ナンバリングとラベリング

 レポートの書き方の手法にナンバリングとラベリングというものがある。外来語で書くとことごとしいが、要するに番号づけと要点を先に述べるということだ。これはかなり前から作文教育で使われてきた。またディベートなどの口頭発表においても定番の技術だ。

 わかりやすく伝えるための誰でもできる方法で、特に作文が苦手な人におすすめしたいやり方なのだが、教えても定着しなかった。ところがその状況が変わりつつある。

 現在、この手法を活用しているのはAIによる文章生成プログラムだ。質問に対して答えの要素を内容ごとに箇条書きしてくる。さらにそれぞれの文章のはじめにトピックセンテンスが置かれ、読者にとって理解しやすい。すべてが同じ型なので味わいはないが、答えを知るという目的には叶っている。

 作文が苦手な人にはこのコンピューターが生成した文章を示すと、ナンバリングやラベリングのよさを実感してもらえるだろう。

 実はこうした文章には欠点もある。ナンバリングする際のまとめ方が思ったより整然とはいかない。同じことを何度も述べてしまったり、別の要素にしたほうがよいものを無理に結びつけたりする。この矛盾が分かりやすくなるのだ。AIの作る文章でもしばしば見られる。

 作文の指導にAIを使い、良い手本にも悪い手本にもなってもらう。これならばいいのではないか。

学習効果と効率は違う

 教育現場においてICTをどのように使うのかはまだ答えが出ていない。使わない訳にはいかないという世情の流れに、教育界が流されると陥穽に陥る。

 学習する過程において、とりわけ初等中等教育においてはやはり自分の脳細胞を活性化する活動の方がいい。効率や完成度を犠牲にしても自分で考えさせることを重視するべきなのだ。それができて情報機器の活用ができる。

 コンピューターの操作方法を教えなくてはならないというのは私たちの世代の基準だ。今のインターフェースは昔より遥かに分かりやすく、それほど知識はいらない。そんなことはあとからでも間に合う。大切なのは自分で問題解決の糸口を見つける試行錯誤の経験値を高めることだ。

 情報の整理や記録に関しては早くから始めてもいい。これはノートをつけることの延長にある行為だからだ。またなくてはならないのは思考のツールとして情報機器を使うことだ。これは大学生になってからでいい。順番を示すことが教育関係者の責務になっている。

無意識の選択

 新緑の季節である。万緑といってもいい。緑に励まされ、力をもらえる気がする。ここ数日心身のバイオリズムが下降している私にとって、この光景は何よりもありがたい。

 草原に目を凝らすとすすきの穂が残っている。この植物は強いので枯れても形が残ることが多い。しかし、それに気づく人は少ない。私も最近発見したのであり、しかもすぐに忘れる。風薫る季節とすすきの亡骸は結びつかない。そういうものはたとえ視界に入っても認知の枠からは除外される。

 私はよくものを見ているようで、実は見たいものを見ている。現実そのままを見ることは難しく、ある程度の枠組みの中に入ったものを捉え、そうでないものを取り除いているのだ。写真に撮った風景の印象が変わることがあるのはそのためだろう。

 今は風景に癒しを求め、そこから得られる何かを期待している。考えてみれば歳時記の季語と言うのものはそうした見たいもの感じたいもののリストなのかもしれない。

気温上昇

 今日は昨日と比較して最高気温が8度上昇するという。さらに明後日は真夏日になるかもしれないとの予報もあり、体調管理が欠かせない。毎年この時期に体調を崩しやすい私にとっては要注意だ。

 このところ肌寒さを感じる陽気が続いてきた。それが一気に夏本番を感じさえる天気に急変する。気温上昇の原因は日本上空にあった寒気が移動したことであるという。体調を崩すのは急激な変化が起きるときであり、真夏よりもむしろこういう時期の方が危険だ。

 今年はマスクをつけない夏にしたい。いろいろな屋外行事にも参加したい。そのためには体調管理が肝要だ。

伝統的な結びつき

 グローバルに人材の移動が起きる時代において、日本の優位を保つことは結構難しい。ギャラを倍出すけれどうちに来ない? と言われた有能な人が、いやあ私は日本人ですから、日本のために働きます。などと答えるのは理想としか言いようがない。

 まして我が国は愛国心には如何ともし難い軛がある。勝てない世界大戦に国民を駆り立て、多大なる犠牲者を出した歴史をもっているからだ。国を愛せよということに極めて敏感になっている。

 だから、日本のために何かをしたいなどと言ったら変わり者扱いされる可能性もある。というよりそういう発想自体が出てこない風土がある。海外の方には最も理解しにくい日本人の現実だ。

 優秀なスキルをもっている人ならは、国益と私益のバランスが分からないはずはないと思うが、それも幻想だ。自分が不利益になるのに国のために尽くすなどと考える思考回路はない。

 ならば、この国はどうすればいいのだろう。やはり健全な愛国心を育てることを再考するしかあるまい。国家というより、自分が属する共同体のために尽力することの貴さを考える機会を設けるべきだ。その意味で町内会とか青年会のような組織は実は有意義なものであったことになる。

 伝統的な人々の紐帯は因襲的になると弊害があるが本来は意味のあるものであった。そういうことを見直す機会は必要ではないだろうか。

交響楽

 シンフォニーをホールで聴く贅沢さは何よりも素晴らしい。指揮者が最初の音を指示するまでの緊張感、重なり合う楽器が織りなすハーモニー、底から浮かび上がる様々な感情、そのどれもが尊い。

 もちろん、高級な音響機器を使えばかなり現実に近い音楽再生ができるなだろう。ただ、音楽家と観客たちが作り出す独特の空間は再現し得ない。

 時々は音楽を直接聞きに行かなくてはならないと強く思うのである。

シャツの文字

What does it mean?

 文字の入ったシャツを着ることがある。大体が英語だがフランス語やその他の言語のものも見かける。そしてその意味についてはあまり考えない。

 日本語の書かれたシャツはスポーツのユニホームなどにあるが学校のクラブなどではよくあるのに、プロのチームになるとほとんどない。日本語は私たちにとって日常であるので特別な感じが出ないからだろうか。シャツの上に書かれるのは意味が分からないくらいがちょうどいいということになる。

 シャツに書かれている文字を訳すととんでもないことが書かれていたり、綴りや文法が間違っていたりする。逆に海外で売られている日本語が書かれたシャツをみるとこれもおかしな間違いが多い。恐らく意味よりもエキゾティズムなり、非日常性なりが求められているのだろう。

 外国の文字は記号でありながらも個別の意味との結びつきよりも、別のものを表すシンボルとして使われるということなのだろう。

疲労

 このところ疲労感が激しい。恐らくは天候不順のためなのだろう。気晴らしすることが少なくなっていることも関係ありそうだ。考えすぎないこと、なるようにしかならないと思うこと。この精神を再確認することにしよう。

肩を押す

 偶然であるが駅で金縛りのように動けなくなっているどこかの学校の生徒を見つけてしまった。恐らく覚悟を決めて駅までは来てみたものの、通学路に踏み出すことができないのだ。

 私のような世代にとってはこういう行為は甘えか、精神的疾患などと分類されて、全うには扱われなかった。でもこれは特殊ではない。かなり高い割合で同じような状況に陥る生徒はいるのだ。

 彼らの肩を押すのには何をどうすればいいのだろう。強要するのはよくないし、放置するこもできないとなれば、とにかく待つしか他はあるまい。ある程度、待っている存在がいることを示し続けることが結果的に彼らの肩を押すことになると考える。

 五月ではなくても、いつでも心の不調は起こりうる。子どものも大人も変わらない。そして、私自身も例外ではない。せめて、自分ひとりではないことを意識するだけでもなにかに備えることはできそうだ。

そういう日もある

 今日はちょっとしたトラブルが相次いだ。こういう日はなぜか時々ある。運が悪い日と言えばそれまでたが、なぜか自分が原因ではないのに禍に巻き込まれることはある。

 ただ人のために何ができたなら少しはよかったのではないか。くよくよするべきではない。自分が何か大きな困難に陥る前の警鐘であり、予行演習と考えることにしよう。