今日の天気予報には降雪を表すアイコンがあります。積雪にはならないようでみぞれかもしれないとのことです。
富山県に住んでいた頃はこの頃の雪は要注意でした。積もった雪が凍結したり、逆に半融解した状況で転倒しやすくなるのです。車を運転するときはブレーキが効かなかったり、スリップに悩まされました。
雪には様々な思い出があります。美しいものだけではありません。最近は暖冬ですが、万一のために過去の失敗を適度に思い出しておくことにします。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
今日の天気予報には降雪を表すアイコンがあります。積雪にはならないようでみぞれかもしれないとのことです。
富山県に住んでいた頃はこの頃の雪は要注意でした。積もった雪が凍結したり、逆に半融解した状況で転倒しやすくなるのです。車を運転するときはブレーキが効かなかったり、スリップに悩まされました。
雪には様々な思い出があります。美しいものだけではありません。最近は暖冬ですが、万一のために過去の失敗を適度に思い出しておくことにします。
夏目漱石の『坊っちゃん』は親譲りの無鉄砲という性格の自己紹介から始まります。この主人公は自らのキャラクターを先天的要因で納得しているのです。このことをもう少し考えてみます。
主人公は2階から飛び降りたり、周囲から扇動されてナイフで指を切ってみせたり、喧嘩をしたりと凡そマイナスの側面を並べ立てそれらを親譲りと総括しています。親に関しての描写では愛情不足の様が描かれており、歪んだ少年時代が描かれています。
ただ、主人公は父親に関して必ずしも全否定の態度ではなく、むしろ否はあるがよいところもあるという把握をしているようです。明治時代の親子関係については別に考察する必要がありますが、好悪の感覚は単純ではありません。
封建体制を生きた親に育てられる世代であった漱石は近世と近代の間でかなり分裂した思考をしていたのかもしれません。親譲りという一言に込められた意味も複雑で深いものがあるのかもしれないのです。
IR誘致に関して贈収賄があったことでカジノ誘致に対する関心が再燃しています。私はカジノの設置には反対します。
カジノが国と自治体の主導で始められようとしているのには、多額の安定した税収の確保が見込まれるからです。造ってしまえばどんどん金が転がり込んてくるわけですから、人口減少や高齢化で苦しくなっている財政を改善する方策として効率がよいのです。統合型のリゾートと言ってもカジノの収入以外はあまり期待されていません。
我が国はカジノの設置を認めなかったために、ギャンブルは極めて限定的なのものになりました。競馬や競輪などのスポーツや、パチンコなどのゲームなどは公認されており、税収も期待できますが、その他の地下に潜った賭け事はあくまて闇から闇に消えていきます。それをカジノ施設が管理統括すれば飛躍的な税収が期待できます。
ただ、すでにカジノをもっている国々からの報告をみると、どこにも必ず一定数のギャンブル依存症が存在し、それが犯行にも繋がっているといいます。それが分かっていながらカジノを造ることの不誠実を考えるべきではないでしょうか。
税収を得るための方策は別の方法で考えましょう。一度できてしまうと安易な道に深入りしてしまう。カジノ設置には反対します。
自分が思う自分の年齢と身体の年齢との落差を痛感する場面が時々あります。ただ、多くの場合は、それに気づかすに過ごしています。
昨日、晴れ着を着ていた新成人を見て、随分幼く感じました。それは自分が齢を重ねたことの裏返しです。さすがに二十歳と自分を比べることはありませんが、大抵の場合実年齢よりも自分を若く考えています。
私たちは過去の自分を基準にすることは可能ですが経験したことがない未来を考えることはできません。現状把握ですらままならないのです。だから過去の自分がどうしても判断基準となるのは仕方ない。
それがたとえば走らなくてはならなくなったときとか、重いものを運ぶときとかに違和感を覚えるのです。意識の中の自分と現実との乖離の大きさに驚きます。自身の中に発生した年齢差をどう乗り切るか。そこに一種の危機がおきます。
それにどう折り合いをつけていくか。それが齢をとるということなのでしょう。
少しずつではありますが日照時間が伸びています。季節の変化を感じるのはやはり光の量と質です。
鉢植えの四季咲きのなでしこに蕾がついているのを見つけました。いくらなんでも早すぎると思うのですが、植物にとっては暖かい冬であることが影響しているのかもしれません。
私と言えば最近使っていなかったソーラー腕時計に光を浴びせることに腐心しています。時計を窓際に干すというなんとも不思議なことをやっています。
生徒の作文を読んでいて論理的ではないと考えながらも見逃してしまうことがあります。それは読者である私が推測という行動を多めにはさんでしまっているからなのです。言葉を教える教員としては察してはならない。文章に関しては「忖度」は禁物という話です。
今後の国語教育の課題として自己表現力を高めるというものがあります。読解に偏重していた教育のあり方を表現に変えていくのは実はそう簡単ではありません。その方法、手順、そして評価方法などが確立していないからです。これについてはこれからも考えていきたい。このブログでもその一端を紹介することがあるでしょう。ただ国語教師としてやらなくてはならない大前提は物分かりのわるい人になる必要があるということです。
私たちがコミュニケーションをするときには、実際には言葉だけではなく身振り手振り、テンポ、間、声の調子などのノンバーバルな側面を総合的にとらえて相手の意思を判断しています。それが円滑なコミュニケーションの基本であり、特に口頭表現の技能においてはこの側面をもっと教えていくべきでしょう。ただ、文章表現に関してはあくまで文章の記述をとおして自己の意思をつたえるのが基本です。その作文のなかでは曖昧さは許されない時もあるのです。
生徒の作文で最近目立つのは表現の不十分さです。会話では前後関係から察することができるので敢えていわないということも、文章化するときには書かなければ誤解されるということがあります。特に目立つのは体言止めなどの最後まで言い切らない表現です。それが何なのか。何を言いたいのかを最後まで書かなければ誤解を生みます。日本語は打消し表現が最後に来ますので、最後にどんでん返しが可能です。文章で説明する時には断定の助動詞を使うまで言い切らなくてはならない。
教員が添削するときにそれを会話を聞くかのように読者側で想像してしまうのは作文教育に限ってはやめた方がいいのでしょう。誤解を生むあらゆる可能性を防ぐために物分かりの悪い読者になるべきなのです。まずはこれが生徒に表現教育をする大前提と考えています。
意識することで世界が立ち現れるとしたならば、無意識の事象は存在しないのと同じなのでしょうか。
ベテルギウスが星としての寿命を終えつつあると言われています。明るさが極端に落ちているのだとか。ただしそれは数百年前に起きたことがいま目に見えているだけなのです。仮にこの星の最期に起きた爆発の影響が地球に及ぶとするのなら、それを意識していようが、知らないままであろうが最後の審判は突然下される訳です。
意識するとは何なのかをもう一度考え直す必要があります。
働かざる者食うべからずというのは勤労の意味を考えさせる諺の一つです。生産こそが生存の大前提であり、労働なしの人生はありえないという訳です。
ところが、この古諺の意味が変容しつつある。今後の社会を予測する人々の中には働かなくても生きてはいける状況を理想とし、実現可能であるという学者が多数現れているのです。AIなどのイノベーションにより、生産の効率性が高まると人が働かなくても富は蓄積される。これを広く分配することで多くの人々の生活は保証されるという訳です。
人々は生きるために最低限やらなくてはならない勤労からは解放される。そうだとしたらそこで生まれた時間を何に使えばよいのか。より高度な知識の追求や芸術的な活動に向えばよいのですが、私利私欲、権力独占などの方面にいかないとも限らない。そういう社会をどのように運営するべきなのかを考えていかなくてはならないでしょう。
おそらく私の人生の中では起きない事態だとは思います。ただ、考えておくことは必須のことがらです。
最近購入したもので便利な文房具がキャップが要らないノック式のサインペンです。蓋をなくしてしまうことが多い私にとっては大変便利なものです。
このサインペンのペン先は空気中の水分を吸収することで湿気を保ち乾燥を免れているのだとか。素晴らしいアイデアです。キャップレスの万年筆もありますが、こういう発明に関しては日本製品の個性が光ります。
キャップレスサインペンの方はコンビニでも売っているものでこれからしばしば使うことになりそうです。
国旗に使われる色にはそれぞれ込められた意味があるといいます。フランスやイタリアなどのように色彩に託されている意味が深いものはそれを知ると強い説得力を示します。
ただ色彩が惹起する印象が民族によって異なるのも確かです。欧米の一部の民族では緑に嫉妬心を読み取るのだそうです。この感覚は私にはありません。見ているものが同じでも感じることは異なるという事実はいつも意識していなくてはなりません。
色の分節についても共通していると思いこんではいけないようです。日本の古代では青の指す範囲はいまより広いようですし、虹が何色かという国際比較にも興味深い結果が出ています。通時的にも共時的にも色彩の区分は様々です。細かいことを言えば色覚の個人差も考える必要があります。同じ世界を見ているというのは幻想なのかもしれません。
色分けは日本語では分類そのものを表す言葉でもあります。その色分けが極めて個人的な判断によるものである事を再認識しておきたいのです。