
インフルエンザが流行しているようだ。コロナ禍と言われた時期にはあまり聞かなかったので、マスクや手洗い等はやはり予防効果があるのだろう。私も来月辺りからはマスク生活に戻るかもしれない。電車に乗るとき限定かもしれないが。
日々の思いを言葉にして

インフルエンザが流行しているようだ。コロナ禍と言われた時期にはあまり聞かなかったので、マスクや手洗い等はやはり予防効果があるのだろう。私も来月辺りからはマスク生活に戻るかもしれない。電車に乗るとき限定かもしれないが。

内山田洋とクールファイブのヒット曲「長崎は今日も雨だった」は昭和世代ならば知らない人はいない。歌詞は忘れても前川清の顔をしかめて熱唱する姿と「ワワワワー」のコーラスは記憶に焼き付いている。
ところがいまの若い世代にはこの話は通じない。いい歌だから是非とも後世に伝えるべきだとは思うけれど詮方無い。でもどうして雨なのだろう。長崎は別に降水確率が高い地域ではない。たしかに水害はあるがそれはあくまで突発的なものだ。
雨に感じる情緒を説明しなければ伝わらない。昭和という時代は価値観の変動がはげしく、同時代人でさえ戸惑うほどだ。雨に人情を感じるのか、生産活動の障害としかみない人もいる。現今は情緒を感じられない人が増えた。
長崎でなくても雨の日には特別な思いになる。かすかな心の動きを感じ取ることを大切にしたい。おそらくいつかは寂しい雨に救われる日が来る。やさしさとはこういうところに表れるものである。

自分がかつて書いた字を読み返すと不思議に思うことがある。こんな字を書いていたのかと素直に驚く。それが子どものころの文字であれば普通だろう。子どもは手の大きさや筆記具を扱うための筋力が異なるだけではなく、字形に関する認識も違うから書いた字の印象が大きく変わって見えるのは当たり前だ。
気になるのは大人になってからの字形の変化だ。ある時期には繊細な字体で書いていたのに、突然豪快もしくは乱暴になる。そういう繰り返しを何度も繰り返している。これは気分や環境の変化によるものに違いない。活字のような字を書くことを理想と考える時もあれば、自由闊達に書きたいときもある。ノートなどをみると、どうもその気分の波が私には大きく作用するようだ。この時はどんな気持ちだったのだろうか思い出すのもいい。
デジタルでブログを書いているのはその意味では物足りないことになる。いつ書いても同じフォントで画面に現れるのは大切な感覚の何かを失わせているのかもしれない。
谷村新司さんが逝去された。私より少し上の世代であるが、アリスとして活躍されていたときはリアルタイムで楽曲に親しんだ。そのころ始めたギターの練習曲にもアリスの曲が多かった。時代を彩る方がなくなると何かが大きく変わったような気になる。
人の命は限りがあるからいつかお別れが来るのは知っている。自分だっていつこの世を去るのかは分からない。この後すぐかもしれないし、もうしばらく世にはばかるかもしれない。ミュージシャンの場合は少し違う。人生は短く芸術は長い。残した曲はいつまでも消えない。誰かが歌い継ぐ限り続く。個人的には「遠くで汽笛を聞きながら」の哀愁が好きだ。絶望しながらも生きていこうとする底力を感じる。あの時代の雰囲気には実にあっていた。
最近の歌にもいいものがある。それを共通体験として持てているのだろうか。多様化の中で時代を代表する歌謡なり、事象というものが細分化されている。すると共通の体験は持てなくなるのでは危惧してしまうのだ。
普段の読書を通して速読と熟読は意識して行うべきだと思う。それが間違っていると本を読むこと自体が面白くなくなる。

速読というのは別に必要以上に速く読むということではない。かつてパラパラとページを送るだけで内容を理解できるというような本が売れたが、これは少なくとも私のような一般人には無理だ。そうでははくて、多少分からないことがあっても大筋をつかむように読むということである。
説明的な文章には常套的な構造があり、多くの場合は問題提起、分析、結論という順になっている。だから、最初と最後に注目すればある程度の内容はつかめるのだ。この方法に従ってざっと通読してしまうというのが、ここでいう速読だ。小説の場合はそれほど単純ではないが、場面の変わり目に注目して読むと同じようなことはできる。ただ、創作的な文章の場合、速読は勧めない。
熟読は分からない言葉に出会ったら、それにこだわりながら読む方法である。たいていの場合、抽象的な表現のあとに「つまり」などの言葉で説明が入るが、中には読者へのサービスがよくないものもある。その場合は辞書も引きながら読むという方法である。そして、メモを取りながら読むこともする。
速読と熟読は目的が異なる。楽しみながら知識を増やしたり、引き出しの数を増やしたりするのなら速読がよい。一方で読書を通してその内容を習得する場合は時間をかけて読むべきだ。本が嫌いな人はこの方法を間違っていることが多い。概要をつかむ読み方と内容を理解するのとでは違うと考えた方がいい。
今日から今月も後半に入る。今日は少し気温が上がるとの予報だがさすがに秋の深まりを感じる。長すぎた夏のせいなのか、快適となった今頃にかえって疲れを感じているのだ。
いろいろ試しているうちに少し生活が複雑になってしまった。これからは整理を少しして生活をシンプルにしていく。何でも片づけて自己満足することには与しない。見た目は変わらなくともやりやすいように作り変えていくのが目標だ。
鞄をリュックのようにしていたのをやめた。するといままで背負っていたために感じなかった重みを感じている。いまより持ち物を減らさなくてはならない。軽量化するために持つ道具の選び直しをせねばなどと考える。こんなふうに季節の変わり目は生活の仕方を見直すことも必要だ。

生物学者のエッセイを読んでいると実に不思議な気持ちになる。生物はいつも環境に適応するために自分の身体を変化させ続けているというのだ。世代という単位では気づかないことも多いが、そのスケールを少し拡げるとすぐにその変化に気づく。寿命が極めて短い種の場合はそれがかなり早く起きる。
人間も同じだ。今の学説ではホモサピエンスはアフリカ大陸にいた共通の祖先から世界中に拡散したという。地球上の各地に拡散するグレート•ジャーニーの途中で各地の気候や地理的な要因に適応した人類は、その形を次々に変えていったことになる。東アジア人の顔が凹凸に乏しいのは、寒冷な気候を過ごすうちに体表面の面積み減らして体温の発散を減らすためだという。
実は進化の要因は複数の要素の複合の結果であり、単純な説明ができない。それを遺伝子とか進化論とかで何とか理由づけしているのだ。その意味で後付けの説明であって未来のことは分からない。
ただ、私たちの身体そのものも自然の一部で、適応し子孫を残すために今後も形を変え続けるということだけは確かだということだ。今の姿が過去に遡れる訳ではなく、未来もこのままであるはずもない。

最低気温の方に関心が出ている。今朝などは12℃の予報で実際にもそれに近いところまで下がった。今後も10℃台の前半で推移するようだ。かなりの肌寒さを感じる。
さかんに鳴いていた虫たちも心なしか力弱くなっている。もう10月も前半が終わる。秋は夏に削られて身を細くしているのだ。気象庁によれば1898年から2019年の間に日本の観測点の平均気温は1.24℃上昇しているという。もっとも近藤純正東北大学名誉教授の研究では過去のデータには測量機器の精度の問題や、観測環境の変化による誤差が大きいため、いくつかの補正を加えたうえで0.77℃の上昇と結論している。数字にしてみればわずかだが、この小数点以下の違いでも気候の変動の影響は大変大きいのである。
2015年の国連気候変動枠組条約締約国会議で決まったパリ議定書によれば、産業革命以来、2030年までの気温上昇を2℃以下、できれば1.5℃以下にする努力をするというものだった。算定の基準があいまいなので数値的な説得力があるかが議論されなくてはならない。昨年のニュースでは昨年の世界気象機関の発表では産業革命前からすでに1.15℃上昇しており、近年上昇率が加速しているという。果たして約束は果たせるのか。
一日や一年の寒暖だけでは判断ができないのがこの問題の深さだ。今朝は肌寒いが温暖化が事実だとすればこれでは物足りないということになる。