リモート強盗

 フィリピンで収監中の囚人が、日本の強盗事件の指示役であったというニュースが連日報道されている。このニュースの不思議はいくつかある。まずは囚人がどうして外部と連絡可能であったのかということだ。テレグラムというアプリが使用されたことは分かっているがなぜそれが使用可能だったのかということになる。

 この点については現地の担当者が犯罪者側に買収され、収賄の上で便宜を図っていたことが分かってきた。現地の司法システムの問題点をついたということになる。これは現地の法に従って処罰していただくしか方法はない。しかし、もっと不思議なのは海外の囚人の指示でなぜ現行犯のグループが活動したかということだ。

 犯罪を犯すにはかなりのリスクを伴う。というよりほとんどの確率で失敗に終わるはずである。にもかかわらず、どうして実行犯たちは動いたのだろう。これが一番の問題だ。実行犯は犯行で強奪した金品の分配をフィリピンの指示役に任せたようで、その出来具合によって報酬が決まっていたらしい。あたかもリモートワークのような仕組みであったことが分かる。動けない指示役の差配をかたくなに守り、自らの危険の報酬を人任せにするという実行犯たちの自主性のなさに逆に恐ろしさを感じてしまう。

 どのように実行犯たちの精神を操ったのだろうか。それが今後私が最も関心のあることだ。人間の行動の一側面を浮き彫りにしたものとして注目している。

自己暗示

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 自分はできると思い込むことが大切だといろいろな場面で耳にする。スポーツ関係者はその結果がすぐに出る現場にいるから、そのことを体験的に知っている。脳科学者は脳の構造上の問題であるという。教育関係者もこうした事例から自分や他人をほめることを推奨している。

 逆もあるそうだ。自分はできない、身体的に衰えた、環境が悪いなどという人はいい結果を残しにくいそうだ。負の自己暗示だという。苦しいときほど笑顔になれというのはどうも当たっているらしい。なかなかそれができない場合は一度何か別の行動を意図的に挟み込み、失敗や落ち込みを意図的に遠ざける方法もあるそうだ。あえて関係のない動作をしたり、話したりする。それをするうちにマイナスの感情が薄れるというのである。

 自己暗示は閉塞的な状況を生き抜く上での生活の知恵となりそうだ。せめて気持ちだけはポジティブにして、やるべきことをやっていこう。うまくいかなくてもいい。続けることで進歩が期待できるはずだ。

読解力のために

 おそらく国語など役に立たない科目だと思っていた人こそこれから後悔することになりそうだ。日本人だから今更日本語の本を読んでどうする。それより理数を学んだ方がいい。国語は学ぶ必要などあるかと考えていた人は多いのではないか。そして今でもそう思っているのならばかなり危うい。

 情報化社会になってもっとも求められるのは読解力と表現力だ。それは機械任せにはできない重要事項である。それなのに簡単な文章が読めなかったり、説明の方法が悪くてよく伝わらなかったりする。また人の気持ちが読めず、文章や発言の奥にあるものが分からないこともある。これらは実は国語力と深い関係にある。母語のちからは論理的思考のみならず、感情や情緒に深く影響する。だからこれをおろそかにすると痛い目にあう。

 もちろん科学も技術も工学も数学は大切だ。しかし、それらを支えるのが豊富な母語の力であることを再認識しなくてはなるまい。成功者のほとんどが表現力の大切さを強調し、余暇に多くの本を読んでいる。その基礎が中等教育までで学習する基礎的な国語力であることを確認していただきたい。これからの国語教員はこの国の人材の才能を下支えする役割を果たしていることを自覚して仕事をするべきだと思う。

戦車連合

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 ウクライナの戦争が終わらないのはどうしてだろう。ロシアの侵攻が 始まったとき、その不当性は抜きにして早晩侵略は成功してしまうのかと思っていた。しかし、来月で1年になろうとしているのにいまだ解決の糸口が見えない。ロシア側はより強い兵力を向けると言い、ウクライナは欧米諸国から武器の供与を受けている。形を変えた世界代理対戦の様相だ。特に最近の報道では戦車の供与が話題になっている。その中にはかつて第2次世界大戦の同盟国ドイツの製造した戦車も含まれるという。

 日本は地理的文化的に少し離れているのでこの戦争に関してはいまのところ距離を置くことができている。しかし、グローバル社会においてはこの戦争がもたらす経済的な問題がすでに市場におよび、ロシアやそれに近い中国の隣国である我が国はいつまでもオブザーバーではいられなくなっている。

 軍事的な側面に関しての関与は絶対に避けるべきだろう。この際、日本の科学力を示すべきだという考えを持つ人もいるようだが百害しかない。軍事的協力は東アジアの平和のためには危険性しか生まない。戦地の情報は研究に値するが直接関与することは頑強に避けるべきと信じる。

 民間支援は今できることだ。使い捨てカイロの提供は話題になったが、被災地での緊急物資のアイデアは戦地でも活用できるはずだ。政府が行ったソーラー・ランタンの提供のための支援はその一策としては評価したい。

 短期的には達成できないが、長年切望しているのが平和に関する専門家を養成する高等専門機関の設立である。なぜ戦争が起きるのか、起きた場合はそれをどのように解決すればいいのかを学問的、実践的に行う専門家を養成する大学なり大学院を日本に作るべきである。個人の研究室としてはすでにいくつかあるが、国際舞台に人材を送り出す段階にはないようだ。「けんか」のおさめ方の専門家を養成することこそ今の日本の立ち位置にふさわしいのではないだろうか。戦車連合に加わる方法以外の日本のやり方を示すべきだ。

売り声

 近隣の商店街に印象的な売り声で衆目を集めている人がいる。よく通る声と独特の言い回し、声の強弱と間が原因らしい。何がいいのかは分からないが、確かに人を惹きつける売り声は存在する。

 思うに声の大きさや質だけの問題ではない。客との間合いを読んで絶妙なタイミングで声をかけるのがいいようなのだ。これは経験から獲得されるのもなのだろう。

 どんなことにも達人の技がある。それに気づくことは難しく、真似ることはさらに困難だ。しかし、せめてアンテナを張って技を見逃さないようにしたい。

軍艦

 子どものころ、軍艦のプラモデルをたくさん作った。単純に機械としての魅力が大きかった。それがかつて多くの人を殺害し、多くの人がそこで死んだ場所であることを知っても、実感できるまでには時間がかかった。

 子どものころと同じようにいままた分からなくなりつつある。機械はただ目的に沿って動くだけであり、それをどのように解釈するのかは人間の側にある。人間の心のあり方で機械はどのようにも見える。いかなる役割も果たす。

 軍艦はその代表であり、そんなに大きなものではなくても、殺人兵器でなくても同じだ。何ために道具は作られ、作られた道具が結果的に何をもたらすのかは、何歳なっても予測できない。何らかの悩みを解決するために作られたものが、新たな悩みを生み出す。

 作られたものはある意味で人の願望の理想形であり、その外見は魅力的だ。それゆえにまた人を惑わす。道具を作ったつもりがいつのまにかに使われているということになりそうだ。

楽しませる

 最近思うのは自分が心から楽しむのには他人を楽しませるにしくはないということだ。歳を重ねると、安易な娯楽では満足できなくなる。大切なのは他人に自分が施した何かがリアクションとして受け取れることだろう。独りよがりではいけないが、一面の事実であることは確かだ。

排除

 閉塞状況で考えることの一つに悪い要因を排除すればいいという考え方がある。現状がうまくいっていないのは特定の要因があるとして、その要素を排除しようとする考え方だ。これはいろいろな危険性をはらんでいる。

 まずマイナス要因と考えられたものが本当に負の要素なのか分からないことだ。もしかしたら本当は別の要因があるのにも関わらず、安直に悪因と認定しているのではないか。結果的に弱者に罪をなすりつけ、本質を見逃しているのではないかということである。

 この間違いは残念ながらかなりあると察する。誰かを悪者に仕立て上げ、真実を省みないことは結果的に全体の不利益に繋がる。それをもっというべきだ。一部のアジテーターに騙されてはいけない。

 安易に排除に走る傾向を私は非常に危惧する。机を片づけるのと人の配置を変えるのは全く別だ。それを執拗に伝えることは、時代遅れの人々の役割かもしれない。

氷点下の朝

 寒気の南下の影響で今日も冷え込んでいる。朝の最低気温は氷点下になっており、都心部でもマイナス2℃らしい。私の住む郊外はもっと冷えている。昨日は北風が強かったが、今日は弱い。そして晴天である。典型的な放射冷却の冷え込みということになる。

 こういう場合に怖いのは路面の凍結だ。雨が降らない状況なので普通は凍らないはずなのだが、誰かがうっかり水をまいたりしたら大変なことになる。私は氷の上で転んだ経験が何度かあり、そのうちの一回は顎のあたりを打ってすこぶる痛かった。その痛みの記憶はしつこく残っていて、条件反射のように突然湧き上がることがある。寒いのは決して嫌いではないのだが、この転倒の記憶だけはなんとかならないものだろうか。

 今日もいざというときのことを考えて路面を見て歩きたい。絶対にながら歩きはやめたい。

実は少数意見

 メディアリテラシーは大切だと分かっていても見事に騙される。私自身もその一人なので自戒のために書いておこう。

 誰もが発信できるようになった情報革命は私のような世代にとっては画期的なことであった。マスメディアしか情報発信のチャンネルがなかった時代では、オピニオンリーダーという隔絶した存在がいた。その中にはとんでもない人物もいたが、大抵の場合は理論的もしくは感情的に同意できる存在であり、その人物から学ぶことが多かった。

 ソーシャルメディアが普及してさしたる実績も経験も努力もないのに、口説だけは長けている人物が台頭している。彼らの困ったことは発言はするが、その発言に責任を取らないことだ。多くの人を扇動しておいて、その内容に関しての批判は受け付けない。そういう人物を国会議員に選んでも我慢してしまう。いまの日本の民度の低下を指摘されても仕方がない。

 現場で努力している人をもっと評価しよう。彼らは失敗することも多い。だが、何もしないで他人のあら探しをしている人とどちらが尊いだろうか。そういう基本的なことを考え直したい。

 実は単なる奇抜な言説で、アクセス数を稼いで収入を得ている人を軽蔑する能力を私たちは取り戻さなくてはならないと思うのである。