秋の草

 朝晩は涼しくなってきた半月かそれ以上の季節の遅れを感じる。彼岸過ぎてもまだ残暑ということばが忘れられない。

 ただ駅前の土手を見上げるとさすがに秋の趣がある。俳句では秋草とかいう風景がひろがり、彼岸花があちこちに咲く。いろいろな生命の循環も混乱しているというが、そうはいっても出番を待っている生物は出演を取りやめることはできない。

 もう少し要領よく秋を迎えたいと思っていたがそうも行かず、今年度も間もなく半分が終わる。やるべきことをまずはやり、あとはそれをいかに楽しむかだ。

確かに私は

 世の中が何でも数値化できるという幻想をどうして多くの人々が信じているのだろうか。数は大小を顕在化できるので、対象を比較し序列化できる。どちらが優れていて、また劣っているかなどが可視化できるのだ。

 ただ、こうしたものさしの危うさは誰にもすぐ分かる。ある数値が良いからと言ってそれが絶対的に素晴らしいとはいえない。基準が変われば序列など簡単に変わってしまう。ところが、ものさしを設定した人に権力がある場合は厄介だ。そのものさしの中で設定者は絶対に損はしない。そしてそれに従う一般人は見事に序列化され苦楽を味わうのである。

 私たちが優劣を感じているものの大半はこうした権力者が設定したものさしによっている。知らないうちにそのものさしに見合う価値観を強いられ、その枠組みで生活することになる。

 こうした考え方では結果的に自分の生き方を生きられない。他人が設定した尺度に従って、そうかもしれないという感覚で生きる。

 大抵はこれで何とか生きられる。中には幸福に過ごせる人もいるかもしれない。自分を消滅させることに成功すれば、他者の用意したよくできたルールに従う方が遥かにスマートに思える。でも何か違う。

 違和感に気づいてしまえば後戻りは難しい。いつまでも他人の価値観に従ってはいられない。とりあえず独自のやり方を模索する。そしてそれは簡単ではない。しばしば挫折する。それなら既存の価値観に戻ろうかとも考える。

 確かに私はこう考えましたということは意外にも難しい。

大丈夫ですか

 大丈夫というのは安心ができる安定した状態をいうことばと子どものころは思っていた。ただ最近は確認や拒否の場面で用いられている。むしろこの方が多い気がする。例えばレジ袋はいりますかと店員が聞く場面で「レジ袋は大丈夫ですか」と尋ねる。客は「大丈夫です」といえば拒否の意味になる。

 「大丈夫」という名詞の意味は立派な男子ということで、剛健な男子が安泰であることを意味にしたのだろうか。それが安定状態という言葉に活用され、副詞的に使われるようになった道筋は想像できる。それがなぜ確認の文脈で使われ、拒否の回答で意味をなすようになったのか。

 思うに日本語によくみられる婉曲の表現の一つと考えるのが最もわかりやすい。確認するのも、拒否も本人の意思がむき出しになりやすい。そこで、用件の許諾そのものではなく、人の心理状態の方に置き換え、意志の確認を是か非かではなく感情の問題にしていることがこの受け答えの背景にあるように思う。

 私自身は最近の大丈夫の使い方にはなじめずにいる。変な気遣い無用などといきがってしまう。これは彼らの使用の意図とは異なっているから、私の憤懣はお門違いなのは分かっている。ただ、大丈夫ですかといわれるとそこまで窮地には陥っていないなどと勝手に考えてしまうのである。

まだ何もないところへのパス

 サッカーやラグビーの選手の出すパスはまだそこに誰もいないところに向かって出される。だから、相手も取れない。

まだそこにいない相手に

 パスを送る者も受ける者も動きのエネルギーの方向や大きさを予測し調節しながら試合をしているのだ。それが際どいものほど、スーパープレーということになる。

 恐らくこれはスポーツ以外にも当てはまる。まだ起きていない事態に向かってパスを送る。そしてそれを受ける相手はその場所に最短距離で向かう。これが上手くいけば大きな成果が得られる。

スポーツが人生のヒントになるのは、スポーツが人生の一部を切り取って強調したものだからだろう。複雑な要因の枝葉を落とすことでものごとがわかりやすくなることはある。

涼しくなつたら始めようと思っていたこと

 ようやく猛烈な残暑も終わろうとしている。昨日は雨に降られたが、深夜にたどり着いた実家のもより駅の温度計は21℃を表示していた。

 秋になったら始めたいと思っていたことがいくつかある。ひとつは久しぶりのジョギング、もう一つは読書、それも多読、そして短い小説の完成と応募である。そのためにやるべきことはこの夏に少しずつ準備してきた。

 体力づくりの方は至急の課題である。かつてと違い、目標は体力維持であり、自己尊厳の安泰である。だから、これは自己満足でよい。

 インプットのための読書は地道に続けてきたが、秋はその度合いを少し増したい。これも何かを覚えるための勉強ではなく、流れ出す知識より少し多めの内容を補充することでバランスを維持しようという企てだ。

 小説を書くというのはアウトプットの手段である。小説でなくてもいい。考えたことを言語化してみることで自分の存在を確たるものとしたいのである。

 暑さを理由にしてできなかったたことが、少しずつできるようになる。まだ変わりうる己の可能性を信じよう。

現実味

 周りを見回すとやけにスタイルのいいそして完璧なメイクアップの女性、相撲取りのような立派な体格の若い男性、初老のサラリーマン、優秀なエンジニアというようなスタイリッシュな男性がいる。偶然ではあるが、いかにもと言えるような人たちに囲まれた。

 私が強烈な違和感を覚えたのは彼らが放つ存在感がどこか現実離れしているように思えたからだ。まるで演劇のキャラのように際立っていたのである。それは日常というものが喪失される感覚であった。

 おそらく個々の人物については彼らの日常を見せたまでであり、特別なことではなかったはずだ。その組み合わせに私が勝手に違和感を覚えたのに過ぎない。さらに推測すれば、それぞれの人物が自らの存在を少しずつ飾っているために、それが複合してアンリアルを演出したといえる。

 日常の複合が非日常になることを再確認したという話である。こういう経験はしばしばあるが今回はそれを表現することができた。

気晴らしのための創作

 高校生からしばらくの間、へたくそな小説を書いていたことがある。いま少しだけ残っているものを読み返すと多くは設定が甘かったり、破綻していたりする。当時はもちろん投稿してみたいと考えたこともあったが、それも本気ではなくほとんどが自分のための憂さ晴らしであった。

 その小説の多くはもし~だったらという内容のものが多い。もし、ある日特殊な能力を身につけたらというモチーフが多いのはおそらく当時似たような小説があったからだろう。その二番もしくは三番煎じなのである。当時の作品の人の顔を限りなく覚えることができたらという内容の小説はそのなかではまだましな方であった。誰もが顔見知りになったら世の中は窮屈かもしれないが、でも悲惨で非人道的な事件は減るのかもしれないという仮定の話である。ただし、それには全人類がこの能力を身につけることが必要で一部の人間の能力なら悲劇にしかならないということを書こうとした。

 いまはなかなか小説は書けない。書いてもショートショートの類である。でも、昔のように気晴らしのために書くのは意味があるのでは思いなおしている。もしできたら、寛容な気持ちがある方に読んでいただくとする。

伝統文化

 伝統文化の多くは後継者不足に悩んでいる。高齢化も大きな要因だが、それ以上に文化継承の方法に問題があることが多い。

 どんなに価値あると評されるものでも、現在の私たちに何らかの価値を感じさせるものでなければ人生を傾けることはできない。それは実用性とか生産性などとは無縁でもいいが、他者を感動させられるか否かは大きな分かれ目になる。

 伝統文化を継承する人を育成するためにはこの感動経験が欠かせない。だから文化を守ることではなく、よく見せることの方が結果的に目標を達成することになる。そのためにも、多くの伝統文化に接する機会を儲けることが大切だ。

学者という生き方

 牧野富太郎の人生を調べると実に興味深い。日本植物学の父としての名声の裏にはさまざまなドラマがある。それは朝の連続テレビ小説で描かれるようなさわやかなものだけではなかった。

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 牧野は裕福な商家に生まれたため、経済的な問題は当初はなかった。ただ高知県の山間部では植物学を学ぶ環境がなく、かつ、一つの研究に専念できるような環境が地方にはなかったのが難点であった。彼はその難関を家族からの資金援助で切り抜けている。ただそのために家業が傾き、果てには廃業に追い込まれている。それでも植物学に熱中できたのは生まれながらの気質と研究への情熱の深さである。

 だから必ずしも周りの人物に幸福をもたらしていたとは言えない。むしろ周囲の献身、もしくは犠牲のもとに成り立っていたともいえる。そのような環境にあることを自ら受け入れ、研究を続けたのが牧野の才能といえる。一歩間違えば独りよがりな危険人物であった。

 学者という生き方にあこがれたことがある。学問に身を捧げ他を顧みないという生き方をした人に素晴らしい成果を残した人は多い。世事にとらわれず自らの知的好奇心の思うがままに研究を続けられることには羨望する。ただ、それは思うより易しいことではない。周囲ことを考えず熱中できることはもはやその人物の才能であり、それができない人は突き抜けることはできないということなのだろう。

 牧野富太郎だけではないが、優れた業績を残した人物の周囲にはそれを支える人たちの並々ならぬ努力が隠されている。

修正する機能

 私たちの脳には不思議な機能がある。それは文字の連続の中に意味を感じ取るこである。木当はただの線と点などの連続に過ぎない文字の羅列に意味を感じ取る。きらにその文字列に間違いがあつたとしても、勝手に脳が修正し、意味を解釈てきるようにしてしまうのだ。

 実は前段落に意図的に誤植をしてみた。気づかれた方が多かったろう。それが5箇所あることはおわかりだろうか。わからなくても仕方がない。それが脳の働きなのだから。

 不完全な情報に一貫した意味を感じることはおそらく長い時間をかけて人類が獲得した能力なのだろう。大抵の場合、手に入る情報は不完全かつ断片的であり、それを元に判断しなくてはならない。類推する能力が高ければ、危険回避の可能性は高まる。

 この類推する能力は最近のAIに接したときの人々の反応にも見て取れる。先日、生成型AIの講習を受けたとき、講師がチャットの回答はAIが単語の連続の確率で組み合わせているだけで、言葉の意味を理解しているわけではないと説明した。すると同僚の一人は回答文には感情が感じられるので、講師の言っていることは間違っているという感想を述べていた。これも類推の能力がなせるわざなのだ。

 AIの作成する回答に人情を感じ取るのは、文章を読むときの私たちの基本的な姿勢のせいなのだ。文字列の乱れを勝手に修正して読むように、実は確率的な語彙の羅列であっても、そこに意味を感じ、心まで読み取る。AIとの付き合いでこのことが余計にはっきりとしてきた。

 逆に言えばこの能力こそ機械にはできないものの一つであると言える。豊かな想像力とおおらかな推測力、矛盾を乗り越える何かは人間の生物としての能力なのだろう。