荒天予報

 台風の影響で今週は荒れる天気となりそうだ。沖縄県は台風の直接の影響を受ける。本州はこの台風がエネルギーを供給する形になる梅雨前線が長く強い雨を降らせそうだ。

 週間予報では関東は金曜日に大雨となっている。台風の速度が遅く、その影響が長期にわたって続きそうなのが不安である。今回は暴風よりも豪雨に注意すべきだと考える。

 都会に住んでいると、河川の氾濫はあまり話題には上らない。過去には一級河川の氾濫により大被害が出たこともあるので油断はできない。それよりも深刻なのは、地下階への雨水の侵入をいかに食い止めるのかであろう。過去に浸水の経験のあるところには土嚢が用意されているところもある。蟻の一穴の比喩のごとく、こまめの手当てが求められるので関係者には点検をお願いしたい。

 荒天時は無理をしないさせないことも防災の基本だ。勇気をもって防災情報を発信してほしい。

日本製端末は

 富士通の携帯電話関連事業が事実上終焉したというニュースがあった。残念だが、日本企業の考え方と携帯端末との相性はよくない。それが具現化してしまった。

 携帯電話のような機械音痴を含めた誰でも使う機械は、それを踏まえたインターフェースを作らなくてはならない。日本企業にはその発想はできなかった。極めて高性能だが素人では使いこなせない。それが日本製の特徴だった。

 高性能を維持するためにはある程度の収益がいるが、グローバル化によって競争力が激化すると、性能は劣るがとりあえずよく使える外国製品が選ばれ、日本製は資金源を奪われていった。高機能だが使いにくい機器から、そこそこ高機能で他の国の機器に劣るところもあるが、使いにくく価格が高いという位置づけになってしまったのだ。

 携帯電話に限って言えば結局ソニーだけになってしまったと言える。シャープは台湾企業のバックアップを受けて延命しているが、最近の報道では旗色がよくない。この2社をあえて日本製スマートフォンメーカーと呼ぶならば、かなり寂しい。

 富士通や京セラにもう一度この業界に戻って欲しいというのが私の勝手な願望だが、道のりは厳しい。端末を作ることは今の日本の経済風土では魅力的ではないようだ。

 考えてほしいのは日本語環境に適したインターフェースの構築だ。今のスマートフォンはつまるところ英語ベースの仕組みでできており、使用者がそれを学んだ上で操作している。しかしこれは実は大きな損失なのだ。思ったことをすぐに形にできるシステムを作ることが日本語環境の急務である。

 日本語環境の市場は世界的にみれば大きなものであり、なおかつ他言語の技術者にとってみれば障壁が大きい。ならば日本企業の独壇場になることは必定と言える。また、特定の言語文化への対応のノウハウはきっと他国にも応用できるはずだ。人間が機械に合わせるのではなく、機械の方が文化的要素を盛り込んで動く時代は必ず来るはずだ。

 ハードの開発で遅れを取った分をソフトのイノベーションで取り戻そう。そのためにはエンジニアの皆さんには国語をもっと学んでほしい。あるいは日本語の様々な使い手と交流を持っていままでにはない使い勝手を創作していただきたい。

固定

 何かを考える際に、何らかの要素を固定してしまうという手法がある。例えば、時間や空間、その他の要素のうちで、あるものを止めてしまうと他がよく見えるようになるということで時間の流れを止めれば、同じ時代に何が起きているのかを通覧できる。場所を固定すれば。そこで起こる様々な出来事の流れを把握できるはずだ。

 実際の世界は変動する要素が多数あり、相互に影響し連動するから、どれかの軸に固定するということは不可能だ。誰にも時間の流れを止めることはできないし、多様性を排除することはできない。あくまで頭脳の中での仮想に過ぎない。

 ただ、そういう仮想を通して私たちは物事を整理して考え、新しいアイデアを得ることができる。仮想的に何を固定するのかが大切なのだろう。

季節はずれの台風

 沖縄に接近している台風がかなり大きいらしい。この時期にしては異例な最低気圧を観測し、今後も大きな影響を及ぼす可能性があるという。

 遠く離れた関東地方の雨も、この台風と関係があるようだ。台風に向かって流れる空気が風となり、それがぶつかり合うところに前線が発生している。何と命名されるか分からないが、梅雨前線に似たものとなっている。これが南下してくると日本列島に水害をもたらす要因となる。

 ここ数年、私の印象だが、梅雨が早めに始まり、突如猛暑に変わる気がしている。今季はどうなのだろう。恐らく、集中豪雨もあるはずだ。危険地域にお住まいの皆さんにはくれぐれもご注意をお願いしたい。

前線

 日本列島を横断する停滞前線の影響で東京では夕刻から宵にかけて雨が降り出した。今のところは断続的な降り方で雨量は少ない。いわゆる梅雨前線もそろそろ発生するはずだ。万国旗のような天気マークに注目したい。

調子の良し悪し

 少し時間がすぎるとなぜこんなことにこだわっていたのか分からないと思う経験は何度もしている。細かいことにこだわっていた自分が不可解な存在の様に思えてならないこともある。なぜなのだろう。

 私たちはものを考える際に身近な環境の影響を受けやすい。目につくものを基準にして物事を考えていく。だから、そのときにどのような環境に置かれているかが、判断基準に大きな影響を及ぼすことになる。

 その環境と呼んだものは刻々と変わるもので、常に揺れ動いている。だから、それを基準にした価値判断もまた非常に不安定なものと言える。その時は正しいと思っても、実は見方を変えればまったく別物に映るということもしばしばある。最初に述べたことは、このように価値基準が変わった後に過去を見返したときに起こる。

 このようなことを書きながらも、私は日常を超越することなどできず、その都度悩み、その都度苛つき、その都度落ち込んでいる。とても残念なことだが、この繰り返しからは抜け出せそうもない。ただ、少々馬齢を重ねたお陰で、わずかながらメタ認知ができるようになっている。

 このところ不調が続いており、いろいろな行き詰まりを感じている。それも本当は錯覚かもしれないと考え直すことにしている。自分が考える調子などというものほど怪しい感覚はない。だめだと思うときも、絶好調と思うときもどこかで考え直す必要がある。

漢字練習

日本語にとって漢字は不可欠だ。恐らく漢字がなければ貧弱なコミュニケーションしかできない。漢字はもともと古代中国の文字だから、日本語は外国語に支えられていることになる。

字を書こう

これは別に日本語だけの現象ではない。ヨーロッパな言語の多くも、自国語以外が発祥の語彙が多数含まれ、文法までも他言語から取り入れている。日本語の場合はそれが文字という目に見えるものだから分かりやすいというだけだ。ちなみにひらがなもカタカナも漢字の省略から生まれている。

さて、漢字を書けることは日本語話者にとっては重要な課題だが、この能力が少しずつ低下している。その原因の一つが、デジタル化によって漢字を手書きする機会が減ったということがある。複雑な字形の漢字は、つねに形を確認しておかなくては忘れてしまう。そして確認の方法が書いてみることにあるのだ、

例えばいまこのブログはiPhoneでフリック入力している。仮名で入力すると漢字の候補が挙がる。その中から相応しいものを選ぶのだが、この際に漢字の字形はほとんど瞬時に見るばかりで、詳しく確認していない。万一、少し違う文字をそれとなく紛れ込ませていたならば、それを選んでしまう可能性は十分にある。

 こうした生活を繰り返していると漢字が書けなくなっていく。書けないと漢字を使う機会は減るから、次は読めなくなることに繋がる。

私自身の問題として漢字を書く機会を確保しなくてはならないと考えている。それには積極的に手書きの文章を残すことがいい。その中で漢字を極力使うことにしよう。人に言う前に、まず自分の言語世界を守らなくてはならない。

地震

 夕刻に地震があった。茨城県南部で震度5弱だったという。地震に対する耐性ができてしまった私にとってはこの規模ならばあまり焦らない。でも、この感性はおかしいのかもしれない。

 東日本大震災の前は、震度4からは恐怖のスイッチが入り、5以上になると歴史的大事件の雰囲気が横溢した。それがいまは震度5強くらいからようやく恐怖の対象になるという鈍感さだ。

 一つには、町の耐震免震の技術が発達したことがある。震度5弱程度で崩れる建物はない。大きく揺れてもそれを受け止めるシステムができている。

 ただこうした慢心が齎す悲劇を考えねばなるまい。私はライフラインが停止した事態をもう一度考えることにする。この地震も何かの教訓にしなくては。

梅雨の気配

 5月も間もなく終わる。夏日になる日も増えて季節が進む気配が見えてきた。駅前の紫陽花が花をつけだした。たくさんの蕾も開花を待っている。見た目と違って毒を持つというこの花も、見るだけなら季節を感じさせる心遣りの一つだ。高い気温と湿度が感じられると梅雨も間近だと思う。まだ間があるだろう。薫風を楽しみたい。

若葉のグラデーション

 絵心は皆無だが是非描きたいと思うのがいまごろの木々の若葉である。実に繊細で複雑だ。すべてが異なりながら、どれも同じような形をしている。

木の絵を描きたい

 水彩でも油彩でも入門書を立ち読みすると、こうした木々の描き方の指南がある。その通りに真似てみるとなるほどそれらしい絵になりそうだ。ただ、これは木を描いたのではない。木を見て森を見ず、という言葉があるが木さえ見ないで木を描くということになる。

 しかし、本当に見たままの木を描くことはかなり大変なことだ。一つ一つ違う葉の有様をどのように描こう。描きながら刻々と変わる自分の感情をどう制御すればいいのだろうか。

 それでもいつかは自分の目で木を描くことを夢見ている。恐らく、他人が見たら何の絵か分からないものになるかもしれない。ただ、ゴッホの糸杉のように、それがどうであったかより、どう見えたのかの方が大切なのだろう。

 若葉のグラデーションを描くことを目標に加えることにしたい。