秋の冷たい雨

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 今日は一日中秋の冷たい雨になった。おそらくつい最近まで続きすぎていた猛暑の反動で絶対的な温度よりも寒く感じるのだ。こういう雨に久しぶりに降られたので外出が億劫になっている。よく考えていれば手袋もマフラーもいらないのだから、冬の国から帰ってきたら快適そのものだろうに。

 雨が降ると精神的に落ち着くこともある。余計な選択肢を自ら捨てて家の中にこもってしまうのは、見方を変えれば集中するにはよいということになる。ただ、そうやって本などに向かっていると別の意味で違った悩みも発見する。やらなくてはならなかったのに無意識に、もしくは意図的に後回しにしていたことがどんどん浮かび上がってくる。

 それらを再び忘れようと気晴らしのことを始める。およそ非生産的なことのほうがこの手の対策には向いている。だから無為な一日が生まれやすい。結局何かを始めようとして、ある悩みに気が付き、それを隠匿しようとして別のことを始め、いつしか時間がたっている。そういうことなのだろう。こうしたことをこれまでもう何度も繰り返しているというのに一向に制御できないのはなぜなのだろう。

 冷たい雨に打たれるほうがやはりいいのかもしれない。

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地震なき津波

 本日(10月9日)の5時25分ごろ、鳥島近海を震源とすると想定される地震が発生し、津波注意報が発令された。気象庁の発表によると7時17分に八丈島八重根で60㎝の潮位変動を観測している。津波を観測したのは高知県の室戸岬や、鹿児島県の種子島にも及んだ。

 この地震は不思議なことに震度1以上の観測がなされておらず、マグニチュードも発表されなかった。これまでの地震と津波の関係とは別の概念でとらえなくてはならないようである。一部の専門家は海底での地殻変動か火山活動が影響しているのではという。現在関東や小笠原地域はまとまった雨が降っており、空撮からの確認は難しい状況だ。

 鳥島近海で今月に入ってから何度か地震を観測しており、5日の11:00にはマグニチュード6.6の地震が発生した。その時も津波注意報が出ていた。今回はそれより小さな地震でありながら、津波が広範囲で観測された。津波は数十センチであっても強大な力を持っており、人々の自由を奪うものらしい。通常はこうした地震は発生してから1週間は警戒期間だというが、今回は構造が分かっていないためより長期の注意がいるらしい。果たして南の海で何が起きているのだろうか。

ある枠組みの中で

 様々な人間の生き方を共通するある枠組みの中でとらえるという手法は文学などの創作の世界では常套的だ。たとえば同じホテルに宿泊した人たちの人間模様を描くグランド・ホテル形式はいろいろな作品にみられる。この変形としては建物や乗り物ではなく、特定の地点の話としたり、特定の祝祭や行事を枠とするものがある。

 この方式で描く群像劇はそれぞれの人の違いの書き分けが肝要だ。同じ場所にいても個人の属性やおかれた立場が異なれば行わることは大きく変わっていく。年齢、性別、職業、直前に起きた出来事、人間関係など、それらのどれか、または複数が変われば大きく結果が変わっていくことになる。

 私たちはこういった作品を見たときに、いかに人生は多様なものであるのかを知り、そこに感動のポイントを見出す。個々人に別の今日があることは当たり前なのだが、日常生活の中ではそれを意識できない。むしろ自分と同じような毎日を過ごしている人が大半なのではないかとなんとなく考えている。そう考えることで安心もする。自分が自分だけの生き方をしているという自覚は時に大変な緊張をもたらすものだ。

 枠組みを決めて世界をみることで見えなくなるものがたくさん増える。その一方、見えてくるものも生じる。気づかなかった要素が浮き上がってくるのだ。

分かりにくい説明

 何かを説明するときにどうしても自分本位になる。自分が言いたいことをいうのだから当たり前なのだが、それが相手にとって分かりやすいのかという点に関しては検討しなくてはならない。自分にとって分かりやすい説明が、必ずしも他者にもそうなのかは分からないのだ。

 筋道を立てて説明すればいいという人いる。たしか論理性は必要である。話術もあった方がいいに決まっている。ただ、こうしたテクニックだけでは説明の分かりやすさは生まれない。おそらく根本に触れていないからだろう。

 説明の有効性を高めるのは相手の視点なり立場なりを想像し、それに沿って話すことにある。どんなに立派な説明でもこの線を外れていれば十分に機能しない。相手のことを知るためには準備がいる。聞き手の立場で説明を組み立てるのは当然であるが、意外に忘れられていることがある。中には相手の理解度が低いなどと嘆くこともある。それは実は出発点を誤っている自分のミスであるということを認めなくてはなるまい。

時代劇の効用

 いわゆる江戸物の時代劇がほぼ全滅していることは残念だ。中学生に大岡越前や遠山金四郎について尋ねたところ、ほぼ全員が知らなかった。昭和世代にしてみれば大岡捌きや金さんの双肌脱ぎの場面は当たり前だが、今の世代にはそれが通用しない。

 時代劇の価値観は決して理想的ではない。むしろ現代社会では否定されるべき要素も多い。でも、過去のモラルを比較対照の方法にするべきものとすることはできた。生活の中の古典というレベルにおいて。

 それがいまは大衆の多数派の考えに翻弄され、ようやく出てきた独自意見は個人の感想と纏められる。明らかにおかしな現実に対処できずにいる。

 時代劇の非現実性はそうした行き詰まりを打開する方法にはなっていた。正確ではないが、今の私たちの在り方もまた正解とは限らないことを明かしてくれていた。そういう役割を果たしていた時代劇が消滅していることはかなり不幸な事態ではないのか。

秋らしく

 上着着用だが不快感はなくむしろ快適だ。周囲も上着着用者が増え、通勤電車の群衆は雰囲気が変わった。

 連休が終わったら、リュック生活もやめようかなどと考えている。やはり上着を着てさらに背嚢は合わないと思う。

 荷物を減らさなくてはならない。いまの私はそのまま避難生活ができるくらい色々なものを持っている。それもほどほどにしていこう。秋らしくするためには捨てなくてはならないものもある。

紅白は枠組みを変更を

 紅白歌合戦が日本の伝統であるかいなかについては議論がある。私はこの行事自体には意義があると考える。この番組に出場することを目標としているプロ歌手は依然として多く、その意味でも継続すべきだろう。

 ただ男女対抗の対抗戦という形式はそろそろやめていいのではないか。男女で芸能を二分することはほとんど意味がない。混成のバンドも増えているし、むしろこれからは性別によって区分けをすること自体無理がある。

 例えばそれぞれの本拠地や、縁の地でチーム分けするのはどうだろう。いっそのこと生まれ月で分けてもいい。毎年、チーム分けの基準を変えてもいい。さらにいうなら対抗戦の勝敗の結果はほとんどの人にとって無意味だ。だから、勝敗をつけること自体やめてもいい。

 エンタメとして盛り上げるために歌以外の要素があまりにも強調されているのも気になる。じっくり歌を楽しむ番組になればいい。取ってつけたように合戦の体を装うことは止して構わない。

 年末に歌の力で感動をもたらしてくれる歌手に活躍の場を与えるべきだ。歌番組の原点に回帰すればと切望する。

寒い朝

 今朝は肌寒さまで感じる気温になっている。体感は人によって異なるので一概には言えないが、20℃以下になると上着を必要とする人が増えるらしい。いまは端境期なので半袖シャツの人もいれば薄手のジャンパーを着た人まで多様である。

 私はまだ上着を着ずに出勤しているが、明日からは考えようと思う。風邪などひいてはつまらない。コロナもまだ終焉しておらず、周囲に罹患者が出ている。気を付けなくてはならない。

 私にとっての課題は上着のポケットに入れたものを忘れることだ。上着に残すものは筆記用具とハンカチと決めよう。それ以外のものを入れると管理ができなくなる。上着を着る季節のことはなぜか夏のうちに忘れてしまう。

スポーツ界に学ぶこと

 最近日本チームや日本人選手の海外での活躍が多い。大谷翔平選手のホームラン王はその象徴的な例だが、ほかにもトップレベルで活躍する選手がたくさんいる。少し前のことを思い出すと、日本人は体格的に不利だとか、スタイルが悪いからだめだとか、様々な自虐的な自己卑下があったことを思い出す。それらはしょせん思い込みであったことになる。

 現在成功している分野では競技人口を増やしたり、将来を見据えた設備投資をしたりしたものが多い。幼少のころから少数のエリートを選抜して育成するというスタイルは日本ではとりにくい。裾野を広げることで可能性のある選手の現れるのを待つというのがこの国の在り方とみる。

 スポーツ以外でもこの方法はとらなくてはならないのではないか。科学者を育成するならば多くの科学好きを生み出すことが必要で、その中から図抜けた人材が出てくる。文学もそうだ。多くの人が創作体験をすることで達人が生まれる。かつての俳句がそうであったように、文芸のレベルを庶民にまで広げることは大事なことだ。そしてそれがこの国の底力であった。

 それなのに昨今は効率や生産性のことばかりいい、無駄な努力を嫌う傾向にある。本当に自分が好きなものを探させ、熱中させることこそ、この国のあるいは地域の未来を築くことにつながるはずなのだ。スポーツのように単純ではないが、でも世界を変えるためには決してエリート教育だけが必要なわけではない。

道具として

 実は結構AIを使っている。AIに乗っ取られるなというのは私の持論だが、そう言いながら結構使っている。

 生成型AIは簡単な指示で文章を書いてくれるのでそれを使ってアイデアを練ることがある。しかし、それをコピーはしないというの゙が私の最後の抵抗だ。WordPressにはAIが自分の書いた文章を批評してくれる機能がある。なぜか英語のコメントだが、それなりに参考になる。具体例を挙げよ。反証の要素が足りない。結論が曖昧だ。ごもっともである。身近な批評家はいてくれて助かる。

 あくまでAIは道具として使おうと決めている。最終的には不格好でも時間をかけても自分で仕上げる。それがこだわりだ。そんな啖呵を切るから、私のブログは誤字脱字、論理矛盾だらけでアクセスも伸びない。でもそれでいいのだ。ここは譲れない。