祭りの復活

 コロナで中止していた各地の祭礼が復活しつつある。マスクの規制がなくなれば一気に増えるはずだ。

 祭りには地域の人々の心をまとめる力がある。それが多少浪費をしても続いてきた理由にほかなるまい。祭りのために日常の利害関係を超えて地域がまとまる。祭りの催行が皆の目標になるのである。

 人々のつながりはメディアを通さずに直接触れ合うことが基本になければならない。この部分が抜けて、ソーシャルメディアの方ばかりを重視するから、人間関係がおかしくなるのだろう。もちろん、地縁にもさまざまな問題はある。それ以上に益となるものが多いと思う。

 幼いころ、下町の祭礼は楽しみであった。なぜ、こんなに大人たちが熱狂するのかは分からなかったが、その日ばかりは待ちゆく人が優しくなるような気がした。祭りの復活は共同体の維持のためには欠かせない。ようやくそれが再開することをうれしく思うばかりだ。

春

 立春である。地球と太陽の位置関係に名付けをしたのに過ぎないのだが、それでも何か変わったような気がするがおもしろい。物理学者は時間は存在しないという。これも人間の脳が生み出した幻影なのだろうか。

 春はいろいろなことの始まりと考えるのが日本の伝統的な季節感だ。元旦よりも4月の方が開始の時期と考えられる。年度の開始月であるからだが、もう身体に染みついている。他国ではこれが通用しないというから、時間観というのは文化の一つということになる。

 存在しない時間、もしくはあったとしても相対的な時間に一喜一憂するのはなぜだろう。幻覚に囚われているうちに何か大切なことを見失っているのではないか。もし、時間が幻想であり幻覚ならば、私はここに存在するということも夢の一部に過ぎないことになる。

 この仮説は科学的に証明されるとしても実感としては肯んずることはできない。たとえいまここにいる自分が幻覚であり、他にも自分は存在し別の場所にいるとしても、それぞれの自分が実感できる世界は一つである。他は想像するしかない。ならば、あくまで自分という座標軸においては今いる周囲しか見渡せない。

 限られた世界に閉じ込められているからこそ時間は感じられ、感情がわき起こる。喜びも悲しみも見渡せる地平が限定されているからこそ発動するのだろう。

 春に何かを素直に感じるのはその意味で当たり前だ。ただ、その情念が知覚しうる条件のもとで起きているということを心の片隅で考えておくのは、危機的状況を救う命綱にはなるかもしれない。

貧すれど

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 貧すれば鈍するということばがある。貧困が生活の質を下げ、モラルやマナーといった基本的に大切なものを守れない人が出てくるという意味だろう。わが国は世界的も礼節を重んじる習慣があると認められているように思うが、最近それが危うくなっている。それはやはり忍び寄る貧困と関係があるのだろうか。

 昔から社会的な問題行動を起こす人はいた。基本的な社会生活に必要な協調性が薄く、独善的ですぐに文句をいう人である。これは最近の科学では脳の機能低下と関係があるといわれている。機能低下は加齢によって誰でも起こるが、それ以外でも栄養不足や運動不足、過度のストレスなどによっても起こるらしい。これらは貧困と相関がありそうだ。ならば、貧困が進めば問題は一層大きくなっていくということになる。

 さらには社会的な風潮、世相も影響する。特に日本人の気質の一つである同調志向は、この傾向を具現化しやすい。誰かのもたらした悪影響がたちまちに広まってしまう。ソーシャルメディアの無責任な発言がそれに拍車をかける。経済的貧困と精神的貧困が負の相乗効果をもたらし、正義や礼節の感覚を鈍化させてしまう。

 残念ながら昭和期にあったような経済成長は望めない。これから起きるのはやや角度のきつい降下線であると予測されている。その中で少子高齢化は進み、活力は一層失われる。イノベーションを期待するが、おそらく現状維持ができればいいということだろう。あくまで現在の経済的価値観での話であるが。

 ならば貧すれば鈍するではなく、貧すれど鈍せずの道を歩むしかない。まずは貧困の定義を変える必要がある。十分に有り余る物資を使い捨てするのが豊かであるという価値観をやめ、今あるもの、今あるシステムを大切にして、それを改良するという方法を取り、それが達成されることに幸福感を求めるようにしていくべきだ。いわゆるブリコラージュの発想も本来日本人に備わっていた考え方だと言える。結果的にそれが環境問題や、人口減少問題の解決の糸口になることは素人にも予測できる。

 こういう発想の転換にはきっかけが必要だ。歴史的には困難な時代に偉大なる指導者や思想的なカリスマが登場して人々の考え方を変えていったように思う。それが平和的に行われず、天変地異や革命、戦争などの悲劇の時期と多くの場合に重なっていたことは注意しなくてはならない。もちろんこうしたことはあってはならない。起こしてはならない。昔の人と異なるのは私たちはかなりの人が文字が読め、話し合うことが可能だ。だから、実際に悲劇が起きなくても、それを想像し、その対処を論理的に考えることができる。端的に言えば歴史に学ぶことができる。事例学習ができる。

 徐々に衰退に向かう社会において次に起こりうることは何か。それを考えることも必要だ。そしてそれを考えさせるきっかけを作ることも必要だと思う。そのためには歴史をもっと学び、思想を学ぶことをおろそかにしてはならない。最近はテクノロジー偏重の教育がなされつつあり、また社会的なニーズもそちらに傾いている。しかし、そもそも社会を成り立たせている仕組みや、その仕組みを支えている基本的な姿勢、ものの考え方について多くの人が意識し、その重要性に気づくべきだ。

 貧すれど理想を忘れないことを多くの人が目指すことができるか否かがこの国だけではなく、現代人の命運を握っていると言えそうだ。

節分

 今日は節分、二十四節気の立春の前日で、今日で暦上の冬が終わる。

 豆まきの日としても知られているが、これは歴史的にはそれほど古くはさかのぼらない。追儺という悪霊退散の儀式があったことは、8世紀初めの記録が『続日本紀』にあり、平安時代には大晦日の宮廷行事として行われていたことが記録に残る。古代中国から日本が取り入れた行事の一つだ。本来は悪霊を追い払う役の者たちが、次第に鬼そのものを演じるようになり、それが出ていく様を演じることで邪気の消えることを願う行事になっていったと考えられている。

 中世に入るとこの行事は行われなくなり、江戸時代も宮廷行事としては行われていない。似た行事は民間に伝わったようで、大晦日が新年の前の日であることが、立春の前の日になっていったのはその過程にあるようだ。旧暦では元旦と立春は近い日となり、年によっては一致する。

 鬼が悪霊と同意義になっていくのにも歴史がある。中国の「鬼」は祖霊を意味することが多かった。日本でも民間行事のなかで鬼の姿をした者を丁重に迎える祭りをする地域は多い。それが異類と感じられ、さらには害をなす邪鬼として考えられるようになっていく。こうした聖俗の逆転はいろいろな事例が認められる。鬼門が丑寅にある連想から、角をはやし、虎の毛皮を身に着けた鬼の姿が確立していった。

 春の前に鬼を追い出したいという願いは、東アジア一帯の文化にあるのかもしれない。禊や祓の行事も季節のはざまで行われる。定期的な掃除のように罪や穢れ、邪気は日常から離れたところに送り出そうとするのだ。科学の知識が普及したあとでも、こうした考えは根底に流れ続ける。それは生活の知恵でもある。残念なのは悪因悪行は現代社会ではそれほど簡単には退散してくれないことだ。ただ、季節の流れの中に日常の見直しの行事を置いたことは先人の知恵として受け継いでいくべきだろう。

彗星

 北の空に周期がかなり長い彗星が接近しているという。今日最接近というがあいにく曇り空だ。

 5万年という周期は人間にとってはとてつもなく長い。5万年前にはネアンデルタール人がまだ活動していた。ホモサピエンスはようやくアフリカからの壮大な旅に出た頃だ。

5万年後に今の人類が地球に存在している可能性はどのくらいだろうか。環境破壊か戦争で自滅してしまう可能性がある。あるいは自ら作り出したAIに支配されて無力になった末に絶滅する可能性もある。種として5万年の持続は何もなくても難しい。そんな生き物にとっては長すぎる時間も、天体の運動にとってはほんの一瞬なのかもしれない。

 夜空を眺めると広大な宇宙と人生の小ささを痛感する。彗星はそのきっかけの一つだ。

花粉症対策

 今季の花粉の飛散は極めて多いようだ。すでに自覚症状が出ている人もいるというが、関東地方では今週末くらいから本格的な花粉症の注意期間に入るらしい。

森林浴は好きですが

 私は子供の頃から症状に悩んできた。ここ数年はコロナ対策のためのマスクのせいで気にならなかったが、それよりも対策薬の恩恵にあずかってきたのが大きい。今年もそろそろ始めたい。

 花粉症の薬は効きだすまで時間がかかる。だから早めの服用が求められている。週末に向けて明後日辺りから始めようか。マスク着用義務がなくなりつつあるが敵はウイルスだけではない。困ったことである。

二月

 2月は短いがとても大切な月の一つだ。私たちの職場では次年度の準備が始まる。次の段階に移る前の最後のまとめのようなものだ。

 2月は如月。なぜそう呼ぶのかは分からないが、勝手に「気更来」つまり春の気がますます来るという意味と考えるようにしている。そして実はかなり寒い月も、逆に春を感じさせるためにあると考えるのである。

 この愛しい季節はいつもあわただしく過ぎていくが、今年は意識して季節の移り変わりを感じ、楽しみたい。

目覚め

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 目が覚めた瞬間、最近はスマートフォンの画面を見る毎日である。というのも、私はスマホにアラームをセットして起きるようにしているからだ。ささやかなピアノの音と、バイブレーションを同時に発動して起きるようにしている。それを止めるために画像を見る。よく考えてみればこの時点から私はスマホに侵されている。

 その画面には大体次のような文字が出る。おはようございます。今日は2月1日です。天気は晴れ、東京の最高気温は13℃で最低気温は-2℃。といった日付と気象情報だ。これを見ながら、私は時間軸と自分が置かれた位置や環境を把握する。

 おそらく同時にいろいろなことを思い出す。私は何者であるか、どのような人間関係にあるか、どんな気質でどんな性格なのかなど自分についての様々を瞬時に思い出すのだ。これは考えてみればかなり大変なことである。長期記憶を失った人が、毎朝自分の生きてきた生い立ちを録画したビデオを見て、自己を再認識するという映画を見たことがある。極論すればそういうことなのだろう。幸い私たちはどこかに長期記憶を蓄える仕組みを脳に確保していて、寝ても自分が誰だか忘れないのだと思う。

 ならば、長期記憶をおろそかににすれば、自己認識さえも危うくなり、自分という存在が保てなくなるということになる。記憶を機械に任せるのはその意味で危険だ。目覚めたとき自分を取り戻すためにも、いろいろなことを覚えることをあきらめないでいようと考えている。

詩作の意味

 詩の魅力というものを考え直している。散文は情報を伝えるのには向いているが、緻密な論理にすればするほど零れ落ちるものが出てしまう。情に属するものだろう。

 詩はそれを拾い上げることができる気がする。もちろんかなり曖昧になるものもあるが、詩でしか掬えないものが確かにある。芸術を好む人はこのことを体感として心得ている。一つの言葉に、フレーズにこめられた意味と、その周辺にまとわりついている様々な感触を感じることができるからだろう。

 詩を読む機会はどんどん減っている。それとともに心が瘦せていることを実感している。私は時々詩のノートを広げ、駄作を連ねることにしたい。作品の出来そのものより、詩を書く行為そのものが自分にとっては大切なものと感じている。

1月も末日

 いろいろあった月だったが、1月も終わろうとしている。個人的には小さな旅が一つといくつかの芸術との出会い、数冊の読書を大切にしたい。毎日の仕事の失敗や成功は相変わらずだ。

 歳を重ねると時間が経つのを速く感じるというが、私にとってはそうとも限らない。まだ一月しか立っていないのかと思うときともう過ぎてしまったのかと思うときがある。時間はただ過ぎていくだけだ。

 いいことをしようと思ってそれができずに空回りしている気持ちがあることを自覚している。何かの区切りにはこういう思いになることが多い。