昨年11月にオープンしたグランベリーパークは今日が初売りです。福袋が並ぶ中で私はスーパーの寿司を買って帰りました。

日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
昨年11月にオープンしたグランベリーパークは今日が初売りです。福袋が並ぶ中で私はスーパーの寿司を買って帰りました。

一部のコンビニエンスストアが元日の営業をやめたとのことです。英断といえましょう。これからは過剰なサービスはやめて質にこだわるべきです。
24時間営業の便利さは私も実感しています。特に孤独を感じた独身時代に深夜のコンビニでの缶コーヒーは本当に心を温めました。しかし、いま人材確保も難しく、肝心の店員の質も低下している今日において24時間営業の意味はあまりありません。むしろ私たちはサービスの途切れる時間があることを踏まえた生活をしていくべきです。
働き方の改革だといいますが、改革すべきは生活の仕方の方です。私たちは人任せでなにもかも金をだせば何とかなると思い過ぎてしまった。やはり自分の人生は自分で責任をとるということをもう一度考え直さなくてははならない。いつでも開いている店があるのは幸せですが、その幸せを前提にしてはならないのです。コンビニは店の事情で夜は占めても構わないし、その方が永く営業してくれるのならばそれに越したことはない。
元日の今日、あわてて何も食べられなくてもそれでもいいではないですか。季節感を失った人に一日の断食は当然です。むしろそういうことを通して文化を知るきっかけになるのならいいことではないでしょうか。
2020年が始まりました。今年は東京オリンピック・パラリンピックが行われる年です。この行事の関係で私の仕事も大幅にスケジュールが変わります。日本にとってはメダルをとること以上にこの大会を成功させることと、大会後の景気対策を成功させることが肝要の一年になります。
私自身も20年代の始まりということを意識して今までにやってこなかったことを始めてみようと考えています。資格や検定にも挑戦しますが、もっと関心があるのは趣味的なことです。中年という年齢の後半に入った私としては一生続けるというよりは今熱中できることを一生懸命やるという一年にしたいのです。
私の生き方は人様に自慢できることは少しもありません。少々夢見がちな点を除けば普通のおじさんの域を出るものではありません。でも、年甲斐もなくいろいろやろうとしているという点だけは周囲より抜きんでてみたいと考えています。
今年行われたラグビーワールドカップが残したものは大きいと感じています。日本チームの健闘はもちろんですが、そのチームが多国籍の選手で作られ、しかもその戦略は日本語で行われていたことが非常に示唆を与えてくれました。スポーツのあり方を越えた今後の社会の方向を予感させてくれるものでした。
イングランド大会で日本代表チームが南アフリカに勝利したときには、日本代表選手にカタカナ名の人物が多数いたことに対して一種の拒否感があったことは否めません。それがラグビーという競技の特殊性という枠の中で納得されようとしていたことも事実です。今回の日本大会でラグビー流の考え方は一気に広まりました。そしてこの競技はいわゆるにわかファンを受け入れる懐の深さがありました。
この大会でかなり多数の日本人は各国の国歌を覚え、試合前の国歌斉唱で歌いました。地域の取り組みとして国歌を披露したこともあったようです。国別対抗という形をとる試合ではどうしてもホームアンドアウエー的な殺伐した感がでてしまうのですが、日本の取り組みはそれを緩和するものでした。日本流のおもてなしだと考えられた行いですが、実はこれは日本人にとって国のあり方を考えさせるきっかけにもなっていたと考えます。
チームに外国人がいることに対しての寛容性も一気に進みました。外国籍の選手が多数いても日本代表として疑われなくなりました。当時は韓国籍だった選手がもっとも負担の重い最前線でチームを支えてくれていたことに対して大きな賛辞が送られていました。日本国籍を取得した人、国籍上は日本人でも他国の文化を持っている人などさまざまな背景の人たちがチームを組んでいるのを知り、それを素直に応援することができました。いわゆる純血に拘っている限り決して見ることができなかった風景を見ることができたのです。のちに生まれたOne Teamという言葉は非常に象徴的なものでした。
スクラムを組む時の日本独自の作戦は日本語を通して練られたといいます。「間合い」といった伝統的な日本語をチームで共有し微妙な力のベクトルを修得していったそうです。日本語でビクトリーロードという替え歌をみんなで歌うことでチームの士気を高めたとも言います。ということは多文化共生は単なる雑居ではなく、揺るがない独自性というものがあって力を発揮するということになります。日本文化が移民によって汚され薄められてしまうという危惧は確かにありますが、それよりもこの国の文化のよさをはっきりと認識し、新入りに伝えていくことの方が現実的なことなのです。
スポーツを離れた社会全般にもこのことは言えます。これからの日本はいろいろなことを受け入れていかなくてはならない。そうしないと国としての形を保てなくなります。ただ、どのようになっても今まで築き上げてきた伝統を強みとして磨き上げ、新しい時代に適した形で伝えていく必要があるのです。そのためにはもっと自分たちについて知らなくてはならないし、理解したことを言葉にしていかなくてはならない。グローバル化と言いつつ、自国文化を顧みなかったこれまでのあり方を反省し、日本文化を武器にすることを考えていくべきであると改めて考えています。
年賀状を年内に出す習慣がなくなりました。昔はそれなりに書いていたのですが、今は年が明けてから投函する始末です。
新年のあいさつは本来自ら赴いて行うべきものであったはずです。それが郵便の発達によって書面で行うようになり、さらにはがきという便利なツールができたために挨拶は一枚の紙になりました。いまはそれが電子媒体となり、もはや物でさえなくなっている。液晶の点滅の仕方で挨拶を済ませるようになっているといえます。
私はその点滅すらもさせない。でも年賀状を出すことの意味はあると思っています。とても少ないのですが賀状は出します。私の書く年賀状は結構文字が多いので、普通の手紙と変わりありません。だから書ける枚数も少ないのです。
年賀状は私にとっては自分の抱負や計画を公開するための手段になっています。人に行ってしまうとやらなくてはならなくなるという作戦です。結果として毎年、多少嘘つきになっていることも事実なのですが。
私の最近の座右の銘は「後生畏るべし」なのかもしれません。あいまいな表現になっているのは結果的にそう考えているというものであるからです。次世代リーダーの輩出こそが責務と考えているのです。
生徒諸君は多くが未完成で成長段階にあります。しかしそれは発達段階上の現象であり、自分より劣っているということではありません。昔より今の子どもは様々な点で恵まれている。だから苦労を知らない。苦労していないから自分より劣っているなどいう思考回路は私たちの陥穽にあたります。どうして自分より劣った世代が次の世界を担えるでしょうか。少なくとも自分たちよりは困難な状況が予測される将来を担う人材はもっと優秀であらねばならないし、現にそういう人材が生まれつつあるのです。
だから生徒に接するととき、今は教員と生徒という立場にありますが、時間が経てばそれが逆転するかもしれない。いや、なるべく早く逆転できるように接していかなくてはならないと考えます。自分を超えた存在をいかにしたら生み出せるのか。教育の根本理念をもっと考えていかなくてはならないと考えています。
そのために最低限必要なのは生徒に敬意をもって接することではないでしょうか。自分より劣った自分以下の存在を教化するのではなく、自分を超える存在が成長するのを手助けするという考え方こそ今の教育界に必要な考え方なのです。
私の通勤で使う道には自主的にゴミ拾いをする方がいます。最近2人目の方に出会いました。
道端に落ちているゴミをトングを使って拾い集めているご高齢の女性がいました。持参のビニール袋には結構な量のゴミが集められていました。さり気なく作業をするその方の様子にはちょっとした感動を覚えました。
数日前から別の男性がゴミ拾いをなさっている姿をお見かけするようになりました。もし善意の行動が広まったとしたのなら、すばらしいことです。ボランティア活動は現代の日本に必要です。これが善意の連鎖ならばこの世の中も捨てたもんじゃない。
他人のことを誉めるだけではなく、自分には何ができるのかを考えることが大事です。いかにして社会に貢献できるのか。身近なところから考える必要がありそうです。
一つの仕事を実直に続けている人をみるとさまざまな感慨に包まれます。どうしてかくまで情熱は絶えることがないのか。何が彼を動かすのかと。
一つのことを継続することは年々難しくなっています。社会の変動が激しく、その影響に飲まれてしまうからです。とどまりたくてもとどまれない、大きな流れの中に私たちは置かれているのです。だから変化しないのは停滞ではなく、かなり能動的な行為であることになります。
変化していないかのように振る舞い、変わらないための懸命の努力を怠らないことこそ、人を感動させる何かを醸し出す源泉なのかもしれません。
英語の4技能をいかに育成するかという議論が、大学共通テストの運営の問題でおかしな方向にそれつつあります。そしてそれ以前に母国語の4技能も怪しいのではないかという危惧も生まれています。
PISAの試験結果によれば日本人の読解力の低下が懸念されるという結果が出たとのことです。国際比較試験はその測定方法に問題点も感じるので、その結果そのものが事実を反映しているのか否かについては慎重であるべきです。ただ、実感としても若年層のみならず、大人世代以降についても読解力の低下がもたらす弊害が随所で出てきている気がしてなりません。大きな原因は文章をしっかりと読む習慣が減りつつあることに相違ありません。
日本の産業界の悪習として無駄な説明書を作りすぎるということがありました。その反省からいまは直観的に操作できる機械とか、説明なしに始めてしまう社会システムが優先されています。それはそれで素晴らしいことなのですが、個々人が説明を理解することなくなんとなく始めてしまうということが増えています。またその方法について話し合うとか教え合うということもあまりなされず、個々人の試行錯誤に任せるという風潮にあります。こうした中では文章を読んで理解したり、互いにコミュニケーションをして答えにたどり着くということが行われなくなります。自然と読解力、理解力の育成される場がなくなっていく状況にあります。そして、この方法を大人たちは子どもにもそのまま当てはめてしまっています。
子どもたちの読解力低下をスマートフォンなどの情報機器のせいにするのは簡単ですが、それ以前に子どもにものを考えさせる機会を奪っている大人たちの責任も考えるべきではないでしょうか。情報さえ与えれば子どもはそれを勝手に理解できると勝手に考えている。そして、子どもの疑問に付き合い、ともに考え、答えのヒントを出していく過程を今の大人たちはほとんど放棄している。それが読解力とか話の内容を理解する力を身につける機会を奪っているのです。
将来のこの国のあり方を真剣に考えるのならば、大人は子どもの置かれている学習環境にもっと関心を持つべきです。そして特にコミュニケーションの分野においては学校任せにせず、もちろんそれ以前に機械任せにせず、家族とか社会全体で将来の世界を担う人物を育てるという視点を持たなければならないでしょう。子どもたちに考えさせる時間・場所をそれぞれの立場で考えなくてはなりません。
大量消費、大量廃棄が当たり前だった時代は終わろうとしています。環境の維持は至急の命題ですが、経営的にもいかに無駄なコストを下げるかが重要になっています。そのために各業界でいろいろな試みがなされています。
教育業界では紙面の無駄遣いを考えなくてはならないと思います。何でもデジタル化すればよいというものではありませんが、必要ではないものは印刷しなくてもよいと考えます。小テストなどはいわゆる裏紙利用も積極的にしていこうと考えています。また、ちょっとしたメモなども再利用の紙でできます。再利用するためにはサイズを揃えて、しかもすぐに取り出せるようにしておくことが必要です。
生徒が落とした筆記用具などの文房具などもなるべく取りに来させるようにさせなくてはなりません。身近なものを大切に使わせることは大切な教育です。どうしても引き取り手のないものは、必要な人に使わせることや寄付できるものがあれば積極的に行うことも重要です。
コンビニ業界では恵方巻などを注文販売にしたり、賞味期限の近いものを値引きすることなどの工夫がなされると聞きますが、学校でそうした試みをすることは教育的な効果もあるはずです。色々と工夫をしていきたいと考えています。