用されている。それが安定的な流通を支え、価格が変動しにくい理由であったのだろう。

 ところが現在、鶏卵の価格が上昇している。円安や飼料の価格高騰の影響もあるが主因は鳥インフルエンザの蔓延である。予防策はなく発見されると鶏舎単位て殺処分になってしまうという。

 人間の病も一向に収まらないが、動物の疫病にも困ったことである。対処策を見つけたひとはきっと世界中から感謝されるに違いない。

 1円パックに喜んでいた昔は懐かしい。ただ、もう少し食べ物に敬意を払い、畜産業の発展に繋がる消費行動を取るべきではなかったかと考えてもいる。

組み合わせ

 色彩感覚の不思議を試す例として、同じ色でも周囲の色によって違って見えるということがよく取り上げられる。私たちの感覚は相対的であり、どう見えるのかはその場に揃った条件の組み合わせで決まるらしい。

 皮膚感覚もそうだ。何もしていないときにぶつかられると痛みを強く感じる。しかし、サッカーなどの接触のあるスポーツをしたあとだと同じ衝突がまったく気にならない。寒い日が続いたあとの小春日和はとても暖かいが、気温自体はそう高くない。

 嗅覚も周囲の環境で大きく変わる。その場にい続けると臭いは感じなくなるし、芳香と悪臭の成分は変わらないときもあるだろう。

 私たちの感覚がいかに組み合わせで形成されているかを思うとき、自分の感覚が決して万物の尺度ではないと知る。不安にも繋がるが自信にもなるだろう。

この文章誰が書いたんだ

 AIの発展は著しいものがある。音声入力に感動していたら、今度は自動文章作成能力まで獲得していた。これからの人間は何をすればいいのだろうか。

 定型的な文章の作成ならば、機械に代替できることは予想がついていた。国語の時間に生徒に教える作文の授業は大体型で教えるものである。たとえば、第一段落は自分の言いたいことを疑問文にして問題提起の形にする。第二段落では一般的によく言われている事例を扱い、通説を確認する。第三段落ではそれを超える自説の良さを訴える。第四段落は第一段落の疑問に答え、言いたいことを明確に言う。こんな指導をしている。

 この指導である程度格好がいい文章になる。うっかりすると名文のように思ってしまうことさえある。この思考の型は理解しやすいからだろう。

 しかし、型はあるが内容はないという文章になりがちだ。それでいいのかと言われればやはりおかしいと言うしかない。でも、このあたりまでの作文であればコンピューターが達成してしまうようだ。

 私たちがやらなくてはならないのはその上と言うことになる。今のところAIは意味の世界までは踏み込めておらず、統計的に可能性の高い組み合わせを提示しているに過ぎない。ならば、人間がこの意味の世界で生き残るべきなのだろう。

 意味もしくは価値を創出することは機械が苦手な分野である。ならば私たちは積極的に価値の創出に力を注ぐべきだろう。それこそがこれからの作文術ということになる。

冷え込み

 今朝は氷点下の冷え込みになっている。大分身体が慣れてきたようで数値ほど寒さは感じない。ただ、やはり冷気は肌を刺し、ときに大きな震えをもたらす。コートの綻びをものを大事にしているしるしと考えて、むしろ人に見せるようにしている。劣化ではない爛熟なのだ。いくつもの寒い時代を超えてきた誇りなのだと。

住みにくさ

人と違う行動をする人は注目を浴びやすい。他人に迷惑を及ぼす場合は言語道断だが、そうでなければ見逃すことも必要だ。それが多様性を保証するのだから。

異端を礼讃するつもりは全くないオリジナリティと独善は紙一重であり、後者である確率の方が高い。だが、自らと異なる行動は許容できないという姿勢はやめた方が良いいい。新しい考え方とか、革新的な方法とかはしばしば型破りだ。革命的な時代の過渡期ではそれが無意識のうちに許容されるが、安定期には異端視されやすい。

変わり者に対してどれだけ懐が深いのかは文化の成熟度に関わる大問題なのだろう。独創的に生きることが住みにくいことは宿命的に仕方がない、ただ、それをどれだけ許容できるのかで未来は変わってくる気がする。

22歳の出会い

 コロナウイルス対策で成人式が取りやめになったり、リモート形式になった現在22歳の人たちのために式を用意した自治体があるという。粋な計らいというものだろう。

 この式の報道てインタビューを受けた人は、大学を卒業し故郷を離れることが決まっている。その前に会えてよかった、とか、次に数十年後に会えるといいと答えていた。地方の現実が垣間見えた。

 少子高齢化が進行しつつあるこの国にとって若い世代の存在は不可欠だ。その少ない人材が高校や大学を卒業したあと故郷を離れてしまう。そのうちのかなりの人数が戻らず、若者の人口分布が極端に偏在することになる。

 リモートワークが定着し、様々な情報共有がかつてより遥かに柔軟に取り組める環境が完成した現在、都市に企業が集中するメリットは少なくなっている。まずは産業界の分散が必要ではないか。

 22歳の出会いが結局別れの前日の儀式になっているようではならないと考えた。